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音楽を聴きながら哲学書を読むことはできるのか。読書と音、そして語学学習。

みなさま、こんにちは。
ささきです。

5月の終わりの休日、いかが過ごされましたか。
読書をして過ごした方もいらっしゃったのではないでしょうか。

2週間ぶりの文章の配信ですが、今回も読書についてです。長いです・・・。すみません


今日は、「音楽を聴きながら読書をすること」について考えてみました。
というのも、最近、2つの読書会があったのですが、
音楽を聴きながらでも読める本と
音楽を聴きながらでは読めない本
があることに気がついたのです。

ここから少し考えが発展したので紹介したいと思います。興味がある方はぜひ読んでいただければ幸いです。

2つの読書会の1つは「SYNTcorpus」という哲学や思想に関する読書会です。5月24日にミシェル・フーコーの「臨床医学の誕生」の第2章を扱いました。

もう一方は、精神分析に関する読書会で、5月30日に、片岡一竹さんの「疾風怒濤の精神分析入門」を題材にして行いました。精神分析の一派であるラカンの超入門本です。

フーコーの文章はとにかく難しいです。メンバーは毎回泣きながらフーコーの文章と格闘します。「血を吐く」とか「文章にボコボコに殴られる」という表現を使ったりもします。笑


一方で、片岡さんの本は超難解で悪名高いとされるジャック・ラカンの解説を目的とする入門書です。既存の入門書ですら難解であるという問題意識からも書かれているので、この本は「超」入門書であり、その読みやすさは舌を巻くほどです。
ラカン入門書を一冊購入したものの、難しすぎて挫折した自分としては、このようなわかりやすい超入門書が出版されていることのありがたさが染みます。


この対照的な二冊を読んで、あることに気がつきました。
何か。
それは、
音楽を聴きながらフーコーを読むことはできないが、
片岡さんの本は、音楽を聴きながらでも読むことができた
ということです。


読書においては、書かれた文字を頭の中で音として再生し、再生された声を通して本の内容を認識&理解していると思います。これは誰しもにある程度当てはまると思っています。
つまり、我々は、本に書かれた文字情報を音声情報に変換し、認識している。


片岡さんの本は、日常的に私たちが使う言葉を用いて書かれています。
一箇所引用してみます。

「つまりここで赤ちゃんは、ランダムに現れたりいなくなったりする〈他者〉に生殺与奪の権を託すという不穏な状況にいる訳です。ラカンはこの状況を不満(フラストレーション)と名付けています。」
(「疾風怒濤精神分析入門」片岡一竹著 P116より抜粋)

どうでしょうか。ここには日常的な表現が並んでいます。この文章が「声」に変換されて僕の頭に届くわけですが、この声を僕は知っています。日常の中で自分が使う声だからです。
雑音の中でも自分の声を聞き取ることができるのと同じで、音楽を聴きながらでも片岡さんの本の内容と向き合うことができました。


一方、フーコーの場合は違いました。音楽を聴きながらでは読むことができなかったのです。フーコーからも少し引用してみます。

「この形象において、医学的空間は社会的空間と一致しうる。あるいは、むしろ、前者は後者を貫通して、これに全く浸透することがありうる。」
(「臨床医学の誕生」ミシェル・フーコー著 より抜粋)

難しいですね。用語も難しいですし、「空間」、「貫通」、「浸透」などは比喩であり、日常において私たちは、このような形でこれらの言葉を使うことはないでしょう。
声としてこれらの言葉が聞こえてきたとしても、それは知らない声です。自分の知らない声、自分の使わない言葉なのです。
喧騒の中だとこの知らない声に耳を傾けることは難しいと思います。だから僕は音楽を聴きながらではこの本を読むことはできなかったのです。


これが、音楽を聴きながらでも読める本と読めない本についての僕の経験です。
ここから何を言いたいのでしょうか。


片岡さんの本は、日常的な言葉で書かれていました。自分が普段使用するような言葉を使って書かれていました。つまり、自分の中にある言葉だった。
一方でフーコーの語りは、翻訳を経ていますが、全く「自分の中にない言葉」で書かれていた。

・「自分の中にある言葉」=「知っている声」=「理解できる言葉」
・「自分の中にない言葉」=「知らない声」=「理解できない言葉」
・知っている声は、雑音の中でも聞き取ることができる。
・知らない声は、雑音の中では聞き取ることができない。

ここで僕は、「理解できない言葉に対しては、じっくり耳を傾けないと理解できない」ということを強調したいです。それが今回転じて言いたいこと。


音楽を聴きながら読めるかどうかを基準として、僕の中で一つのことが可能になりました。「理解できない言葉」があることを明確に再認識することができたのです。

「理解できない言葉」に触れることによって、つまり、知らない声に耳を傾けることによって、「自分の中にない言葉」=今までになかったものの見方を知ることができます。

フーコーは、ものの見方のことを「まなざし」と書きましたが、「まなざし」と「傾聴」によって、自分の知らない世界に触れる準備ができると思うのです。


このことを、音楽を聴きながら読書したことによって実感することができたので、配信させていただきました。


結論を再度。
「理解できない言葉に対しては、耳をじっくり傾けることが大切だ」
です。
これは読書の一つの形かなと思います。

ちなみにフーコーの理解できない語りに耳を傾けることができたのは、仲間がいたからです。今の僕では一人ではむりです。笑


「聴く」ということについては少し考えたいですが、これはまた別の機会に取り上げたいと思います。


理解できない言葉に対して、誠実なまなざしを向け、耳を傾ける。
コロナ禍での、ネットでの炎上なども、このような姿勢があれば少し違った様相を呈したかもしれません。


最後に、言語学習に触れておしまいです。

英語学習で洋楽やニュースや映画などのオーディオコンテンツに触れることは非常に有効です。何回も聴いていると、少しずつ聞き取れるようになってくるということがありますね。
しかし、一方、実際の会話や議論においては、一、二回で聞き取って、言葉を返答しなければならないですね。

一度で聞き取れるにはどうしたら良いのか、という悩みは語学学習者にとって割と普遍的だと思います。


この点において決定的なのが、「自分がその表現を使うことができるのかどうか」です。つまりその言葉が、「自分の中にある言葉」かどうかです。
自分が言えるような表現や単語、内容については、いとも簡単に聞き取れます。しかし、自分の中にない言葉は、認識して、咀嚼してようやく理解できるので、聞き取れなかったり、流れる英語の中で理解スピードが追いつかなかったりします。

これが初学者がはじめにつまずく理由です。初学者は英語を話せないから、聞き取ることが大変なのです。

聞き取れるようになるためには、初期は、リスニングや発音のトレーニングが必須ですが、中級者以上、つまりCEFRのB2やC1レベルを目指すのであれば、speakingとpronunciationの上達なくしてリスニングの上達はありえないということです。


長くなりました。
最後まで読んでくださってありがとうございました。

どうですかね。
長いですかね。笑
つい・・・。長くなってしまいます。


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