ロマンポルノ無能助監督日記・第3回[新人監督・根岸吉太郎組で那須博之さんと出会う]

1978年4月1日から1週間、撮影所の中にある「日活芸術学院」の黒板のある教室で、「新入社員研修」が行なわれた。

僕ら助監督2名プラス10名ほどの営業新入社員に向かって、社長をはじめ、制作部長、営業部長、興行部長、ビデオ部長、ダビング課長・・・計30人くらいの〇〇長たちから、それぞれ1時間づつ、訓示を頂いた。当然、面白くは無い。
いちおう、ノートとるフリしました。

〇〇長の皆さんが言っていたのは、いい映画とはどういう映画か=「客が入る映画をいい映画と言います」とばっかり言われていた記憶。

並べて見ると、誰がこの会社の実権を握っているか、分かりやすい。

一年後に社長になる根本悌二副社長。恰幅(かっぷく)良いとはこのことか。
この人だけ、太鼓持ちみたいな秘書が傍にいて、ニコニコ&ウンウンしながら副社長の話を聞いている、キモチ悪いよ・・・
これが「実社会」ってやつね。

東大出て、助監督になって、監督にならずに労働組合の委員長になって、今、副社長、来年社長、その後、日活の株を増資⇨減資⇨増資というトリックを使って倒産を免れる。(結局、倒産するが)(倒産は1993年)
村上覚社長は、影薄かった。

根本副社長が言っていたのは、「助監督の諸君は、3年経ったら監督にしてやる」だったが、それは嘘だったが、その時は本気にした。

そうか、監督になれるのは3年後か、ヨシ!・・でもちょっと長いな・・って、それでもそう思っちゃうんだよね・・・実際は6年半かかったが。

撮影所長が都合で来られないので「試写室で、なんか好きな映画見せてやるから、倉庫にフィルムがあるリストの中から選びなさい」と言われ、こういう時はだいたい同世代の男って、皆黙ってはにかんでしまうので、僕はすぐさま『風の又三郎』を見つけてリクエスト。

戦前の島耕二監督の名作で、佐藤忠男の「日本映画百選」に載っていて見たいと思っていた。この時見なかったら、その後も見られなかっただろう。とても良いプリント状態だった。

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試写室から出て来たみんな、「どーどど、どどーど どどーど どーど」と、又三郎の歌を歌っていた。名作だ。
今ロマンポルノばかりやっているとはいえど、戦前から輝かしい歴史があるのだな、この撮影所は・・

昼は食券をもらい、所内の広い食堂「まつき」で定食を食べたが、「そのまずいことまずいこと」と同じ研修を受けていた山田耕大も書いているがその通りまずい。
後から、鉄板焼きなどの美味いものもあって、それらはチョイ高であるのは分かったが、定食の食券は50円なので、その値段の味。

山田は「長谷川和彦が下駄はいて歩いているのを見た」と書いてるが、記憶無い。

日活には、この時期、角川映画や石原プロ制作のテレビドラマなども撮影が入っていたので、活気はあった。レンタルスタジオ化していたのだ。
TVスタジオも13ステージというモダンなステージがあって、「見ごろ食べごろ笑いごろ」も入っていたが、キャンディーズ解散直後で、3月末に終わってしまったのは残念、と思った。
13ステージだけリノリウムの床で、あとは土の床で、常に埃が舞っていた。

後に、健さんや百恵ちゃんらのスターもナマで見かけ、百恵ちゃんとも仕事することになるんだが、僕は、意外に興奮しなかった。
「オレはミーハーじゃないんだ」とか思い込んでいたんだが、一番びっくりしてコーフン感激したのは食堂で見かけた食事中の森次晃嗣さんで、瞬時、目の前の世界がフリーズした。

「ウルトラセブンがラーメン食べてる!」と声に出して言ってしまった ワケ無いが、自分のその声が頭の中で響いたのだった。
日活労組制作の『新・どぶ川学級』に出演中であった。

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週末には街に出て、池袋北口日活、蒲田日活、横浜日活を電車で回って、今、ペニンシュラホテルになってる日比谷の「日活ビルディング」へ。大理石の床がつるつるのデカいビルである。

