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“作家の映画”を読解する:『ブレードランナー 2049』(2017)

 リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』(82)もそうですが、ドニ・ヴィルヌーヴ監督による続編である本作も、“作家の映画”と“ジャンル映画”の境界線上にある作品です。
 それでも前者は現在、世界映画史上の傑作の一つと見なされはじめています。イギリスの映画誌”Sight & Sound”による、「映画史上最も偉大な映画」の2012年度アンケートで、『ブレードランナー』は批評家たちの投票によって69位に(ブレッソンの『抵抗』やリンチの『ブルーベルベット』と並んで)、監督たちの投票では67位に(ワイルダーの『サンセット大通り』や溝口健二の『雨月物語』、ウォン・カーワァイの『花様年華』等と並んで)、それぞれランクインしています。世界最大の映画データベースであるInternet Movie Databaseの会員投票では現在10点満点中8.1点と、これもやはり“傑作”レヴェルの評価です。
 ただ、『ブレードランナー』にせよその続編『2049』にせよ、作者は誰なのかと問われれば、100%「それは監督である」とは言い難いのが現実です。

“起用”された演出家としての監督

 周知のように、リドリー・スコットの『ブレードランナー』はアメリカのカルト的なSF作家フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(68)が原作です。しかし、1975年にこれを映画化しようと考えたのはスコットではなく、脚本家・映画プロデューサーのハンプトン・ファンチャーでした。
 ファンチャーのインタヴューによれば、彼はアメリカの同業者であるブライアン・ケリーの支持を得て原作小説の権利を買い、それからスコットが監督に起用されるまでに2,3のシナリオ草稿を書いていました。まだ『エイリアン』(79)も観ていなかったファンチャーは、『ディア・ハンター』(78)を制作したイギリスのプロデューサー、マイケル・ディーリーから、スコットを監督に起用するなら出資すると言われて同意したのだそうです。スコットはファンチャーのシナリオには満足せず、途中で別の脚本家デヴィッド・W・ピープルズに交代させました。この時点でようやく、監督の創造的個性が作品に反映されはじめたわけです。

