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肖像 ~東日本大震災の記憶~③

山形 光弘 先生

 山形先生のお父さまは大船渡の地でセメントの石を運ぶというお仕事をされていたが、先生が21歳の時に亡くなってしまわれた。山形先生は四ツ谷の呉竹学園で鍼灸・あん摩マッサージ指圧を学び、大船渡の御自宅にて開業された。
 2011年3月11日、大震災当日。「先生はどちらにいらっしゃったんですか? 」と朱鷺(shuro)が伺うと、先生は「申告に行ってたのです」。隣町、盛町の農協会館で集団申告の最中だったそうで、隣接する税務署にまさに申告しようとしているときに揺れは襲ってきた。その時のことは、先生はあまりご記憶にないそうだ。ただ、駐車場に停めてあった1t以上ある3ナンバーの車が激しく揺れていた光景が目に焼きついていらっしゃる。その大きさの車が揺れるってあまりないでしょう? と。
 その申告会場は海から1kmほどはあったが、低い土地だった。しかし、チリ地震津波のときもそこまで津波は来なかった。そして、御自宅近くを流れる小川までも波は来なかった。だから、津波がすべてを飲み込んでさらっていってしまったことに「まさかここまで来るとは…」と皆びっくりしたとおっしゃる。
 申告に集まっていた漁師の方々は、海岸線を通って自宅に戻らなければならない。揺れが襲ってきたとき、一刻も早く申請を済ませて帰りたかったらしい。「(津波が)来るぞー」「早くしろー」との一斉の怒鳴り声でその場は騒然となったそうだ。先生も申請用紙を用意された箱に預けて急いで自宅へ戻るために、車を停めていたツルハドラッグの駐車場へ走った。御自宅へ戻ると、お母さまが一人で怯えて待っておられたそうだ。先生は家の片付けも出来ぬまま、お母さまを車に乗せて通丘峠の少し先にあるお母さまの弟である叔父さんの御自宅へと避難された。車を運転しながら、先生はまさか津波が自宅まで押し寄せてくるとは考えていなかった。来てもせいぜい床上(浸水)程度だろう、そうすると片付けに1週間、掃除に1週間程度はかかるだろう、2週間は営業を再開出来ないな、等思いをめぐらしておられたそうだ。
 いち早く避難された先生とお母さまは、御自宅が津波に飲み込まれる様子は見なくて済んだ。「おふくろに津波を見せなくて良かった」と先生はおっしゃった。ただ、あまりに慌てて避難された先生は往診用のカバンを御自宅に忘れてしまっていた。そこには鍼道具が一式入っていたのだ。
 叔父さんの御自宅に辿り着き、先生は外へ出て海の方を見てみる。すると眼下に高田の砂浜が見えた。そこに公共の三角の建物があり、それが波に「埋まっていく」様子を愕然と見つめられたそうだ。波に埋もれていく。その表現に、その見ている光景の異常さを感じる。更に、先生は逃げる途中で大船渡の防波堤の上に奇妙な黒い線を認められたそうだ。そして、その上に白い線。それは今思うと「津波」だったのだ、と。波は黒かった、と沿岸の皆様、一様におっしゃる。先生は、後日、御自宅付近を捜索されて衣装ケースを発見し、持ち帰って、黒ずんだ中の衣類を洗ってなんとか着用されたそうだ。叔父さんの家はもともと水道水ではなく、山の水を使っていらっしゃるので、山から流れてくる水にさらして洗濯をされたそうだ。一番困ったのは靴。先生の靴のサイズは28センチ! 支援物資も27センチまでしかなかったのだそうだ。
 翌日から、先生は御自宅近くの小学校に車を停めて、何か残っていないかと付近を捜索され、当時避難所だった元中学校へ情報収集と物資の受け取りに通われた。2階建ての御自宅は、1階部分は跡形もなく波に持っていかれ、ダルマ落としのように、2階部分がすとん、と残っていたそうだ。そこに往診用カバンがあった! その中に残っていた鍼は2度滅菌して使用されたそうだ。
 日鍼会の先生方からの義援金は、大変ありがたかったとおっしゃる。それで、オートクレーブを買えたときにはホッとしたとおっしゃっていただいた。会長が、振込みや金融機関への送金ではなく、現金にて義援金を送って差し上げるようにとおっしゃったので、私(財務担当)は郵便局にて職員さんと別窓口にて一緒に4人分の現金を数え、現金書留の封筒にそのまま封入し、その場で発送をお願いした。当時、金融機関も動いているのか分からないし、何よりガソリンが高くて移動も大変だった。だから、現金でいただいて助かったと先生はおっしゃり、さすが会長! と私は改めて感動した。
