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[ロマンポルノ無能助監督日記・第38回]  『濡れて打つ』で監督になったばかりなのに『メイン・テーマ』の助監督かよブツブツ・・・

監督になっても「無能助監督日記」は完結出来ない・・・

助監督を6年7ヶ月やって、『宇能鴻一郎の濡れて打つ』(84年2月公開)でやっと監督になったばっかりなのに・・30になる手前のギリギリ28歳6ヶ月で・・それがまだ完成0号(1/24 )の前だってのいうのに・・ダビング終わって2日後の84年1月20日、撮影所で森田組『メイン・テーマ』スタッフ顔合わせだとよ、チーフ助監督だとよ、ブツブツ・・・

一昨日まで「監督」で、今日は「助監督」かよ、同じ場所でさぁブツブツ・・・

と思いながら、50ccヤマハバイクを三鷹のアパートから調布の日活撮影所まで走らせているオレ。

「末期ロマンポルノ新人監督日記」にしようかと思ったが、ならない。

グズグズ考えたあげく「無能助監督日記」がダラダラ続く・・・
「監督日記」って面白くならない、という説もあるし。

日活の先輩監督たち

ロマンポルノで監督デビューした日活の先輩たちを見ると、デビューしたら次は助監督の仕事に一旦戻りはするが、デビュー作の評価が高い人はその次くらいに2作目の準備に入り、そのまま3作目を撮ったら「契約監督」になってゆく。

デビュー作の評価が低いと、暫く助監督を続けて、3本撮るまで数年かかる場合もあった。

或いは1本だけでプロデューサーに転身する人もいたし、1本撮った事が、決して将来を約束するハナシでは無く、この日活にいつまで「将来」があるのか、分からないのである。

自分の場合、監督デビュー作を撮ったと言っても、まだ完成もしてなくて、会社の誰からも評価も何もされてないのに、もう助監督に戻れってえのかい、ブツブツ・・

だが、とりあえず今回の仕事は、日活作品の社員チーフに「戻された」という感じではなく、日活が撮影所を貸している角川映画、それも薬師丸ひろ子映画への「貸し出しスタッフ」としてのチーフである・・・から、まあいいとするか・・・

ひろ子ちゃんの角川映画、去年は松田優作と共演で根岸吉太郎監督の『探偵物語』が公開されて大ヒット。
ちょうどこの時期も、正月映画のひろ子ちゃん&真田広之主演・深作欣二監督『里見八犬伝』が大ヒット上映中である。
『メイン・テーマ』も森田芳光監督で、大ヒットを約束されている。

・・・だからって何ょ・・・それに、ヒットが約束されてるとは限らんぞ・・

僕が根岸さんと森田さんに結構関係があるのは、noteの読者は知ってるハズ。

根岸VS森田

キネ旬81年日本映画ベスト2の『遠雷』監督・根岸吉太郎(ベスト1は『泥の河』)、2年後83年ベスト1の『家族ゲーム』監督・森田芳光。

80年代前半のフロントランナー若手監督の代表二人の“無能助監督”をやってるんだよね、オレは。

(僕・オレ・私を場面によって使い分けマス)(だ・である・です・ます、も)

この二人の助監督をやっている現役監督は篠原哲雄と明石知幸と私だけ〜

そのお二人のネタで、篠原と映画漫才やったことあるのだ。

ほぼ現在の篠原哲雄監督と金子

カネ「君ィ 森田組は何に就いてるのかね」
シノ「『愛と平成の色男』、『未来の思い出』デス」
カネ「俺、『家族ゲーム』、『メインテーマ』 フフ、勝ったね」
シノ「負けました」
カネ「じゃあ 根岸組いこうか。俺、『情事の方程式』、『朝はダメよ』」
シノ「あ、エロ度に負けたかも。『ウホッホ探検隊』『永遠の2分の1』」
カネ「うーむ 負けた かも」
オチません‥‥

てぇ、やつですが・・・

実は、森田さんが「映画漫才やろうよ、ヨコハマ映画祭で金子とやってみたいんだよ」と言っていたことがあって、「映画漫才」って何?とずっと思っていたんだけど、上のようなやつかな、と思い・・・でも、これ以上ネタ思いつかん。

