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“作家の映画”を読解する:21世紀の駄作

 21世紀の世界が、過去200~250年とはまったく違う世界になってゆくことを予感している人は多いと思います。そのことが明らかになるのは、おそらく2040年前後から、つまり現在80代の人々のほとんど全員がこの世を去り、60歳前後の人々の多くが“不死”の解決法も認知症の治療法もないことを知り、現在20歳前後の人々が科学、文化、芸術、政治、経済において世界をリードしはじめる時代です。

 映画芸術だけでなく、物語芸術全般の評価基準は、そのころまでには“スタイル”や“感性”から、決定的に”内容”、”理念”、“普遍性”へシフトしているでしょう。形式の斬新さ、スタイルの新しさは評価され続けるでしょうが、前世紀の最後の四半世紀にそうであったほどの重みは二度とおかれないでしょう。
 人類はこれまでのところ、決定的な分断が起きる以前にそれを予防できるほどの賢明さを示していません。言論界で発言力を持っている人々は時代の変化よりも自分の嗜好を優先し、死ぬまで分断を解消しようとはしないでしょう。
 “スタイル重視”、“感性重視”の傾向は、批評する人々(プロもアマチュアも)の、“この創作者の独特なスタイルあるいは感性は、俺(あるいは私)のような豊富な鑑賞体験と優れた批評能力をもった人間にしか分からないのだ”、という主観的な思い込みによって支えられています。そして彼らは、自分たちの嗜好に応じて“サロン”的な空間を作り出す強い傾向をもっています。このような、19世紀以来の一種無根拠な能力主義が、反時代的であることを証明する必要はないでしょう。

 芸術の鑑賞者たちは、いまや20世紀の“大衆”でも“スノッブ”でもありません。彼らは作品から実質を求めるようになっています。つまり、現実世界との対応から生まれるイメージの真実性や、イメージを通じて提示された理念の普遍性です。
 それらも主観的なものではないか、と言われれば、「その通りだ」としか答えられまんが、「ただ、スタイルや感性と違って、それらが鑑賞者に感銘を与えるにいたるプロセスは、ある程度まで分析的に説明できる」と補足することはできます。作品のイメージは、有限な意味の、ある程度以上制御された相互作用の中でしか生じないからです。
 スタイルや感性の概念は、作品の概念と違って物理的な限界を前提としていません。批評する者が、「誰それのスタイル」という時、そこでは創作者が、具体的にどの作品のために、どんなイメージを創造したかが度外視されています。「誰それの感性」に至っては、鑑賞者の心理的な反応と美的な感受性を、創作者の芸術的達成と同一視するという過ちを犯してます。

 “21世紀の駄作”は、自分のスタイルや感性を過信する人々によって創造され、同じ美的嗜好を共有していると主観的に思い込んでしている人々によって評価され、22世紀を迎える前に忘却されるでしょう。

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