 叔父さんのお知り合いが避難所にいらして、「来ないか?」と誘っていただいたこともあったそうだ。「避難所にいないと情報が来ないぞ」と。しばらく電気が通じなかったこともあり、情報が遮断されていて、市町村からの仮設住宅の申請など必要な情報は避難所に行かなければ手に入らなかったそうだ。
 しかし、避難所はトイレが問題だった。お母さまは洋式のトイレでないと排泄が難しい状態だったが、避難所は和式のトイレしかない。そして、水が不足していてトイレットペーパーは使用後、袋に詰めて捨てないと水を吸ってトイレが詰まってしまう。最終的には地面に穴を掘って用を足す、ということにもなっていたそうだ。
 大きい避難所には物資も届き、ボランティアも派遣される。しかし、小さな避難所は行政にも把握されず、物資も届かない、という。更に、欲を言えば、支援物資として炭水化物やタンパク質は足りていたがビタミンやミネラルが欲しかったとおっしゃっていた。風邪が流行るとビタミンやミネラル剤がないと治らないのだ。先生も当時は風邪をひかれたそうだ。
 ややあって、「未だに寝られない…」「寝るのがイヤだ」と先生はおっしゃった。思い出し、考えてしまう。考えるというより、映像や心配ごとがワーッと浮かんでくるという。宅地としてのかさ上げもいつしてくれるのか、公営住宅はいつ完成し、いつ入れるのか。家という基盤を失い、1階部分にあった治療院は中身をすべて持っていかれ、その後の捜索で見つかったのは、オートクレーブの残骸、ラジオ、遠赤。しかし、御自宅近くを流れる小川に残っていたそれらは、潮水をかぶったため、もう使用は無理だった。重いはずの買ったばかりの電動ベッドは結局見つからなかった。そんな中、再建していこうにも建物を建てるだけで1000万円、更に家財道具などを含めれば1500万円は必要だ。それなのに、貸付を受けられるのは30代まで。これから先の見通しがまったく立たない。
 先生はPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しまれているそうだ。最初にその症状を自覚されたのは、2011年5月11日、仮設住宅の抽選も当たった日だったそうだ。それまでは、叔父さん宅にお世話になりながら、山は低地より気温が低くて水道が凍る等、生活習慣の違いから叔父さんに苛立たれ、相手にとっては当然のこととして要求してくることが先生は理解できず、怒られて平常心が保てない、パニック状態で「頭の中でわかっていても行動が出来ない」。地震、そして津波からずっと‘夢’の中だったという状態だった。まるで感情が麻痺してしまい、恐らく目の前を日々の出来事が淡々と流れ去っていくだけで、毎日を生活するだけで精一杯で、心はまったくついていけてなかったということだと思う。最低限生きるために身体は自然に動き、必要なことはこなし、毎日、御自宅の近くへ出向き、更に避難所に寄って情報を得てくる。それを普通に繰り返してはいても、そこに感情やそれをどう感じるかという心の動きが伴っていなかったのだ。
 それが、ようやく仮設に入れると決まったとき、それまで張り詰めていたものが緩んだ瞬間だったのだろうか、そこに立った途端、涙がぼろぼろと溢れてきて止まらなかった。そのとき、ようやく感情と思考がイコールになったのだろうか、と先生はおっしゃった。「これが現実なんだ」と。
 ぽっと時間が空いたとき、今でも「死んだ方が良かったのかな」と思われるという。喪失感が物凄いのだ、と。そして、「ここにいる意味があるのかな」と考えてしまう。お母さまがいなかったら、頑張ってここにいる必要はない、と先生はおっしゃった。昭和3年生まれ、この地で生まれ育ち、海のそばで生きてきたお母さまが、「ここを離れたらボケがひどくなる」つまり、見慣れた景色、ご近所の方との交友、そういうものを絶たれたらお母さまは生き甲斐を失ってしまうのではないかとご心配されていらっしゃるのだ。

