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ロマンポルノ無能助監督日記・第23回[那須博之夫妻と飛んでカルカッタ]

1980年が暮れようとしている。
那須博之さんは、この2年前『ハワイアンラブ・危険なハネムーン』(78年林功監督・加山麗子主演、フランキー堺も出ている)にセカンドで就き、ハワイロケに行っていて、その時の面白い話を随分と聞いた。
同じ組でスクリプターを務めた秋山みよさんが「那須は、あれもこれも、だね」と呆れて言っていた。
“あれ”は仕事、“これ”は“性”関連のコトを指す。
その那須さんが「金子くん、インドいかねえかい」と言ってくれたので「行きます!」と即答。
年末年始の正月休みの間に1週間で行って帰って来る計画だ。

もちろん海外は初めてで、国内一人旅も一回しか行ってない25歳の金子は、品川の合同庁舎でパスポートを申請。

1980年最後の仕事は、藤井克彦監督・麻吹淳子主演『OL縄奴隷』だが、12/15インを記入しているのみで、以後は全く記述が無い空欄。
もう、頭はインドでいっぱいだったのだろう。

覚えているのは、両手両足を縛られている全裸の麻吹淳子の股下に潜り込み、前貼りの上から細いホースをガムテープで装着したことくらいか・・・
おしおきで水分を多量に飲ませられて我慢出来なくなって、バーっと漏らしてしまい、恥ずかしがらせる場面のために、ポンプで仕込んだのだった。

『OL縄奴隷』イン前の日曜日(12/6)に、新宿文化で、満員なので2200円の指定席を買って見た久々のロマン・ポランスキー『テス』は衝撃的だった。
テスが自分の強姦された過去を告白する間はピントがボケていた純情男が、告白が終わるとピントが合って、人相が変わっている、というゾッとする演出は、『クロスファイア』で男女を変えて真似した。
矢田亜希子にも『テス』を見せて「ナスターシャ・キンスキーになったつもりでやれ」と言った。
・・・あ、時代飛び過ぎ・・それはこの20年後の話でした・・・

クランクアップの日も記録して無いが、撮影12日間だとすると12/27。
翌12/28 から書いている。

6:30起床で8:30に新宿ロールスロイス前に着いたら、那須さんに「遅い!何やってんだよ」と一括された。
「荷物、多いなぁ、おい、そんなにあるのか」
真知子さんも一緒で、小さな身体に大きなバックパックを背負っている。
まだ“バックパッカー”という言葉は無い時代。
僕は、二人に比べると、一個手持ちの荷物が余計だった。
よそ行きの背広なんか入れていたのが、一度も着ず、荷物に過ぎなかったと分かる。
上野まで“国鉄”で行って、京成線で成田へ。
リムジンバスは時間が読めないという那須さんの判断だった。

空港で、真知子さんが地平線の木立を見て「あそこから(過激派が)やって来たらどうする?」と聞くと、腕を肩に回して「旅行やめて一緒にやるかい」と、那須さんは笑って言った。
冗談もいいところだと二人とも分かって言ってるが、成田闘争の記憶は、まだ生々しかった。
二人とも、学生時代にヘルメットを被った事はあるが、ゲバ棒振るう実戦はないみたいだ。いや、那須さんはあったか・・・?(4年上なので)
今思うと、好きな両親と一緒にいる子供のような錯覚というか、幼い頃の家族旅行の時みたいな、浮き足立つ幸福感があった。

海外への個人旅行がまだ一般化していない頃、ツアー崩れの航空券を手配するフライトプランという事務所が原宿にあって、竹下通りを現金30万円を持って行った。
(30万円というのがチケット代だけだったか、旅の総予算だったか、記憶が曖昧で記録も無いが、「30万」という記憶しかない。当時はエコノミーでもそれくらいしたかも知れない)

音も録れるシングル8カメラ(上部にマイクが付いている)を持って行き、とにかくはしゃいでいた金子。
12時に成田発で飛行機が飛び立ち、雲の上に出ると「やっと日本を脱出しました!」と座席で自撮りした。
チト恥ずかしいが、この頃の若者の多くは、“日本脱出”に憧れていたと思う。
凄い解放感があったよなー

トランジットの香港の空港では、テレビ英会話で習得したつもりの英語を試したくて、白人の乗客にインタビューしてまわった。
「Do you like Soviet Union?」と、何人かに聞いた。
78年にソ連がアフガニスタンに侵攻し、80年のモスクワオリンピックを日本はボイコットした年だ。