根岸さんと森田さんのネタだけが多少あるんで、ここで映画漫才の続きするか・・・
(シノは『1999年の夏休み』と『山田村ワルツ』で優秀サード助監督だった)

日活エリート根岸吉太郎


日活エリート根岸さんの場合、助監督は4年やっただけの27歳で監督デビュー、僕のカチンコデビューでもある『情事の方程式』(78年6月公開)の会社的評価がたいへん高かった。

その後、長谷部安春監督『暴る!』(78/11)で、いったんチーフに戻ってはいるが、多分2作目・大谷麻知子&栗田よう子主演『女生徒』(79/1) は早くに決まっていて、準備はしていたのだろうと思われる。

『暴る!』の前の話――
夏休み一般映画勝負作(78年8月公開)だったけれども結果は大コケの藤田敏八監督『帰らざる日々』(同時上映『高校大パニック』)は相当キツいスケジュールだったらしく(僕が助監督に就いた『高校大パニック』もキツかったが)、チーフの上垣保朗さん(後に『ピンクのカーテン』がヒット)が、肝臓だったと思うが、途中で疲労からの病いで倒れて根岸さんに交代する、という事件が発生して撮影所内ニュースとして駆け巡った。

ただ、根岸さんの参加はパキさん(藤田監督)との師弟関係からの応援的な美談で、会社命令のニュアンスは無かった。

監督になる前、チーフをまだやっていなかったので師匠筋のパキ監督『危険な関係』(78/3)で慌ててチーフに昇進させたのだ、と聞いたことがある。

チーフ一本で監督昇進も異例だが。
ロマンポルノ7年目で、マンネリを打破しようと「20代の新人監督を出そう」という気運が先にあったのだ、根岸さんの場合。

助監督一期先輩の村上修さん(『イヴの濡れてゆく』『ウエルター』『ステイゴールド』)は、台本に「チーフ10本やって監督だ!」と書いていた。

僕も今数えたら、結局、チーフはTVも含めて10本やって監督になっているので『メイン・テーマ』はチーフ11本目だ。
(ちなみにセカンドは30本台だと思うが、もう数える気にならんわ)

上垣さんが倒れた時、口の悪い照明の山田さんが「上垣の奴、根岸が2本目撮るって聞いたんで頭に来て病気のフリしてるんだぜ、ストライキしてんだろ」と言っていたな・・・いや、そういうのは後から全く根拠無い事と分かるんですが、山田さんは藤田パキ〜上垣〜根岸のファミリー的な“ゆるい師弟関係”を理解していなかったので、現場では「ネギぼうず」と呼んでいた生意気なカチンコセカンドの根岸さんが、“チーフ1本だけで先輩助監督たちをゴボウ抜きしたので仲間の恨みを買っている”というようなハナシにしたかったのだと思う。

山田さんが若い頃の映画全盛時代の日活は、助監督が50人以上いて、上を押し退けて監督になるなんて、大変な戦いであったろう。

だが、この時代の社員助監督たちは、最早それほどお互いをライバル視していなかった。
僕の上に(同期の瀬川正仁も含めて)4、5人、下に7、8人いただろうか。
作品の数からチーフが不足していたので、フリーのチーフも出入りしていた。
競争意識激しい人間関係ではなく、お互い薄給で呑んで慰め合っていた・・
社員助監督の先輩間では、根岸さんに嫉妬めいた批判などはなかった。

根岸さんの一期上になる菅野隆さん(『ビニール本の女』)に「(後輩が先に監督になって)焦りませんか?」と意地悪く聞いたら「焦るよ(なに当たり前のこと聞いて俺をワザワザ苛立たせようとしてんだよ)」と睨まれたことがあったっけ・・・

助監督の宴会で、氏づけのあだ名で遊んでいた伊藤秀裕さん(エクセレントフィルムズ代表)が、「根岸えーカッコ氏ぃ」と言ったら皆さん爆笑した。ファッションセンス、一番あったと思う。

浅草根岸興行の御曹司ということで、撮影部や照明部のスタッフ間では(早く監督になれたのは)「血筋だよ」と噂されていたのを聞いたこともあったが、企画部や演出部内では、本人の人柄やセンス、押しが強そう(押し強くないと、監督は難しいだろ、と思われていた)なのを認められていて、それがデビューの『情事の方程式』で証明されたという訳だ。