 余談だが、2011年の夏は、悪臭がひどくて車の窓を開けられなかったそうだ。海産加工会社の魚が腐り、その腐臭が立ち込めていたのだ。そして、なんと驚くべきことに、ハエが巨大化したそうだ! 1.5cmほどの大きさのハエが出没し、車のフロントガラスにぶつかると大きな音がしたという。餌が豊富だと生物は巨大化するのだ。
 現在、先生の御自宅のあった場所の海抜は70cmくらいだという。それが地盤沈下によるのか、もともとなのかは分からないが、宅地として利用するにはやはり低すぎるだろう。
 動けない…。そして、動かない政策。そうやって停滞している間に、最終的にかさ上げしなければならない筈の土地に商業施設がどんどん建っていく。立ち退きが決定したら彼らは補助金だけを受け取って撤退してしまうであろう。現在、土木工事関係者が大勢入っていて、その労働者目当ての商業施設である。地元の商店主たちが『夢商店街』と銘打って仮設の復興商店街をなんとか盛り上げていこうとしている土地にスーパーが立ち並んで売上を奪っていくという現実。先生もその仮設商店街に治療院を開業されて2011年の12月から営業を再開していらっしゃる。

 山形先生はおっしゃる。御自宅兼治療院を失い、往診で仕事を始めてみたが、「俺らの商売はハコがないとダメ」だと。つまり、元々の患者さんでも、「往診します」と言うと、相手が女性であると男の先生が自宅に入る、ということに抵抗感を示す方がいらっしゃるということだそうだ。「先生が来るなら掃除しないと」等と。それから、遠くの仮設住宅に入ってしまった患者さんを往診したとき、4畳半の部屋は本当にキツイという。確かに鍼灸道具を広げるスペースすらないのだと思う。実は、私も仮設の部屋を尋ねてボランティアで診療したことがあったが、そのとき、往診セットを置く場所と自身の身の置き所に苦労した覚えがある。あれは確かにキツイ。
 仮設住宅は、入居する人数で部屋が決まり、山形先生の仮設はお母さまと二人ということで、4畳半が2部屋のみ。4人以上の家族であれば6畳の部屋に入れるそうで、赤崎の氏家先生という鍼灸師の先生は仮設での診療の許可が下りているそうだ。しかし、山形先生の仮設の間取りでは営業許可が下りない。本当は自宅で診療をしたいのだと先生はおっしゃっていた。
先生が治療院を構えている仮設の商店街は、2年間は共益費ということで、いわゆる運営費が月に1万円かかっていた。それが2年間を経過する12月から家賃に変わり、金額が倍になるそうだ。そうすると、それを機に撤退する商店主も出てくる。仮設の商店街に空き店舗が出てしまうとそれでなくとも客足が鈍っているところに、追い討ちをかけることになってしまう。私の個人的意見であるが、本当に大船渡の復興を願うなら、地主さんは家賃など取らずに、商店主たちが本来の店舗を持てるまで見守り支援をしてくれる訳にはいかないのだろうか。
 更に、現在先生が暮らしていらっしゃる仮設住宅は大船渡中学校の校庭にあるのだが、そこへの道は大変狭く急勾配で、プロのバス運転手が雪が降ると行きたくないというほどの行程であり、バスの運行は期待出来ないそうだ。移動販売車は来てくれるが、皆、タクシーを呼んで買い物に出ている状態だという。
 取材させていただいた日、先生はお昼を挟んで午前・午後と患者さんの予約が入っており、私たち(筆者と書記一名)は貴重なお昼休みにインタビューにお邪魔させていただいた。お陰で時間が中途半端になり、先生は結局お昼を召し上がらなかった。食べてすぐの診療は出来ないとのことで。私たちはその後、復興商店街のラーメン屋でしっかり昼食を取ったというのに。