先ずバンコクに夜8時に着き、薄暗い安ホテルに一泊。
ツインルームで、那須夫妻と僕とでそれぞれのベッドに寝た。
那須さんは、谷恒生の「バンコク楽宮ホテル」を持って来ていたが、モデルのホテルではないかと推理、「ここじゃねえかなぁ」と、鼻息を荒くして部屋の雰囲気と本の描写を比べていた。

寝る前に、街に出ると、学生時代に見た昔の日本映画を思い出した。
黒澤の『野良犬』とか。そして、スリウォン通りのストリップショーを見る。
ミラーボールの下で、本番ショーもやっていた。
真知子さんは、ホテルに帰って泣いた。
女性が、なんであんなことをさせられているのか、という怒りの涙だ。

そのバンコクを翌日早朝出発で、昼にカルカッタに到着。
飛行機扉から出て外気にあたると熱気が「がーん」と顔を殴ってくるような感じで、タラップを降りると、首輪をつけてない犬が二匹寄って来た。
あれは、麻薬取締り犬だったのだろうか・・・野良犬であるはずが無い、いくらカルカッタでも・・・いま、コルカタだけど。

フライトプランの小林さんが空港表で待っていて、タクシー料金を交渉してくれて、僕らは貧民街とまではいかない“下の上庶民街”みたいなところの「モダンロッジホテル」という一泊100円のホテルまで行くが、小林さんは、後は個人でお楽しみ下さい、日本製のゴム持って来ましたか、というような事を言って空港でバレた。とにかく暑い。

モダンロッジでは那須夫妻とは別々の部屋だったが、木のドアで、南京錠をかける鍵だ。
カメラを回しながら那須さんの部屋に入り「どうですかー」と聞くと、「なかなかいいよ、物売りの声が聞こえたりして」と言う。
窓には鉄格子がついていて、強盗が入れないように安全にはなっているが、「地球の歩き方」によると、その窓から、寝ているあいだに釣竿のようなもので盗まれる場合がある、と書かれていたので、大事なものはベッドの身近に置き、特にパスポートは腹巻に入れた。

マーケットでは8ミリを出すと、わぁっと人々が寄って来た。暑さが増す。
好奇心のエネルギーがすごい。

リキシャ(人力車)に乗って3時間のインド映画を初めて見ると、ダンスモブシーンのクォリティに驚くが、何故かピンクレディの音楽(モンスター)が盗用されたシーンもあった。
ラストで悪者が神様に退治されると、満員の客はやんやの喝采。
映画終わって12時過ぎでも、涼しくなった映画館の前にはリキシャが多数待機していて、お客を送る。だいたい半分には値切れるが、交渉がめんどくさい。

撮影“欲”のようなものは尽きない。どこにカメラを向けても画になる。
川に豚の死骸が流れて来て、近くで体を洗っている人間を同一画面に入れようと、橋の上から狙った。
野良犬と豚と鶏と人間を、同一画面に入れようと、望遠にして撮った。
周りから見られている“スター感”みたいな感覚はあったが、人種の優越感とかは全く無かったと思う。
日本人のなかに妙な奢りが生まれて来たのは、いつ頃からなのだろうか?
ものが安いのには興奮したが。

三人でアチコチを歩き回り、僕が不満を述べたのだろう、真知子さんは「金子君はコドモねえ」と何度も言われた。
「僕は鞄持ちみたいだ」とか言ったんだっけかな・・・結構、自分のバカ発言は消去している。

那須さんから、「手を出して来る物乞いには何もやらないように。特に子供には注意しろ」と注意されていたが、英語で「I ‘m a student」と言ってくるのが分かると、寄付を求めているのだと信じて少額を渡してしまった。
それで、そいつが、前を行く那須さんに、
「Your friend gave me some money」と言って更に寄付を求めたら、
那須さんが、
He is not my friend !
と、大声で言って、そいつはびっくりしてキョトンと立ちすくんだ。
この話は、その後、何度も真知子さんの笑い話で語られた。
「あいつの顔ったら無かったよね」と。
真知子さんは、那須さんのそういうところを愛していた。
僕も痛快で好きだった。

リキシャの爺さんがニヤニヤして、万国共通の手の指のジェスチャーをしてジギジギに連れて行く、と言うので、真知子さんを置いて、僕らは二人で行った。
詳細はまあ・・・
帰って、逐一真知子さんに報告した。