79年9月公開の3作目『濡れた週末』は名作と呼ばれ、根岸さんはスンナリ契約監督となり、「スター監督街道」を爆進してゆく。

80年は『暴行儀式』『朝はダメよ!』、81年は『女教師汚れた放課後』『狂った果実』『遠雷』と連打・・・

この前年の83年には、薬師丸ひろ子・松田優作主演の角川映画『探偵物語』を撮って、僕が入社の頃に比べても、もうかなり先に行っちゃっている感。女優さんとの噂もあったし・・それは純粋に嫉妬の対象。

『メイン・テーマ』は、スター監督が撮る薬師丸ひろ子の大メジャー角川看板アイドル映画であり、根岸吉太郎の次は森田芳光という事だった訳である。

師・那須博之と森田さん

“心の師”と、少年のような想いで慕っている那須博之さん(『ビーバップハイスクール』)も、この3年後に薬師丸主演『紳士同盟』(86/12)を撮る事になるが、日活デビューは助監督6年目であった。

その『ワイセツ家族母と娘』(82/5)が会社的には大悪評の末に編集で切られてヘソを曲げて韓国へバイクで出奔、懲罰委員会にかけられて「自衛隊なら反逆罪」と言われて辞表まで書いたが根本悌二社長判断もあって踏みとどまり、懲罰人事的に外部から来た森田芳光監督『噂のストリッパー』(82/9)のチーフに就かせられて森田さんをそれなりに扱い、ほぼ一年後に2作目『セーラー服百合族』(83/6)で今度は大好評となり、「日活・那須の時代」を作った。

が、森田さんが日活で2本目が入る時には「那須君はやめてくれ」と言って、自ら調べた金子を指名して『ピンクカット太く愛して深く愛して』(83/1)と『家族ゲーム』(83/6)のチーフを、僕は連続して担当することになって、森田さんと近しくなった。けど、「師」とまでは思ってないス。

それからほぼ一年後に、この話の冒頭になるのでス。

(伊藤秀裕さんによる氏づけでは那須さんは、「那須いきっぱな氏」金子は「金子よくわかりません氏」)(伊藤さんと飲んでいる時「煙草買って来て」と言われて「なんでですか」と言ったことがある)

『メイン・テーマ』スタッフ顔合わせ

顔合わせでの森田さんは、『家族ゲーム』でキネマ旬報ベストワンを獲ったどころか、映画賞総ナメで得意満面で着るものも違っていた。色スーツ着ていたと思う。前はジャンパーだった。年賀状で「流行監督宣言」と書いていた。

サードに就く明石知幸(『免許がない!』)が「金子さんは角川映画初チーフになります」と、なんだか得意そうに言うので、森田さんは嬉しそうに「ほう、やったな!」と笑った。

僕は、それがなんだっての?と思ったが、「角川映画のチーフ助監督をやる事には価値がある」という“圧”は感じた。しかし、一昨日まで監督で今日は助監督、角川映画だろうがハリウッド映画だろうが同じことじゃん、という価値観から、笑顔で不貞腐れていたが、露骨に顔には出ず、次第に不満が滲み出て来るというキャラであった。

明石だって、ついこないだまでは僕の助監督だったわけじゃん。

当然、森田さんは「初監督の現場はどうだった?」というような事を聞いてくれたはずが、まるっきり忘れている。カメラマンの前田米造さん、照明の矢部一男さんも顔合わせにいたはずだが、覚えていない。

いや、聞いてもくれなかったから、覚えてないのかな・・・

自分が「あ〜あ、また助監督かよ」と思っていた、という事しか覚えていない。

監督になって、エゴイズムが更に強くなったのかも知れない・・森田監督にどう貢献出来るか、なんて考えていなかったなあ・・・逆に、この人は放っておいた方がいい、とか思っていたかなあ・・

薬師丸ひろ子

森田組とか角川映画とか言うより、これは薬師丸ひろ子の映画で・・・

でも、実は昨年の大林宣彦監督『時をかける少女』と『探偵物語』の角川映画二本立てでは、『時をかける少女』だけ見て興奮して帰ったので、この時まで『探偵物語』は見ていなかった。(かなり後で、文芸地下で見ている)

