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肖像 ~東日本大震災の記憶~①

新里 勤 先生

 神奈川県川崎市に生まれ、静岡県三島市で小学校3年生までを過ごされ、その後、父方の伯父に呼ばれて岩手県大槌町へ。伯父さんは大槌にて洋品店を営まれ、その「暖簾分け」ということで、一家で転地。未だ見たことのない東北の地、どんなところなのかと不安に感じつつも、引越しして来られた。
 静岡では雪を抱く富士山を見て育ったが、実際に雪に触れたのは大槌に来てから。そして、冬の寒さには驚いたとおっしゃる。まず、苦労したのは言葉の違い。特に沿岸部は独特で、言葉遣いがとても乱暴に感じられて、初めのうちは驚かれたであろうと思う。しかし、話してみると東北の人は、言葉は乱暴だけど人柄は温かいと感じられたそうだ。
 そう、これは半年近くも風と雪に閉ざされ、外は寒く内側は温かいという環境に生きる東北人の特徴であろう。殻は厚いが、中に入ってしまえばそこは居心地の良い場所である。
 大槌川の近く、沿岸にほど近い住宅地に治療院を構えられ、周囲に鍼灸師仲間もいるし、患者さんも集まる温かい場所で多くの患者さんに慕われながら、「仕事は楽しんで行うもの!」と日々の診療を本当に心から楽しんで施術に励んでいらした新里先生。
 実は、朱鷺(shuro)も一度、治療院見学と勉強の為に新里先生の治療院を訪れたことがあった。何年前になるのだろう? 震災からもう2年経っているのだから、6年近く前になるのだろうか。明るく温かく素敵な治療院に、たくさんの患者さんが待合室に静かにお待ちになり、3台のベッドを静かにまわりながらお一人お一人に柔らかい言葉を掛けつつ丁寧に診療される先生の御姿を、免許取り立ての新米鍼灸師が憧れと畏敬に近い眼差しで食い入るように拝見させていただいた日が懐かしい。
 あの時、まさか、こんな日が来ることになろうとは予想だにしていなかった。いつか、海水浴にでも遊びにおいで、とおっしゃってくださった笑顔を今でも眩しく思い出す。新里先生のあの穏やかな笑顔は今でも寸分変わらないのに、あの憧れだった空間はもうこの世に存在しない。

 大震災当日。新里先生は通常通りの診療中だった。ベッドには二人の患者さん、そして待合室にも数人の患者さんがお待ちになっていた。1度目の揺れ、尋常ではない揺れに、先生はとにかく動かずに待つしかなかった。そして、収まりかけた次の瞬間、2度目の揺れが襲い、それは1度目よりも大きかった。棚から専門書などが落ちてきて、その物凄い揺れに本当に驚いたとおっしゃる。
 まずは、患者さんを無事に帰さなければと思い、「お金も何も要らないから」とすべての患者さんを急いでお帰しした。その内、御一人は山田町から通っていらっしゃる方だ。山田町までは沿岸沿いの道を戻るしかない。「どうか御無事で」と祈り送り出した。後日、その患者さんからは無事に帰りついたと御連絡をいただきホッとしたそうだ。
 静岡県育ちの新里先生、「大地震=津波」という意識はなかったとおっしゃる。それでも、そういうハナシは聞いていたので、白衣を脱いで着替え、奥様と御一緒に家を出られた。外へ出てみると10台ほど停められる駐車場には、先生の車1台しか残っておらず、「津波てんでんこ」と言われる所以であろうか、皆さん、それぞれ避難して行ってしまった後だったようだ。
 それを見て、「逃げ遅れたかな…」と思った。それでも、へそくりを持ち出す暇もなく、何もかも家に置いたまま、津波が来ないと分かったら戻ってこようと思い、指定されていた避難場所へと向かった。
 先生の地域には指定された避難場所が2箇所あった。1つは高台のお寺さん、もう1つは震災後、避難所として拠点になっていく中央公民館である。車を運転しながらどちらへ行こうかと迷い、道の分岐点で奥様と話し合われたそうだ。そして、左に進路を取り、中央公民館へ向かった。その選択が先生の命を救った。
 公民館へ着き、駐車場へ車を停めて外へ出てみると、すでに眼下の町は津波の第1波に覆われて水浸しだったとおっしゃる。必死に前を向いて避難所に向かっていたので気付かなかっただけで、まさに「振り返ったら波が迫っていた!」という感じだったのではないか、と。
 黒い波が町を飲み込んでいく様を茫然と御覧になる先生と奥様。そして、避難所に指定されていた高台のお寺さんは、屋根まで津波をかぶり、そっくりそのまま流されてしまったそうだ。そこには50人ほどの方々が避難されていたそうだ。
 やがて第1波が引き始めた。波が引いたときには、まだ幾つかの建物が残っていたそうだ。そして、家の屋根に登って助けを求めている人の姿も御覧になったという。「助けて!」という悲痛な叫び…。だけど、先生方にはどうしようもない。そして、引いたと思った波が、再度押し寄せてきた。津波の第2波だ。
 第1波で辛うじて残っていた家々も押し流されてきた家がぶつかり、壊れていく。そして、家がぶつかって壊れたときにプロパンガスが破壊され、爆発。火災が発生した。

