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映像によって語られる物語における“リアルさ”

 ここで私が言う“映像によって語られる物語”とは、一般に“映像作品”と呼ばれているもののうち、“フィクション”に分類されているものです。そこには劇映画だけでなく、テレビドラマやネット配信ドラマが含まれます。CGやアニメーションも普通“映像作品”に含まれています。私が論じたいのは、それら“映像”によって語られる物語作品の“リアルさ”ということについてです。それは小説や演劇の歴史で言われる潮流としての“リアリズム”とはまったく違います。なぜなら、“映像”自体のリアリティーや物語の信憑性が関係してくるからです(リアリティーと信憑性は少し意味合いが違います。それについては後で説明しますが、しばらくは“リアルさ”という言葉でひとまとめにしておきます)。

 映像作品では、物語のリアルさと、映像のリアルさとのバランスが重要な意味を持ってきます。映画やドラマを観ていて、鑑賞中には物語の部分的な荒唐無稽さに気づかなかったとか、逆に、映像の人工性(CGの多用、アニメーションの場合)が気になってシリアスなはずの物語に集中できなかったという経験はないでしょうか。前者では映像のリアルさが物語にリアルさが欠けていることを覆い隠し、後者では多分、映像が物語のリアルさに相応していません。どちらの場合も、リアルさの程度という点で、物語と映像のバランスが取れていないわけです。これは映像作品の評価に関わることなので、単純に観客や批評家の「趣味の違い」で済ますことのできない問題です。

 さらに事態をややこしくするのは、物語を語る映像作品では、物語も映像も、どちらも「時代の流行」に影響されるという事実です。映像作品は、時が経てば古びます。しかし、30年前やそれ以上昔の映像作品を観ていて、ある種の古さを感じたとすれば、それは物語に対してなのか、映像に対してなのか、その両者に対してなのか。それを区別するのが意外に難しいのです。そしてこの「古さ」の印象の有無によって、映像作品全体の印象もかなり違ったものになります。そして、鑑賞者が受ける“リアルさ”の程度も変わってきます。

 分かりやすい例を挙げましょう。ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』(48)です。映画ファンの方には説明を要しないでしょうが、世界映画史上の名作です。第二次大戦後のイタリアで現れたネオリアリズモ映画の代表作の一つとされています。“ネオレアリズモ(イタリア・ネオリアリズム)”というくらいですから、当時の劇映画としては非常にリアルさが追及されています。映画の物語は、職業安定所でポスター貼りの仕事を紹介されて失業状態から脱した妻子持ちの男性リッチが、仕事に必要な自転車を盗まれ、事態を収拾すべく街を駆け回るが・・・というものです。デ・シーカ監督の後年の作品と違って、奇跡も起きなければ偶然の出会いもありません。物語を構成するさまざまなエピソードにも不自然さはありません。つまりこの物語には文句のつけようのない“リアルさ”があります。現実にどこかで起きたとしても何の不思議もない出来事が、自然に連続するように組み立てられています。そのような物語の構成や構成要素の性質を、私は特に“リアリティー”と区別して物語の“信憑性”と呼ぶことにします。

 では、その信憑性ある物語の見せ方はどうでしょう。出演者達は素人ですが自然な演技をしており、ロケ地は現実の街です。白黒フィルムで撮影されているため、当時のカラーフィルムの特徴であった色彩のどぎつさから生じる不自然さもありません。物語は直線的に進み、作者による時間の操作は最小限に抑えられています。一日のさまざまな時間帯の街の情景や、そこでリッチが妻や幼い息子と佇んだり歩いたりしている姿からは、70年以上前に撮影された映像であることを忘れさせるほどの“リアルさ”が感じられます。演出もまた物語や構成要素の信憑性を観客に伝えるのにふさわしいものだったと言えます。

 それにもかかわらず、『自転車泥棒』は、どこか古く見えます。それはイタリアに貧しい人々が少なくなったからでも、フィルムが物理的に摩耗したからでもありません(私はこの文章を書くに当たってフィルムの傷がまったく見えないリストア版を観ています)。そして、「古く見える」ということは、映像作品にとって、程度の差はあれ“リアルさ”が失われてしまったことを意味します。

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