翌年の1/21に、那須さん宅で、他の友達も呼んで、30分に編集した8ミリ上映会をやったが、この時のジギジギの記録も、真知子さんが“写真付き旅日記帳”に面白く書いていて、読まされ、赤面した。

二人がベナレスとプーリーへ行くと言うので、3日間、僕は一人でモダンロッジに残った。

1/1に新年レースの競馬場へ潜り込んだり、商業映画の撮影の現場に出会ったり、牛市場、博物館、演劇(やっぱり神様が活躍する)と、あちこち一人で行ってカメラを回した。

映写会の時、真知子さんに「テーマは貧富の差ね」と言われて笑われたが、その通りであった。
貧富の差が一目瞭然でダイナミックで凄い。それが画になった。

インテリ風の奴と知り合って、家まで行って仲良くなったかと思ったら、「日本製のミニカメラ持ってないか?高く売れる」と言って来て、それが目当てだったか、と分かった。

調子に乗って12時過ぎまで歩き回り、ちょっと道に迷ったかな、と思っていると、パトカーが寄って来て、警察に保護され、
「This area is not safety」
と言われ、パトカーでモダンロッジに運ばれた。

1/3には、カルカッタへ戻って来た那須夫婦と慌ててお土産を買い、那須さんは真知子さんに毛皮のコートをプレゼントして、とても喜ばれた。そしてバンコクへ戻った。
バンコクでの4時間のあいだに、新富士ホテルのロビーに真知子さんを残して、二人で飾り窓の売春マッサージ街を見学だけした。
“見学だけ”はホントですから。

飛行機の中で寝て、翌1/4、成田到着。
その飛行機の中でインドに1年いたという若者と会うと、彼はボロボロの服で、裸足であった。
「靴がねえよ」とゲラゲラ笑いながら別れた。
“インド行って人生観が変わった”という話は、この頃、良く聞いた。
インド旅行記を書いた藤原新也の「東京漂流」や、「乳の海」など読んで、影響を受けた。

那須さんの「インドに行って帰って来たら、頭が吸い取り紙だぜ」という言葉通り、帰って来た日本を見て、“逆カルチャーショック”を受けるのである。
「日本て、こんなだったっけ?」というような・・・

それが面白くて、翌81年も正月休みは那須夫妻とタイへ行った。
チェンマイで、三人でバイクをぶっ飛ばした。
帰ってから、撮影所仲間に「チェンマイ金子」とか呼ばれた。

次の82年は単独でスリランカへ行き、帰って来たら『家族ゲーム』チーフの現場が待っていた。
この時、那須夫妻はアメリカへ行っている。物価が高いので驚いた、と言っていた。
(那須さんは82年5月に『ワイセツ家族 母と娘』で監督デビューした)

更に、次の83年、僕は年末に撮影の『宇能鴻一郎の濡れて打つ』で監督デビューして、4日だけの正月休みでマレーシア・ペナン島で那須夫妻と合流して、初監督の現場話を報告した。

更に次の84年は、バリ島へ。
この時は、監督3本撮っていて、1ヶ月の休みがあった・・・というか、いつ次の仕事があるか分からないので、1ヶ月くらい行っても大丈夫だろう、というスケジュールだった。
1週間で島内を一周して、那須夫妻と別れ、一人で夜のフェリーでジャワ島のスラバヤへ行き、3週間後にジャカルタで那須さんだけに再会すると、「金子君に、一般映画の話が来てるらしいぜ」と言われた。『みんなあげちゃう』のことだ。
30歳になる年だ。

那須さんとのアジア旅行は、僕に大きな影響を与えた。
その次の年は、一人でメキシコへ1ヶ月・・・写真を撮って、ノートにして、那須さんに、旅のエピソードを報告した。
(メキシコの帰りに寄ったロサンゼルスのユニバーサルスタジオにショックを受けたが)(その頃は、ロサンゼルスが物凄い危険な場所だと思っていた)(のんびりのメキシコから次は危険なロスだ、と思うと、悲壮な覚悟があった)

那須さんにとっても、大きな経験だったと思う。
デビュー作『ワイセツ家族 母と娘』のテーマは「アジアと日本だよ」と言っていた。

しかし、これだけお世話になっておきながら、助監督として1本も就かなかったのは、どういう訳なのか、と思われるであろう。

「俺が監督になったら、金子君は助監督やってくれるかい」
という話をされた時、
「いやあ、やりたくないですねー」
と、はっきり言った・・という会話があったかどうか、もう分からない。
那須さんの助監督になったら、この僕たちの特別な関係は失くなってしまう、という恐れを感じていたのだった。
そのことを繰り返し考えていた記憶がある。
那須さんのカリスマ性には逆らえないが、言うことは時々矛盾する。
その矛盾のありようが、人間的魅力でもある。しかし、那須監督から「仕事」として矛盾することを言われたら、無能助監督としては、その矛盾にどう対応するのか?