 避難所である中央公民館には約1000人の人々が避難していた。しかし、町一面に火の手があがり、黒い波の上を火が走っていく。それがどんどん燃え拡がり、中央公民館まで飛び火するかも知れないと言われた。『移動出来る人は移動してください』、と放送がなされたそうだ。駐車場に入りきれなかった車が公民館へ登る道に列をなして停まっていたが、それらがエンジンを掛けて移動していく様を先生方は見送った。
 その日は雪が降り始め、暖房もない中、寒さに凍えそうになりながら、更に何度も襲いくる大きな余震に震え、火事の恐怖に怯えながらほとんど眠れずにその夜を明かされた。
 翌朝、先生方は車を出して山道を反対側に降った。知っている農家さんを尋ね、その農家さん宅で食べ物を分けて貰った。カップラーメンなど温かいものを御馳走になり、一息つかせて頂く。そのときしみじみと「人の情けは尊いものだ」と感じられたそうだ。しかし、先生方御自身が、反対の立場であったなら、必ず同じことをして差し上げたであろうことは私がよく知っている。
 その後、滞在先を求めて近くにあった福祉施設「四季の郷(さと)」へ。そこには100名ほどの避難者さんがいらした。大きいホールが1つあって、そこで皆寝泊りをする避難生活が始まった。生活していくために10人ずつのグループに分かれ、10班が編成された。一番困ったのはトイレ。水も電気もなく、トイレを流すことが出来ないのだ。そこで、各班から2名ずつトイレ係を選出し、交替で汚物処理をした。川の近くに幾つも穴を掘り、使用したポータブルトイレの中身をそこに空けて埋める、という作業を繰り返した。
 議員であり、鍼灸師でもある赤崎先生も、その福祉施設に移動していらして一緒に過ごされたそうだ。赤崎先生が何かと声を掛けて指揮を執ってくださり、大きな通る声の先生なので、そういう場合、先頭に立ってくださり助かったとおっしゃる。新里先生は避難者の出入りのチェックをして欲しいと頼まれてしばらく名簿のチェックなどを担当していらしたが、寒さで血圧が120~200mmHgほどに上がってしまい、やむなく断念。それでも、その頃から安否情報として、避難者の名簿をポスター等にして貼り出して情報提供などが行われるようになっていた。
 食事係というものもあり、初めはその施設にあった食料を使わせてもらい、100人分の食事を分け、水がないので、洗浄しなくても良いように器にラップを敷き、その上に食べ物を盛りつけるという方法で食器を再利用した。夜はローソクの明かりだけ、しかも、使用は21時まで。しばらく暖房はまったくなく、比較的早く届けてもらった支援物資の毛布や布団などに包まって寒さを凌ぐ。反射式石油ストーブが届いたのは1週間も経ってからだったという。
 支援物資が届き始めても、始めの内は食料も足りずに、避難所にいる人の分だけで手一杯で、自宅の2階が無事だったので、と避難所ではなく自宅で暮らしている被災者さん等が食べ物を分けてもらいに避難所を訪れても、分けてあげることが出来なかったとおっしゃる。知っている人が尋ねて来て、こっそり分けてあげると周囲の人にイヤな顔をされたそうだ。当初は本当に食料が足りなくて、すべての人が食べ物を我慢していた時期だったのでしょう。
 「四季の郷」には10日間お世話になり、11日目には東京八王子在住の娘さんご夫婦が先生たちを迎えにいらした。東京の娘さん宅で、4ヶ月くらい滞在し、その間に師会長にようやく連絡を取ることが出来て、はり・きゅうの免許証の再発行手続きなどをしてもらった。更に、全国の各都道府県の師会の先生方からの義援金に大変助かったとおっしゃっていただいた。苦労して送金した私(財務担当)の努力が報われて嬉しい。いや、何より、全国の先生方に改めて心より御礼を申し上げたい。温かい義援金、本当に本当に本当にありがとうございました。