こんな一等地に自社ビルあるのかよ、と驚いたが、その時は、既に持ち主は別になっていて、日活はワンフロアを借りている身分に落ちていた。

夜は、ビル地下の「ローレル」で、根本副社長を交えて食事会となった。

山田は僕が「助監督の金子修介です」と自己紹介するのが妬ましかった、と書いてるが、それを読むと、確かにあの日は晴れがましい気持ちがあったよなあ、と思い出すが、山田の文を読むまで忘れていたのは、翌週から撮影現場に入り、無能助監督日記が始まり、そんな気持ちはブッ飛んでしまったからであろう。

東大卒の山田は、同じく東大卒の根本副社長に「東大出の監督で、才能あるのは山田洋次だけだよ」と言われて「藤田敏八も長谷川和彦もいます」と抗弁したが、「パキ(藤田敏八)は戦後のドサクサに東大に入ったんだ。ゴジ(長谷川和彦)は契約助監督だった」と言われたが・・・

この根本副社長がゴジさんを追い出したフィクサーだったとは、この時は、僕も山田も知らないでお喋りしていたのだった。

だいたい僕みたいなやつは、正直50歳くらいまで「東大コンプレックス」が拭えない。そう言えば、いつの間にか特に拘ってないよな自分は、と気がつく感じである。気がつくまでは、コンプレックスがあった。
親父も東大(一高)受験に失敗し、浪人して農耕大(高等農林)中退で応召、ということで、かなりコンプレックスはあったと思う。
この頃の僕は、仮に受験戦争に勝ち抜き、東大に行けたとしても、やっぱり今は日活の助監督だったろう、と思って、現役で学芸大に行ったことを自己正当化して自慢げに思い、結局要量が良かったんだな俺は、と思って、紙一重で卒業出来た幸運を忘れていた・・・

あと、厚生課に行って、年金手帳を貰ったな。

役人みたいな黒縁メガネの人から手渡され「41年後から支給になります」と言ったあと一拍おいてニヤッと笑い「なあに、すぐですよ」だって・・・
この人、誰にでもこれ言うのが人生の楽しみなんだな、と思った。
確かに言われたとおりだが、7年で退社したから、厚生年金は大した額になっていない。

最初の現場は4月10日から白井伸明監督『㊙︎肉体調教師』のセット。
カメラは安藤庄平さん。
殆ど見学者だが、カチンコを渡され、監督の「ヨーイ、ハイ」があったらカチン!と叩け、と言われるままに叩く。
知っていたけど、何故、カチンコなんてものが必要なの?サイレントなのに、と思ってしまう、ついこのあいだまでは学生映画の監督だったので、降格した気分になっている。
スタッフの年齢はちょっと高いが、若い人もいる。

この頃の日活ロマンポルノは2週間の撮影で、原則として日曜日は休みだから、撮影実数は12日とか13日。1時間10分くらいの長さの作品を、年間50本近く作っていた。1本のなかで、ポルノシーンは5、6回ある。
今調べたら、78年は46本。
3本立てで、1本は外部からの買取で番組を作り、2週間で番組が変わる。
完成したら、2日で公開、という作品もあったが、だいたい1週間前には完成していたように思う。
『㊙︎肉体調教師』は5月20日の公開になっている。

撮影に就いた日は、始まって2、3日めくらいだったかと思う。
「ボケーっとしたまま見学に近いカチンコ叩き。白井監督は演技指導でオカマの真似をしたが、役者より上手い。人物は冷めたタイプであるが、暖かそうな人だ。尺数が短くなり過ぎてしまい、笑いながら頭を抱えていた」
なんて書いているよ、すいません、白井さん。

「白井監督は、僕のやっていたように、撮了シーンを赤ボールペンで埋めていた。24カットを撮ったが、力は余り入っていないのである。(自分の作った)『キャンパスホーム』(大学1年の作)の時のことが思い出されてならない」
というのは、大学の時の映画は、高校の時の映画に比べたら手だれで、全力では撮ってなかったよなあ、というのを思い出していたのだ。

目の前でプロの仕事を見ながら、自分の大学1年の時の8ミリ映画と同列に比べている・・・ホントに謙虚さってものが無いですよね・・・という奴だとは、白井監督はじめスタッフは誰も思ってもいないであろう。

中島葵さんは色っぽくて美しかった」
始めて間近に見た女優さんであった。森雅之の娘か・・・とは、この時は良く知らなかった。
その日、ポルノシーンは撮られてなかった。
それに近いシーンは、スタッフの後ろに回って、ちゃんと見ていなかった。