ジャカルタの窓の無いホテルで、二人で一つのベッドで寝たことがある。
他に部屋も無く、他のホテルを探せる時間では無かった。
蒸し暑く、扇風機を付けて、お互い背中向きで寝たが、僕はこの時、那須さんに締め殺される夢を見たのであった( ̄▽ ̄)

「無能助監督」とは、ダサいだけの意味じゃない。
読まれてきた方は分かったかと思うが、就いている監督を尊敬せず、自分がその監督を“監督している”ようなつもりの助監督だから無能なのだ。
無能と言うより有害助監督だ。監督を助けないで、自分の将来の映画のことだけ考えてる助監督・・僕のような助監督に就かれたら、監督は困るよ、冷静に観察されて批評され、要求された仕事はちゃんと出来ない・・・バカヤロウ(゚∀゚)
那須さんも、それを見抜いていたのだろう。
「金子君とは、仕事関係にならない方がいいかも知れないな」
と言われたことはある。
だが、真知子さんはそれを知らない。
「金子は裏切った」と言われたことがある。笑ってだけど。

その後、那須さんの助監督に就いた人に聞くと、那須組がいかに大変だったか話される。
『ビーバップハイスクール』などを複数本やれている根性のあるタイプは、ほぼ体育会系だ。
やっぱり就かないで正解だったな、と長年思っていたが、死なれてしまうと、何故1本もやっておかなかったのか、と後悔している。
現場が大変だったことを、楽しそうに話されるのを見るとウラヤマシイと思ってしまう・・身勝手なもんですねー

82年4月、30分のビデオ作品を1日で撮って、「にっかつ生撮りビデオ」という商品となり、それが5本になった那須さんは、次に“5日で撮ること”を条件に『ワイセツ家族 母と娘』でロマンポルノ初監督を引き受けた。
この当時は、6日で撮る作品も増えて来ていたが、10日や8日作品もあって、5日というのは異例の短さであった。
僕が83年末に監督した『宇能鴻一郎の濡れて打つ』も、当初、6日で撮ることを条件とされたが、8日に延びた。(年末だったので、お咎めなしだった)

『ワイセツ家族』が5日で撮り切れたかどうか、ちょっと分からないが、多分、5日で終わったであろう。
撮影所の食堂で、阿藤海ら出演者に囲まれて、上機嫌の那須さんの姿を覚えている。
僕は、この時期は川崎善広監督で『聖子の太股』第二弾の脚本を依頼されていたので、物理的に就けなかった、という言い訳もある。
ホン、書いてない時だったら、やったのかな・・・?
撮影の杉やん(杉本一海)からは、「那須はキチガイだね」と言うのを聞いていた。

5/27『ワイセツ家族』のオールラッシュ後、『聖子の太股 ザ・チアガール』の本読みだから、撮影所試写室でオールラッシュを、一番後ろのベンチ席で見ようとしていたら、黒澤直輔さんも、こっそり見に来た。
「さー、那須ってどんな映画撮るのかねえ」
とニコニコわくわくしている表情だった。

東映のヤクザもの、特に深作の『県警対組織暴力』でアカ嫌いの刑事で強烈な印象を残していた汐路章がヤモメ暮らしの老人で、そこに、志麻いずみと森村陽子の母娘が同居することになる、というプロットだ。
森村陽子は、『高校大パニック』で僕が間違った芝居をつけ、『桃尻娘ラブアタック』でファンキーさんに推薦した美少女で、これが初ロマンポルノとなって、可愛く新鮮なヌードを披露した。
この少女が爺さんの汐路章を籠絡して、母親もやって来て、財産を乗っ取ろうする話になる展開までは分かりやすいが、そこに阿藤海の親戚もやって来て、これも財産目当てだが、更にどんどん登場人物が増えて、乱痴気騒ぎになってくると、何を見て良いのか分からなくなってくるが、とにかくエネルギーは凄い。みんなテンション高い。
だが、僕の隣の黒澤さんが、「那須、わかんねえ」と頭を抱えて言い出した。
後半では、笑いながらだが、「わかんねえよ、那須、わかんねえ」と、ベンチ席に寝転んだりしながら悶えていた。
確かに悶える映画だ、これは・・・
すっぽんの首を切り落とすドアップがあった。

