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【やまと歌は♡】

 人の心を種として、
 よろずの言の葉とぞなれりける。
 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、
 心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、
 言ひ出だせるなり。
   〜『古今和歌集』(十世紀)仮名序より〜

これは、私が大好きな『仮名序』の一節。
音読すると、何ともピタリとハマった音とリズムで氣持ちが良い。そして、シンプルな言葉で物事の深い真理を言い当てているのが本当に素晴らしく、音読すればするほど、味わい深い文章だなと思う。

「言の葉」の元になっているのは、私たちの「心」なのだ。頭ではなく、「心」。私たちは日々過ごしている中で、いろんなことを感じ取り、そのことで、何かを思い出したり、考えを巡らせたり、自分の氣持ちに氣付いたりする。ここに「自己表現」の全てがある。オギャーと生まれてから今日までやっているのは、この「自己表現」だ。

「心」に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出す「言の葉」たちが、自分自身を形成していく。私たちは、「言の葉」を使って、自分が何者で、何を表現するために生まれてきたのか、生涯をかけて探究していく生き物なのではと思う。

そうすると、自分の中にある「言の葉」が豊かであればあるほど、「自己表現」の自由さがどんどん広がってゆくし、「心」に思ふことを、自由自在に言ひ出せたら、「心」が喜んで伸び伸びと育ち、自分自身が解放されてゆくなぁと、ふと思いを巡らせた。

そんなことを思いついたのは、職場の若い女性(日本人)が、「これ、どうやって書いたらいいのでしょう。日本語がよくわからない…。」とパソコンの前で、自分の入力した文章を読み返して、その意味不明さに頭を抱えて悩んでいる姿を見たからだ。

彼女は至ってどこにでもいる、いわゆる普通の可愛らしい女性なのだが、残念ながら日本語了解能力が足りない。お客様の問い合わせの内容を聞き取るのも苦手だし、問い合わせの回答を私が説明して、そのままお客様に伝えるように言っても、一回では理解出来ず、何回も聞き直してから、お客様へお伝えするが、結局伝え漏れがあったりする。で、お客様とのやり取りをパソコンに記録して一連の作業が終わるのだが、その文章がおかしかったり、趣旨がズレていたり…もう突っ込み所が満載だ。
「ドンマイ!」と励ますと、ニコッと笑顔になるが、仕事中は、たいてい眉をハの字にして困った顔になっている。

日本語の了解能力ないと、かなり表現力が狭められ、その不自由さでストレスもあるのだろうなぁと彼女の様子を見て思ったのだ。悩ましいのは、彼女だけではない。他にも同じように日本語の了解能力に問題ありの人が職場に結構いるが、きっと本人たちは、まさか自分の日本語力に問題があるとは思っていないだろうし、そのためにどれだけ、「心」の自由が損なわれているか想像できていないだろう。

あぁ、音読をすればいいのに…もっと自由になれるのに…と今日も心の中で呟いている。

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