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5時に撮影が終わって、お疲れ様〜となり、スタスタと門に歩いてゆくと、三浦朗プロデューサーが「おい、新人。監督は帰ったのか?」と聞くので、
「いえ、まだ・・・いらっしゃると思いますが」
「ばかやろう、監督が帰らないのに、助監督が先に帰るやつがあるか」
って、誰も言ってくれないじゃない、と思ったけど、
「あっ、すいません!」
とUターンして走って戻る。
そういうもんなのか・・・そういうもんだろうな、と理解しようとした。
白井監督は、謝ると笑って、
「ハハ、そういうもんなんだよ」
と仰った。

中1で卓球部に入ったが、先輩が嫌で1学期で辞めてしまって以来、運動部は経験していないから、縦社会というものを理解していないで、「自分は監督だ」と思っていて、「たまたま今は助監督をやっているのだ」という気持ちの22歳でした。

翌朝は、上に就いていた二期先輩の堀内靖博さんから教わり、食堂内にあるマイクで、9時になったら「白井組、白井組、撮影を開始します。関係者の方は第6ステージへお入り下さい」とアナウンスの仕方を教わった。

これ、結構、日活独自のスタイルだと、かなり後になって分かる。
監督になって、日活以外で仕事するまで、日活以外の常識は知らないから。
東宝などは、9時になったら「テスト(リハーサルのこと)がスタート」なので、スタッフは1時間前の8時にはセットに入っていなければならない。
監督も30分前にセットに入る。
日活は「9時開始」なら、9時に助監督がアナウンスをして、それを聞いたら、スタッフは席を立ってコーヒーを下げてセットに向かう。のんびりしてる。
たまに助監督がアナウンスを忘れると、ひねたスタッフが、9時過ぎても席を立たないで「おい、助監督さん、放送したのかよ」と叱ったりする。
それで、放送を確認してから、おもむろに立ち上がるのだ。

放送されるまで碁をやっている監督も・・・小原宏裕さん。

堀内さんは、いろいろ細かく教えてくれたが、三日目の朝、
「金子、今日から根岸組だってよ。いいなあ、お前ついてるよ」
と言った。
四期上、27歳の新人監督・根岸吉太郎のことは、オリエンテーションでも副社長が語っていた。日活のエリートだ!
助監督の仕事は、いきなり撮影から入るんじゃなくて、準備の時から就かないと勉強にならない、という意味で、まだ準備中の根岸組へと、堀内さんも快く送ってくれた。
「昼休み、食堂でさ、チーフの上垣さんとセカンドの那須が来るから、それまでここ(白井組セット)にいていいから、午後から、根岸組だから。いいなあ金子。俺もやりたかったなあ、根岸組」

食堂での顔合わせで、那須博之さんと出会った。

「おお、金子くんかぁ」
座って見上げた那須さんの、暖かくて優しそうなんだが、少し怖いところもあるような野生的で威圧的な笑顔を想い出すと・・・涙がこみあげてしまう。
何百回も思い出している。あの瞬間を生涯忘れる事は無いだろう。
本当に涙が止まらなくなってしまったので、少し休んで書いているが、この瞬間に、僕は那須さんに魅入られたんだ、と思う。
こんな時代を那須さんだったら、どう言うんだろう、と、3.11の時も思った。
亡くなったのは2005年だし、53歳という那須さんの年もずっと越えてしまったが、今でも生きているように感じている。先輩とか認めたことの無い自分が、この瞬間から、もう舎弟の気分になっていたのだ・・・


那須さんはこの後、なんて言ったのだろうか、思い出したいが、思い出せない。
直後では無いが、「金子くんは、監督では誰が好きなの」と聞かれたことがあった。
即座に「深作欣二です」と答えると、ニヤッと笑い、
「そうだよな、フカサクしかいねえよな」
と那須さんはうなづきながら笑って言った。
「ですよね、フカサクしかいないですよね」
と僕もまた繰り返したわけで・・・
僕は、那須さんと会った時に、日活に入って、始めてワクワクしていたんだな、と今にして思う。
そう、那須さんは先ず、人をワクワクさせる人だったんだ・・・
いろんなことを教わりました。
たくさん遊びました。
・・・ここで一辺には書けないし、止まってしまうから・・・この人も東大卒。東大のワンダーフォーゲル部。山登りで足が凍傷になったことがある、と言っていた・・・「那須いきっぱな氏」とあだ名がつけられた・・・

そんな状態で根岸監督にはすみません、普通、順番が違うだろという感じだが、当時、こんな絵を落書きを「何でもノート」にしている。

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1週間後の4月19日、『情事の方程式』がクランクインする。


・・・to be continued

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