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肖像 ~東日本大震災の記憶~②

井上 正敏 先生

 井上先生は、大船渡の地に生まれ育ち、代々続く鍼灸院を継がれて診療を続けられてきた。評判を聞きつけて、岩手のあちらこちらから患者さんがいらっしゃる。御自宅兼治療院は、海から1kmほどの海抜15m程度の御自宅で治療院を営まれ、木造の薬屋も隣接されていらした。

 その日、地震の揺れは凄まじかった。今までの揺れと違い、「津波が来るな!」と思ったそうだ。先生の御宅の建つ場所は地盤が固いのか、いつもはそんなに被害はなかったのに、その日は鍼などを収めているボードが倒れるほどの激しい揺れに見舞われたそうだ。揺れが収まり、ハッと頭に浮かんだのは泊りがけで先生の治療を受けに盛岡からいらしている患者さんの顔だった。71歳になる足の悪いおばあちゃんが、先生の御自宅よりも低い場所にある旅館に滞在されている。
 先生は急いでその旅館を訪れてみる。すると、患者さんは御無事でお部屋にいらした。その顔を見て安心し、先生は、一旦、家の中の倒れた家具や散在した治療道具などを片付けるために御自宅に戻られた。
 家具を直しているところに、旅館のおかみさんが来て、近くのディサービスにいるお母さまを迎えに行くという。旅館の部屋に患者さんが残されることになり、先生は心配になり、再度、奥様の軽乗用車を借りて旅館へ向かわれた。その途中、先生の家の前の県道には車がパッシングをしたりクラクションを鳴らしたりしながら高台へと向かっていく。それは海の方向へ向かおうとしている先生に対して、「津波が来たぞ!」という対向車からの合図だったそうだ。
 井上先生は患者さんを部屋から連れ出し、昔からの知識で旅館のトイレへと逃げ込まれたそうだ。お年寄りから「地震や津波なんかのときには、小さなしっかりした柱が何本も立っている頑丈な所に逃げれば助かる」と聞いていたので。その間にも電柱が倒れるバリバリという音が聞こえていて、外の様子は見えなくても波が押し寄せてきていることが分かった。先生が患者さんと8畳くらいのトイレに逃げ込んだ数分後には一気に真っ黒な水が流れ込んできた。濡れたと思ったら膝・腰・首まで水が来て、あっという間に天井30~50cmくらいまで浸水し、先生は必死に患者さんを抱きかかえて浮かび上がる。
 真っ黒な波。地獄などは知らない、しかし、「地獄っていうのはこんなもんではないか」とその光景を心に刻まれた。しかし、「ダメだとは思わなかった。生きなきゃ!と懸命に足を動かし続けた」と当時を振り返られる。立ち泳ぎの状態で、永遠にも思える5~10分ほどの浮遊時間のあと、次第に波は引いていき、先生も患者さんも九死に一生を得る。その間、恐怖感はほとんどなかったそうだ。
 先生にとっては、せっかく来てくれた患者さんなので、「助けに行かないと」という気持ちのみに突き動かされた行動だったらしい。
 後で覗いてみると、患者さんのいらしたお部屋の窓のサッシは津波にぶち抜かれていて、押入れのものもなくなっていた。もしもその場に残っていたらば、間違いなく波に持っていかれていただろう。
 天井まで押し寄せた破壊的な波は、津波の第3波くらいだったのではないかと井上先生はおっしゃった。場所によって、第2波が一番強かったり第3波が大きかったりしていたようだ。そして地形によって更に高い波が押し寄せた場所もある。先生の御自宅の近くは、県道を波が遡ってきたらしい。
 先生の御自宅から海へ向かってそれまでは建物が300軒くらいあったそうだ。それがすべて波にさらわれて消え、以前はまったく目にすることが出来なかった海が、先生の治療院から見えるようになった。
 先生の家の木造の薬屋は、流されてきた家などがぶつかって柱が削られ、更に余震による揺れで次第に傾き、2階にあがると体が前にのめるほど斜めになってしまったそうだ。薬局は最終的には解体するに至る。
 先生の御家族は揺れのあと、1階の部屋にいらしたそうだが、波が来ているとはまったく気付かずに、浸水し始めて驚いて2階へと駆け上がられた。1階を天井近くまで襲った波も2階までは上らずに、奥様と娘さんはご無事だった。しかし、1階にあった家具も、治療院のすべても、津波は海へと持っていってしまった。
 先生の御自宅にあった軽トラック、奥様の軽乗用車、査定額600万円のBMWもすべて波がさらっていってしまったという。
 先生のご近所にTV朝日の記者がいらっしゃり、彼が撮影したカメラが津波の映像第1報として全国にテレビ放映されたそうだが、そこには津波に呑まれて流されていく人の姿も映っていたということで、1度きりの放映で終了。実際、その場にいらした多くの人たちは、そうやって波に呑まれ、助けを求めながら流されていく人々を正に「地獄・・」と思いながら。助けられないもどかしさという痛みと共に見送るしかなかっただろうと思う。それは、どれほどの痛み、恐怖であっただろうか。
 被災後、間もない頃に内陸に避難していらした被災者さんにお話しを伺ったときも、まだ夢を見ているようだ、とおっしゃっていた方がいらした。これは、悪夢だと、目覚めればいつもの暮らしに戻っているんだと、多くの方々が考え、祈ったのだろう。
 波が引いて、全身ずぶ濡れになりながら、井上先生は患者さんを連れて高台にあるご親戚の家を頼られた。始めに滞在されたのは御家族3人の御宅。そちらで患者さんと一緒にお世話になり、1週間ほどそこで共に過ごされたあと、地元のタクシー会社「三光タクシー」さんが動いていたので、娘さんが付き添って盛岡まで無事に患者さんを送り届けられたそうだ。その後、先生の御家族は御夫婦お2人で暮らしていらっしゃる別の御親戚のお宅にお世話になった。