今の時代はミュージックビデオで当たり前の表現だが、『時をかける少女』のラストタイトルバックで、全キャストが登場シーンの中でカメラ目線になり主題歌を原田知世と一緒に歌うところは衝撃だったなぁ、こういう事をやりたいんだよなぁ、と感動して泣いていたなぁ、それで充分だと思ってちゃんと金払って見たのに一本で帰ってしまった・・・
(このタイトルバックは、『時かけ』チーフ助監督だった内藤忠司さんが演出しているとのことである)

『濡れて打つ』のラスト、「エースをねらえ!」の笑顔の山本奈津子の背景の星空は、黒カーテンに穴を開けて電飾を仕込んだものだが、『時かけ』のファーストシーンのような“わざとらしい星空合成”にしたかったのだった。

とは、言いながらも、大林監督に傾倒した、という訳ではない。『時かけ』には、僕にとっては納得のいなかいヘンなところも随所にあった。
心はあくまでフカサク・クロサワ・・・とは言いながらも、『里見八犬伝』に感動した訳でもない。
『里見八犬伝』ではひろ子ちゃんより真田広之に目が奪われていたな・・・

78年入社当時、日活に撮影が入っていた『野性の証明』は早めのラッシュに潜り込んで見ており、「青いふぐぎだ男の人が・・」と言ってる少女(薬師丸ひろ子)は何者?という不思議な衝撃は相当印象に残っていて、『飛んだカップル』も撮影所試写で見て、なるほどこういう子なのかオモロい、と腕を組んだが、「相米慎二、なんでカット割らんのだ?、新人だから割れんのか。ワンシーンワンカット流行ってるからスタイルに見せようとしてんのか」とも思ったな・・・

ひろ子ちゃんが『セーラー服と機関銃』のテーマソングをTVで突然歌った時には、あまりに上手いのでびっくりして弟に電話したくらい。

セーラー服姿のひろ子ちゃんとは、撮影所で何度もすれ違っていて、ちょっと太ってきたな、とか思っていた。 

『人妻集団暴行致死事件』や『炎の舞』の優秀なチーフから、『わたし熟れごろ』で監督となり、プロデューサーに転身した中川好久さんが『メイン・テーマ』のプロデューサーであり、この人、人を楽しく乗せることが上手いので、通常のロマンポルノの助監督に戻るより、いろいろ面白い事もあるのかも・・ただワクワク、ウキウキという感情にはならないな。
基本、助監督というのが嫌で嫌でたまらなかったからさ・・・

ひとつ、その中川さんから釘を刺されたのは、『探偵物語』では、当初の予定であった昨年の春休みを使っての撮影が延びてしまい6月までかかり、ひろ子ちゃんは、せっかく合格した玉川大学の最初の学期が殆ど出席出来なかったから、2年生になる今年の『メイン・テーマ』は春休みじゅうに撮影を終わらせること、それが、メインテーマだから、と中川さんは言っていた。

そのスケジュールは僕が書いて、森田さんにキチンと守らせて撮らせなければならない。それが僕の仕事。プロデューサーの番頭みたいなものである。

ところが、森田さんは呟いた。

「根岸が6月まで撮って、なんで俺は春休みだけなんだよ」

・・・という不満が、森田さんにはあったのだった。

再び根岸VS森田

無能助監督日記Vol.32『家族ゲームで松田優作から最高のチーフだと言われた訳は・・・』からの引用加筆になりますが、『家族ゲーム』が公開の頃の日活食堂で、森田さんとお茶を飲んでいた時に、根岸さんが通りかかったその場面の忠実な再現です。
(僕の酒の席での得意な話なので、知っている人は何度も聞いているだろう。読むより聞く方が面白いと思うが・・・)

根岸さんは紳士的に穏やかに、
「評判いいじゃない」
と、『家族ゲーム』のことを言ったら、森田さんは、
「ありがとうございます!」
と、最敬礼くらい頭を下げて喜んだら、根岸さんはフッとニヒルに笑って、
「俺が言ってんじゃないよ」
と、言って去って行った。
しばらく間を置いて、根岸さんが遠くへ行ったことを確認し、森田さんは、根岸さんの口ぶりを真似するように、
「“俺が言ってんじゃないよ”だってよ」
と、毒づいてウヒヒと笑ったのであった。

