さび猫は僕の目の前で出産し、僕は自己嫌悪に陥る

2024年3月18日15時過ぎ、チェンマイ駅

チェンマイ駅は大きな駅ではない。構内に入ってすぐ右手にチケットカウンターが3つか4つほど並んでいて、若干の行列ができている。

ネットの情報では4、5軒の屋台的なお店があって(ミニフードコートと書かれていた)食事ができると書いてあったが、いつの情報なのか、僕が着いた時はそれっぽい看板とスペースがあるだけだった。ちゃんとお昼を食べていなかったので、良さそうなお店があれば食べようと思っていたんだけれど。

キオスク的なお店があったので、そこで水や軽食(メロンパンみたいなやつとか、肉まん、あんまんとか、スナック菓子とか)を買っていけばいいかな、と思いながらベンチが並んでいるスペースに向かう。

2週間前にチェンマイ駅に着いた時には、このベンチエリアに黒猫がいたのだ。触りたいと思ったのだけど、その時は同じく乗客なのか、地元民なのか、若いお兄ちゃんがすでにその黒猫にかまっていたので、指を咥えて(比喩だ、念のため)通り過ぎたのだ。今日は黒猫に触れるだろうか。

いた。

黒猫ではないが、さび猫だ。この国で見た他の猫と同様、痩せている。が、語弊はあるが、猫ならなんでも可愛いのだ。

指をそっと出してみる。興味がありそうにふんふんと鼻を鳴らす。これはこの国に限らない全世界の猫共通だろう。

人嫌いでもなさそうだが、人なつっこいわけでもなく、軽くからだを触らせながら僕の横をするっと抜けていった。こういう時はあまりしつこくしないようにしているので、ベンチにリュックを置いてなんとなく眺めるだけにする。

ぼんやりしていたら、さび猫が僕のベンチの前で踏ん張っている。あ、おしっこしちゃうのかな。まあ、そういうものなんだろう。

あれ? さび猫が歩き出したけど床は濡れていない。出なかったのかな。ま、いいや。自分が乗る予定の列車の周りが慌ただしくなってきたので念のためチケットを確認する。

15時30分発、Express52、5号車24番、4番線発。

うん、この列車で間違いない。今日はこの列車でチェンマイから700km離れたバンコクまで、約10時間の移動になる。15時半に出発して、翌朝5時10分到着予定。人生初のタイの寝台車だ。わからないことだらけでも楽しみもある。

ふと目を落とすと、さび猫がいたあたりの床が濡れている。

おしっこしたんだな、と思っていたら、なんだかさび猫の様子がおかしい。歩きにくそうだ。どこか痛いのか?

と、思っていたら、彼女のお尻の辺りに何かぶら下がっている・・・ おしっこじゃなくて大の方だったかな?

胎児だった。

なんと僕の目の前でさび猫が出産していた。

出産していた、というのもしっくりこない感じがする。なんというか、お尻の辺りから「出ている」のだ。小さいピンク色のネズミみたいなものがぶら下がっている。

「うわわわわわわわわわわわ・・・」

「どどどどどどどどどうすんねん、こんなん」

あまりにも予想外のことに出くわすと人は混乱するのだ。

僕が混乱している間にもさび猫は慌てる様子もなく、お尻の辺りからぶら下がっている「それ」と自分をつなげているナニカを噛み切って出産を終えようとしている。

僕はただ混乱しながら、目を離すこともできない。

「うわわわわわわわわわわわ・・・」

「どどどどどどどどどうすんねん、こんなん」

どうしようもないのだ。

さび猫の足元には、さび猫から独立した「それ」と、胎盤が転がっている。(見たことはなかったが、きっとあれが胎盤というものだ)

4センチくらいの「それ」は、一瞬動いたような気もしたが、気のせいだったかもしれない。いずれにせよ、外の世界に出て数分経った今、動く気配はない。

さび猫は「それ」を少しだけ舐めて、いまは胎盤を貪るのに夢中のようだ。いまさらだがこの情景はグロいといえばグロいのである。

僕はここでは異邦人なので、この国ではこんな光景も普通なのかもしれない、などと思ってもみたが、周囲にいた地元民らしき人や駅員の様子からすると、そういうわけでもないらしい。僕ほどではないけれど戸惑っているようだ。駅員同士、顔を見合わせて「どうする?」みたいな視線の交換をしている。

少しするとその場にいた駅員は、特に何をするでもなく業務に戻っていった。列車の発車時刻も近づいているのだ。

どうしようもない無力感を感じながら、僕はとりあえずベンチを移ることにした。ベンチの上に置いてあるリュックが彼女たちの上に落ちでもしたら目も当てられない。隣のベンチが空いていたのでそちらにリュックを移し、腰をかけることにした。

なんだか目を背けて逃げているようで罪悪感が湧いてくるが、だからといってどうしようもないのだ。手を出して、膜を破って、心臓マッサージをして・・・・・・なんて、とてもできない。

胎盤を食べ終えたらしいさび猫は、一瞬は自分の仔だった「それ」にはすでに興味がないらしく、少し離れたところで股間のあたりを必死で舐めている。

空いたベンチを見つけて座ろうとした欧米人らしき男性が、床に転がっている「それ」に気づいて「Oh, Fxxk」とつぶやいて撤退していった。そりゃそうだ、と思う。

そうこうしているうちに、構内を掃除している駅員がベンチエリアに来て、おそらく何かはわかっていないままに「それ」をホウキでかいてチリトリに入れた。(どうやら入れた後でそれが何かわかったようで、「うわぁ」という表情をしながらもスマホで写真を撮っていた。その写真、どうするの? と思うが、気持ちとしてはわからないでもない)

これで床には何もなくなった。少し濡れていた部分もすでに乾いている。

さび猫は僕が座っているベンチの下に潜り込んで、なにごともなかったかのように寝そべっている。

僕は、つい数分前まで指を出してちょっかいをかけていたそのさび猫がなんだか怖くなってしまった。もうこの猫を撫でることはできない。そんな自分がものすごく身勝手に思えた。

乗る予定の列車の発車時刻が近づいている。僕はリュックを担ぎ、4番線に向かった。ベンチエリアはなにごともなかったように人で溢れている。

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