 沿岸部の車を扱う会社のエピソードもいくつか聞いたが、そのタクシー会社も、事務所はダメだったが、さすがプロのドライバーさんということで、タクシーだけは、高台へ避難させ、被災を免れていち早く営業を再開し、人々の足として活躍されたようだ。漁船を沖へ逃がすために津波を乗り越えた船長さんのお話をテレビで観た覚えがある。そこに救わなければならないモノがある、そういうとき、人は通常では考えられない力を発揮し、奇跡を起こすのかも知れない。そして、そういう奇跡を成し遂げた崇高なる人々は「当然のことをしただけ」或いは「夢中だったので覚えてない」とはにかんで微笑まれる。井上先生が咄嗟に患者さんと共にトイレに逃げ込み、波に襲われても尚、患者さんを抱きかかえた腕を決して離さなかった行為もその類に位置付けられるだろう。
 1階を浸水という被害に遭われた先生はしばらく仮設住宅に過ごされ、専門の業者さんに洗浄してもらって、なんとか家屋の修復に力を注がれた。
 被災から1ヶ月。4月17日には患者さんの往診と共に、御親戚の工場の2階の事務所を治療院として借りて営業を再開される。そして、御自宅の復旧による治療院の再開は8月10日のことだった。治療道具はすべて失ったが、鍼と艾さえあれば仕事が出来るという鍼灸師の強み。会長が送ってくれた鍼道具でとりあえず仕事を始められたそうだ。
 井上先生のご近所の方では。13名の方が亡くなり、またすぐ近くの特別養護老人ホームでは50数名の死者が出てしまった。更に、陸前高田の御親戚、大船渡の高校時代の同級生の家族5名が犠牲になった。そして、先生の患者さんでは釜石市、大槌町、山田町、宮古市の方がそれぞれ合計で10名ほどがやはり犠牲になってしまったそうだ。
 それでも。家は失っても、命があればまた始められる。縁に導かれ、絆に支えられ、先生は前を向いて歩み始められている。その姿に私たちも力をいただき、希望を見る。
 現在、先生の御自宅から海へ向かっての風景の中には仮設の商店街や仮設の建築会社の事務所などが細々と立ち並び、小さな復興・復旧を営まれているそうだ。
 NHKの取材番組「あの日、あの時」で井上先生のお話が取り上げられ、放映されている。映像はNHKのホームページで今でも観ることが出来る。盛岡地方局で昨年、その後、全国放送で今年3月にも紹介された。


取材年月日:平成25年3月24日

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