 実は、先生は2007年に腸閉塞を2月、9月、10月と3回起こし、10月に「盲腸の手術痕と腹膜が癒着を起こしているかも知れないので、開けて(開腹手術)みますよ」と言われて、手術されたそうだ。そのとき、小腸に腫瘍が見つかり、それを摘出。検査の結果、11月に悪性のリンパ腫との診断が下ったそうだ。その時、先生は目の前に暗くなったという。開腹手術で小腸を15cmほど切除。その後5年間、2ヶ月に1度の定期通院でようやく昨年完治したばかりだという。震災後、大船渡病院が通常の診察を続けてくれるのか心配だったそうだ。そして、身体にメスを入れるということは、やはり相当な負担になるようだ、と先生はおっしゃる。食事をした後の処理がスムーズにいかなくなってしまっている、と。
 大船渡町の先生の御自宅周囲には、人口の割りに鍼灸院が多いそうだ。赤崎の氏家先生然り。鍼灸を受診するということに抵抗のある患者さんが多く、先生は指圧をメインで最後に取れないところを鍼で施術を行うそうだ。通常は1番鍼を使うが、3寸・10番鍼が手元に残っていて、特定部位に対してそれは重宝しているとおっしゃっていた。
 今、先生がお住まいの仮設住宅にも100軒ほどの方が生活していらっしゃるが、10軒くらいはもう家を修理したり、新築したりして出て行っているという。更に今年中に3軒の方々が出て行く予定だと。そうやって前に進む人々がいる中で、公営住宅も建設が進まず、地権者の所在が分からなかったり、名義変更していなかったために相続人すべての印鑑をもらわなければならなかったり等、土地の買い上げやかさ上げ計画が進まず、市町村が方策を決定できずにいるため、先生は動くことも出来ない。そういう焦燥や、今の生活を維持していくだけで精一杯の現状、それらに先生は日々打ちのめされ、眠れぬ夜を過ごされていらっしゃるのだと思うと、こちらも胸が痛む。
 それまであった建物が消えて、海が見える景色の中で、「海、近かったんだね」と、そして、「5年後、いったいどうなっているんだろうね」と先生は御友人としみじみお話されるそうだ。10年後のことなど予想すら出来ないのだ。
 先生の周囲で亡くなった方はいらっしゃいますか? とお伺いすると「います」。ご近所の御夫婦が。道路を一本挟んだ向こうの家の方が「チリのときもここまで津波は来なかったから」と逃げずに。高田の同級生が御夫婦で…。やはり、「逃げなかった」方々がいらっしゃり、その方々は「まさか…!」と愕然とする中で無情なる黒い波に飲み込まれてしまっている。陸前高田は、本当に、私が訪れてみたときも、「え? ここまで? あり得ない!」と思える内陸部まで津波の傷跡が生々しく残っていた。
 先生がお話しくださったことに付加して、現状のご様子などを、「~ということなんですね?」と申し上げると、「その通りです!」と力強く頷いてくださった山形先生。その中にはもどかしさや悔しさ、計り知れない悲しみがこもっているような気がした。
 公営住宅の入居申請はするつもりだ、と先生はおっしゃった。だが、公営住宅も収入により家賃が決定されるらしい。10万円未満(以下?)、12~13万円、15万円以上との区分があるそうだ。しかし、年金暮らしの方々は「仮設住宅に置いて欲しい。」と嘆願書を出したそうだ。補助は出るという話しだが、それは3年間で終了するという。
 被災した人が多すぎて公営住宅もなかなか抽選が厳しい。現在建設された公営住宅は木造で12世帯分だそうだ。しかし、そこは木造のため、エレベーターがない。今後、建築予定の公営住宅はすべて鉄筋コンクリートでエレベーター付きになるという。エレベーターが付いてくれれば何階でなければならないという制限が取れるので選択の幅が広がる。先生は今、今後建設される公営住宅の完成を待っていらっしゃる。

取材年月日:平成25年5月5日

「ゆめneko」プロジェクトをゆるゆるとスタートしたいと思っております。無理は出来ないし、とりあえず目の前にあって手が届くことを淡々と続けていくために! お心遣い、心より感謝です♪