 『ブレードランナー』が、公開後次第にカルト的な人気を得ていった最大の理由はおそらく、それまで他のどんなSF映画も描いたことのなかったリアルな近未来のヴィジョンが示されていたことです。映画の公開前にテレビの特集番組で映像の一部を見た原作者ディックは、それまで脚本に不満を抱いていたのに態度を一変させ、制作会社に対して興奮気味の手紙(英語)を送ったほどです。「これは現実逃避ではありません。超リアリズムです。とても赤裸々で詳細かつ真正できわめて説得力があるため、その断片を見たあとで私は、自分の現在の“現実”がそれに比べて生気がないことに気づきました」とディックは書いています。彼は映画の公開前に亡くなりましたが、公開当時劇場でこの作品を観た多くの観客が、彼と同様な印象を受けたのではないでしょうか。これは徹底して映像のリアリティーに拘って物語世界を視覚化したリドリー・スコットの功績です。
 もう一つ、この映画で新鮮だったのは、アンドロイド(作中ではレプリカント)のほうが人間よりも感情が豊かで“人間的”に見える、という点です。ディックの原作ではアンドロイドには共感能力がなく、人間も動物も平気で殺せるという設定でした。共感(エンパシー)が人間を人間たらしめるものであるという作者の思想は、小説の中で“マーサー教”なる新興宗教に重要な役割が与えられていることからも明らかです。デッカードを含む人間たちは、人々が教祖ウィルバー・マーサーと一体感を感じられる“エンパシー・ボックス”を体験することで自分の人間性を確認するのです。
 一方で原作には、人間として生活しながら自分が人間でないことを知っていて追い詰められると潔く殺されるアンドロイドも登場し、彼らに知性や感情があるのに共感能力がないという設定にはやや無理が感じられます。映画『ブレードランナー』では、共感能力の有無によって人間とアンドロイドとが区別できるという前提は、事実上放棄されています。人間とレプリカントの感情面での差異を明らかにするヴォイト=カンプフ検査は、捜査官が身を守るためにも、彼らを“解任”させるためにも役立っていません。
 人間のほうがアンドロイドよりも道徳的な意味で“高い”存在であるという前提が疑問に付されれば、ドラマの重心が揺らぎ、物語内容が普通のジャンル映画のそれよりも多義的になるのは避けられません。主人公は誰で、映画の最初と最後でどう変化しているのか、何を成し遂げるのかといった点に関して、『ブレードランナー』の観客は明確な答えを見つけることができません。いつも酒浸りで、捜査の最中に自分が不用意に傷つけたレイチェルを怪しげな酒場から電話をかけて誘い、タイレル社から逃亡した彼女に命を救われるデッカードは、奴隷状態から脱するために外宇宙(オフワールド)から地球に逃れ、仲間の復讐や恋人の延命のために命がけで闘うレプリカントたち、特にそのリーダーであるロイ・バッティーに比べて、主人公らしいと言えるでしょうか。82年の公開時にあったデッカードのナレーションが消された92年の“ディレクターズ・カット”と2007年の“ファイナル・カット”では、彼が主人公であるという印象はいっそう薄れています。
 人間とアンドロイドとの立場の逆転という構想が、最初からファンチャーの企画に含まれていたとか、監督に起用されたスコットの頭の中にあったとしたなら、彼らはドラマツルギー的に革新的な映画作者だったと言えるでしょう。しかし私には、ドラマの面における革新性は試行錯誤のうちに偶然生じたように思われます。状況に流されがちな情けないデッカードとしばしば詩的な言葉を口にする意志的なロイとの対比は強烈ですが、後者がビルの屋上で死を迎える際の有名な台詞「雨の中の涙」は、ロイを演じたルトガー・ハウアーによってファンチャーとピープルズのシナリオから変更されたものです。ピープルズが参加する以前のシナリオでは、ロイの最後の独白がそもそもなかったようです。
 映画が制作中だった1981年2月時点のシナリオには82年劇場公開版とはまったく異なるデッカードのナレーションが2つあり、最後のナレーションでデッカードがロイと同様に戦闘用レプリカントであることが示唆されています。そのナレーションの直後、ガフがスピナーで現れてデッカードとレイチェルの乗った車を攻撃しはじめ、彼が廊下に残したユニコーンの折り紙は逃亡するデッカードへの挑戦状だったことが分かります(ユニコーンが登場するデッカードの夢のシーンはありません)。このシナリオでは最後のシーンでデッカードがレプリカントだとほぼ確定しており、ドラマ的にはロイの犠牲によるデッカードの覚醒というはっきりした結末をもつことになります。しかしリドリー・スコットは最終的に、そのすべてを映像で暗示するにとどめ、ドラマに曖昧さを残すことを選びました。

 このように、最終的には監督スコットが全体を統括したにせよ、『ブレードランナー』はプロデューサー、脚本家、監督、俳優による共同作業の産物であり、その成果を一個人に帰すことはできません。スコット自身が制作総指揮を行った続編で監督に起用されたドニ・ヴィルヌーヴは、彼らが共同で作り上げた物語世界とテーマに対して完全に自由な創作家として取り組むことができなかったはずです。とはいえ、イギリス人スコットが『ブレードランナー』で単なるハリウッドの雇われ監督に甘んじなかったように、カナダ人ヴィルヌーヴも『2049』に映画作家としての個性をしっかりと刻印しています。

壮大な廃墟、都市の遺跡、夜の闇

 前作でリドリー・スコットがそうしたように、『ブレードランナー 2049』においてヴィルヌーヴは、映像のリアリティーを通じて物語世界に信憑性を与えようとしています。しかしこの作品の映像には、スコットの作品とは大きく異なる二つの特徴が見いだせます。

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