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豊かな時間を生きることと、とある友人についての話

昨年8月の読書会のこと、参加メンバーのひとりがミヒャエル・エンデの『モモ』を取り上げた。本書には「時間泥棒」という考え方が登場する。物質的には豊かになっても、(時間を盗まれて)忙しさのあまり精神的な余裕を失った大人たち。本当の豊かさとは何か、再考を迫る文学作品である。

私はこのテーマを聞いて真っ先に思い出した出来事がある。

2016年2月某日。私は友人と共に札幌駅のホームにいた。目的はただひとつ、「寝台特急カシオペア」に乗るためだ。

今では数えるほどになっている寝台列車。新幹線や飛行機がある時代、どうして時間のかかる寝台列車に乗るだろうか。上野ー札幌を往復していたカシオペアもまた時代の流れには逆らえず、2016年3月をもって運行終了を迎えようとしていた。

「この機会を逃したら一生後悔することになる」

こう言って私を連れ出してくれたのは、数多の趣味に通じる私の友人だ。列車には何の思い入れも関心もない私がカシオペアに乗ったのは、趣味人を自負する私を凌ぐ趣味人である、この友人の誘いだったからである。乗ればそこに何かがあると直感した。

実際に乗ったカシオペアは、最高だった。広い個室に、トイレに洗面台まである。室外にはシャワールームや食堂車があり、まさに「動くホテル」であった。16時に札幌を出て、翌日の9時頃上野着。時間にして17時間だ。

「17時間も乗ってるだけなんて!」

という声が聞こえてくる。事実その通りなのだから、私もうなずくしかない。でも、そうじゃないのである。私だってカシオペアに乗っていなかったら、そちら側の人間だった。そして、そちら側の人間の言っていることの方が普通だし真っ当だったから、寝台列車は姿を消した。どんどん速さを、より効率化を追求した結果、列車内にベッドを置く必要もなければ、食堂を設ける必要もなく、シャワーなんて以ての外となった。列車は移動の手段でしかなく、列車に乗っている時間は無駄だと見なされた。本当にそうだったのだろうか。私が実際に乗って感じた17時間は、あまりにも特別で、豊かだった。

あくまでもカシオペアは通常運行されていた列車だったのだ。今は生まれ変わったカシオペアが走っているけれども、こちらは完全に「商品」としての豊かな時間であり、それを得るにはそれなりの対価が必要になっている。

繰り返すが、今でも私は列車に興味もなければ関心もない。そんな私が、一度カシオペアに乗った感動から、運行終了までの間にさらにもう一回カシオペアに乗っている。

おまけに、現行で最後の寝台列車になっているサンライズにも乗った。

入線するサンライズ

本当の豊かさとは何か。確かにそれはお金を出せば手に入る。今のカシオペアがそうなっているように。しかし思い返せば、それは元々すぐそばにあったものなのだ。当たり前にあったものを気がつかないうちに消しておきながら、手に入りにくくなってから大金をはたいて買い求める。この歪んだ構造は、カシオペアに限ったことではないだろう。

豊かな時間は用意されたものではないはずだ。自分でその価値に気がつくかどうか。私も教えられた立場なので偉そうなことは言えないが、「何かありそうだ」という直感は大事にしている。そして、「カシオペア乗らない?」と言ってくれた友人には今でも感謝している。

余談。その友人とは多岐にわたる趣味を共有しているが、ここ数年の共通項は「カラオケ」。コロナ以前は週二ペースでカラオケに通っていたようで、月二だった私はここでも後塵を拝する。先日数年ぶりにご一緒したら、菅田将暉の『まちがいさがし』を唯一無二のレベル(いろんな意味で)にまで仕上げていて大変驚いた。ただのカラオケをここまで楽しんでいる人は、国内でも数えるほどではないかと本気で思ったくらいだ。

豊かな時間を生き続ける友人の背中を今でも追い続けている。

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