オールラッシュは紛糾して、とにかく短く切れ、ということになった。
脚本を書いた真知子さんは、泣きながら会議室から飛び出して来た。
次の自分の本読みがどんなだったか、記憶が無い。

完成尺は60分なので、20分くらいは切ったのではないか。
“スッポン頭切りドアップ”は無くなっていた。
毒があまり感じられ無い、呑気なコメディ映画になっていた。
「アジアと日本」というテーマは微塵も感じられない。
那須さんは、悔しかったろうが、具体的に不満を語ることは無く、映画完成後、バイクで一人旅に出て、フェリーで韓国に渡った。
それを僕は、真知子さんから聞いていたが、助監督部では、「那須は行方不明」という話になっていた。
それは、まだ社員の身分の那須さんの次の仕事は助監督であって、初監督作が評判悪いので、「休ませないで、直ぐにでも助監督をやらせろ」という人事的な考え方である。
家に連絡しても、真知子さんは「どこに行ったか分からない」とシラを切っていた。
制作部も騒然としていたが、僕が口を割ることはあり得ない。
「那須はどこに行ったか、知ってるか」
と、聞かれても、「わかりません」と答えていた。
やがて、1ヶ月か2ヶ月後に帰って来た那須さんは、「懲罰委員会」にかけられた。
そこで、韓国に行っていたことも、真知子さんから連絡があったこともバレたようだ。
委員会の議長をしていた武田靖製作本部長から「この行動は、自衛隊なら反逆罪に相当する」と言われ、厳しい処分が下った。
これは、那須さんから聞いた話であるから、武田専務が本当にそう言ったのかは誰にも確かめて無いが、那須さんの言葉としては正確に覚えている。
「これは、自衛隊なら反逆罪に相当する、ってな、言われたんだよー」
と、なにか嬉しそうだった。
それで、那須さんは辞表を書いた。
だが、根本悌二社長が、たまたま地方で『ワイセツ家族』を見て、「面白いじゃないか」と言って、社長室に呼び、辞表を那須さんに返した。
「ということで、首が皮一枚で繋がったんだよー」
と、やっぱり面白がっていた。

だが、それで与えられた次の仕事が森田芳光組の『噂のストリッパー』のチーフ助監督で、これは相当、面白く無かったようだ。

『の・ようなもの』で突然登場した森田芳光が、日活で撮る?
というのは我々にとっては大事件であった。
外部から新人を呼んで来るなら、何故、助監督の中から新人を出さない、という思いである。

あとから聞くと、この時、すでに『家族ゲーム』の企画が進行していて、それも日活で入ることになるから、1本、ロマンポルノを撮っておいた方が良い、という判断もあり、森田さん自身も、経験が欲しい、というところであった。

だが、監督したばかりで懲罰委員会にかけられ、懲罰人事で就かせられた那須さんとしては、面白くは無い。
「今日は、ここを切れ、あそこを切れ、と言ったら、森田は『ハイ!』って、素直に従ったよ」
とか、言っていた。
それ以外、森田さんの事は・・・
「まあ、あれじゃアクションは撮れないだろうな」
くらいしか言わなかったかな・・・

その森田芳光が、また日活で撮るという噂が広まった。
最高権力者の武田専務が『噂のストリッパー』をベタ褒めしたそうだ。

そして、なんと、僕が、森田さん本人からチーフ助監督を指名された、というのである。
『噂のストリッパー』の時は、遠くから見ただけで、ああ、あれが森田か、という認識でしかなく、挨拶もしていない。

森田さんが「那須君はやめて欲しい。金子修介というのがいるだろう、チーフは金子にして欲しい」と言ったのだそうである。
この時、いろいろ調べて、アニメの脚本を書いたりしているのも知っていたのであった。無能なのは知らなかったろう。

那須さんの話から、3年タイムスリップしたので、次どうしよう・・・無計画で書いてるから、ですね・・・

1981年に戻ると、正月休み開けの仕事は『OL縄奴隷』のアフレコであった。

....to be continued

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