 新里先生が去られて2週間後、赤崎先生は中央公民館へと移られた。そこはあくまでも障害者用の福祉施設なので、避難所としていつまでも使い続けることは出来ないということだったそうだ。
被災後4ヵ月の8月6日、盛岡市に戻られる。
実は、新里先生は、今回の津波で妹さんとそのお姑さんとを亡くされている。この事は私は初耳だった。
それから、かつてのチリ地震津波も御二人は御経験されていらっしゃるそうだ。「あの時の波は静かだった」と奥様はおっしゃった。高校2年生の時だったそうだ。奥様の御自宅は1階の半分ほどまで浸水したが、2階部分は無事で、1階の家具なども流されることなく泥をかぶっただけだったので、片付けて、修理して家はそのまま使われたそうだが、やはり1度潮水をかぶった家は傷み易かったそうだ。
東京の娘さんは、テレビで大槌の様子を御覧になり、地震があっても逃げたことのない御両親のことだから、きっともうダメだと思っていらしたそうだ。
「いつもは逃げなかったけど、あの時だけは逃げたのよね」と奥様。それほど尋常ではない揺れだったのだと先生はおっしゃった。
 46年間やってきた鍼灸治療。治療院も新築し、買ったばかりだった新車も大震災は全てを奪っていった。それまで築いてきた経験や信頼や人生の楽しみ、生き甲斐、生活のすべてだった明るく温かく、多くの患者さん、そして仲間に愛された治療院。それを真っ黒な波が飲み込み、すべてをさらっていった。46年の集大成、一つ一つ積み上げてきた歴史。それをたった一瞬、一日にして。
 「もうやめよう…」と考えられたそうだ。
 そんな時、大槌の患者さんより電話があった。自宅の治療院から転送されてくる電話で。盛岡まで行くから治療して欲しいと懇願され、先生は受け入れるべきか断るべきか悩まれたそうだ。「是非、頼む」と言われ、引き受けてはみたものの決断出来ずに悩まれたことと思われる。
しかし、苦しんでいる人がいる。その事実を目の当たりにしたとき、先生は、手助けしなきゃいけないんじゃないか、と思われた。その患者さんは現在も定期的に通っていらっしゃる。

 新里先生の現在の心境とは。
 首藤先生のおっしゃる「忘己利也(もうこりた)」という言葉だという。
意味は、『お金のある人はお金を、肉体の持ち主は肉体を、時間のあヒトは時を、知恵のあるヒトは知恵を、他の人のために使うこと』
 新里先生は、現在、リハビリ施設に月曜日から木曜日の午前中通われて機械を使った運動をされていらっしゃるという。そして、そこで出会ったいろいろな方々と会話を楽しまれ、交友を広げていらっしゃるそうだ。理学療法士の先生との会話で、思わず専門的な意見が出て、「どうして御存知なんですか? 詳しいですね」と驚かれ、「実はその方面の仕事をしていたんです」と医学的な会話を交わすこともあるとおっしゃる。
 先生が治療院を構えていらした土地は、もう住宅は建てられない区域に指定され、帰る場所はなくなってしまった。その土地の買い上げ料金を元手にして、肴町アーケード街の近くに家を持とうかと先生はご計画中だ。
 神奈川に生まれ、静岡で育ち、大槌で人生の多くの時間を過ごした。最後は盛岡で生涯を終えるのかな、と先生は微笑まれた。

取材年月日:平成25年3月16日

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