森田さんは、ライバル意識を隠さない。大森一樹さんも、結構標的に上がっていた。
「大森が『オレンジロード急行』の時、俺は飯田橋ギンレイホールでモギリやっていたからさ」と恨めしそうに言っていたことがある。

でも、野田秀樹と対談した時には、野田は「爽やかな人じゃん」と言ってたな。競争意識を表に出すと、人は爽やかになる。
森田さんは、当時の小劇場ブームのドキュメントを撮って、野田を取材している。
(『劇的ドキュメント レポート‘78 ~’79』)

ロケハンスタート、『濡れて打つ』完成

翌1月21日は、もうロケハンで、2台の車で出たが、雪が降っていて、中央高速のカーブで、先行していた監督車がスリップして一回転したのを後方から見た。それで、ロケハンは中止となり、赤坂のニューセンチュリープロデューサーズに入った。

森田さんは興奮していて「俺と(カメラマンの)前田さんが一緒にいなくなったら、日本映画の大損失だよ」と言っていた。“もしかして事故”の恐怖からの言葉が生々しかった。
正式な車両部を雇ってのロケハンではなく、チェーンのついてない制作部の藤田君の運転だった。

1月24日は『濡れて打つ』の0号試写で、狛江の東映化工で見てから、新宿スカラ座で明石と『里見八犬伝』を見て、しゃぶしゃぶ食べている。と、書いてるってことは奢ってるんだな。

1月25日は、九段下のグランドパレスで『メイン・テーマ』の記者会見。

野村宏伸くんが22,000人の中から選ばれ、フラッシュの集中砲火の中、ピッカピッカの表情をしていたのを舞台袖から見て、良く覚えているが、ホントにこんな素人っぽい男の子で大丈夫なの?と心配になる反面、森田さんが好きそうな感じの男の子だな、とも思った。

1月27日は、日活撮影所で『濡れて打つ』の初号試写。

怖い重役の皆さん、にこやかに笑って試写室から出て来て、合評回でも文句は出なかったが、最大に怖い権力者・武田専務は欠席だった。何の用であったか・・?

武田専務とは、その後、食堂でコーヒーした記憶があり、直接「爽やかな青春映画になってる」というお言葉を頂いた。

デビュー作、会社の評判、まあまあいいじゃん。

その日は、仙川の「鳥せん」の狭い個室で打ち上げとなり、楽しく飲んだ。

山本奈津子が機嫌良くお酌して回っている姿が嬉しかった。

撮影中は、笑っている顔はあまり見なかったよな・・・あれ?、まだ未成年だったはず・・お酒は飲んでなかったろうな・・セーラー服着ていたような記憶もあるが、学校帰りに来たのだったな、確か・・この時代は、その辺りは大らか。

翌1月28日は、浜松ロケハンで昼間はうなぎを食べ、29日はマレーシアから帰って来た那須さんに焼肉をご馳走になって栄養たっぷりだったのだが・・・

1月30日は、スタッフルームで、台本に沿っての香盤表を書いていたら、立ちくらみで床にぶっ倒れた。理由は分からないが、生まれて初めてのことで、サイレント映画でも見ているように、周りの風景が回転して、気づいたら、床に倒れていた。

医者には2月16日に行って、23日には「異常ナシ」の診断結果だったが、連日栄養価の高いものを食べながら、貧血?

その時は「俺は、どっか悪いんだ、きっと」と思い込もうとしていたみたい。

「助監督復帰憂鬱症」だったのだろうか・・・

2月1日から5日までは沖縄ロケハンで、森田さんに誘われてホテルの競馬ゲームに興じて「熱くなった」と書いている。

薬師丸、略して・・・

2月10日は、赤坂NCP(二ユー・センチュリー・プロデューサーズ)のオフィス(と言っても、マンションの一室)で、薬師丸ひろ子と森田監督との初対面に同席した。
改めて見ると、圧倒的に可愛い♡。だけでなく、とてもしっかりしている人と感じられたし、親しみやすさと潔癖性が、同時に存在して輝いて見える。
森田さんによる脚本の説明を、ひと言ひと言、深くうなづいて咀嚼している様子であった。
30分くらいしてからであったろうか、森田さんが至極真面目な顔で「僕は、現場では、『ひろ子ちゃん』とは呼びません。『薬師丸』と呼び捨てますから」と、宣言すると、ひろ子ちゃんは、

「はい」

と、同様に深くうなづいた。
一瞬の間を取って、森田さんは、ギャグを放つ感じで、

「薬師丸・・・略してヤクマル!」

と言った。
解説すると、森田さんはシブがき隊の映画『ボーイズ&ガールズ』を撮っているので、『薬師丸』は略すと薬丸裕英を連想させる、という意味であったが、ひろ子ちゃんは、「?」となったきり、反応が薄かった、というか殆ど無かったので、森田さんも、それ以上は何も突っ込まなかった。

記憶は、そこでプツンと切れている。

制作の宮内君が「ひろ子は、ギャグだと思わなくて、何か深い意味があるんだろうと、読み取ろうとしていましたね」と言っていた。

『メイン・テーマ』スタート、『濡れて打つ』初日

『メイン・テーマ』は、千葉房総の幼稚園の園庭から始まる。
園児たちが頭に袋を被って、追いかけっこしているところに、ひろ子演じる19歳の先生・小笠原しぶきも加わって追いかけっこする。

しぶきは、園児カカルを毎日車で迎えに来るお父さん、財津和夫演じる御前崎さんに憧れの気持ちを持っているが、御前崎さんが大阪に転勤になり、園児みんなと共にサヨナラして、車が去って行ってしまうと、園児の一人が何故かいきなり(たぶん自分にかまってくれないから)しぶきのお腹をぶつので、しぶきははずみで園児の頬を叩いて転ばせてしまい、大騒ぎになる。

このことで、幼稚園をやめたらしいしぶきは失恋の気分で浜辺を歩いている。

そこに白い4WDのダットサンが現れ、しぶきを追い回す。

砂浜に転がったしぶきの前に、ダットサンから野村宏伸演じる18歳の大東島健が現れ、「こんなところで何してるの?」

と言うところから二人の出会いがスタート。

その後、大阪→神戸・須磨→沖縄と、舞台が移ってゆくロードムービー、と言えるだろうか。

実は、御前崎さんは財津和夫さんに決まる前の候補がいた。その人も財津さんと同じく、それまでは演技経験の無い有名文化人であったが、先に別な映画出演が決まり、スケジュールが空いていたとしても、森田さん的には初出演でないと面白く無いらしく、その人を候補から外し、何を思ったのか、「この役は金子でもいいんだ」と言い出した。

「金子でもいい」のか「金子がいい」のか、言われた方は驚いて混乱し、こそばゆい感じもあって、数日は夢想していた。
「金子、やってみるか、出来るだろ」とか言うんだもの。

監督デビューしたばかりで、角川映画出演・・これは有名になれるぞ・・

森田さんは「金子はアイドル監督になれ」と言う時もあって、いったい、何を思ってくれていたのであろう。

夢想は数日だったか、1週間くらいだったか・・・御前崎さんは財津和夫さんに決定した。

御前崎が追いかけるジャズシンガー伊勢雅世子役には桃井かおりさんが決まり、クランクインも2月24日となった。

2月18日は『濡れて打つ』の初日で、当時はロマンポルノで監督の舞台挨拶登壇は無く、女優だけが登壇していたので、その時間に池袋北口日活に間に合うように、「スタッフなんで」と窓口で言って入場して後ろで立って見ていると、壇上から山本奈津子が僕を発見して「なんと、監督が来てます。監督〜!」と手を降って「こっち、来て来て」と招くので、拍手をされながら壇上に上がった。

何を言ったかは覚えてない。満員の客だった。

翌2月19日は、日活撮影所に神主としての角川春樹社長が来て、撮影所神社でお祓いとなった。

角川社長は本物の日本刀を抜刀して祝詞を上げた。

この時の、僕の礼の浅さ・・・自分ではそれほど浅くは無いつもりだったが、見た人から聞くと、ヒョイと頭を下げたか下げなかったかでしかない殆ど下げてない、というポーズだった、と言われ、「やる気なさ過ぎ」と、後々まで語り継がれることになったのであったスイマセン・・・

...to be continued















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