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「けど」「のに」を使わない私に。


「就活は恋愛と一緒だ」という人のことが私は大嫌いだったけれど、最近は認めざるを得ない傾向にある。相手の立場や気持ち、何を求めているのかを知る努力をせよ、ということ。


一方的な想いは、相手の事を考えられていなくて。

あふれかえった想いを、愛を。少し会ったばかりの相手は中々受け止めてくれないものだ。ぽろぽろとこぼれて、誰も拾ってくれない。

そんな不器用な自分(と勝手に美化したおのれ)を助けてくれなくて、辛くなって、ある禁じられた構文を使ってしまうことがある。


私は〇〇してあげた「のに」。

〇〇になった「けど」私は悪くない。


この構文を口にする人に対して、疑問が浮かんだり不快な思いをしたりする人は少なくない。

かくいう私も「これだけしてあげたのにどうして恩を仇で返すようなことをするのか」と目の前でうなだれる人に対して、追い打ちをかけないような言葉選びに苦心したことがある。中々、聞き手にダメージを与える構文だと思う。


しかし最近、この構文を幾度となく頭の中で使ってしまっている。

あまつさえそれを裏垢に吐き出してしまっている。嗚呼。


就職活動がうまくいかない。

コロナ禍で初めの方はほとんど身動きが取れなくて、四月に例年ならもっと出ていたはずの求人が出なかった。どんどんずれ込んで今に至る。

もちろん何もしていなかったわけではない。


でも、いざという本番にどうも力が発揮できない。

本当はもっと自分アピールしたいのに。うまく話せるのに

これだけ頑張っているのにどうして結果が出ないのか。

私は不器用だけど、貢献できるよ、努力できるよ。



それはどこから目線なの?

好きでやったことなのにどうして勝手に期待して大きな見返りを求めるの?

相手のこともっと考えなよ。


相談してくれた彼・彼女の堂々巡りの会話に冷水のごとくあびせてやりたかった私はそれこそ一体何様だったのだろう。

人に対して厳しいのは自分に対して甘いことの裏返しだ。

底が知れた想いだ。


そろそろ研究に本腰を入れなければいけなくなってきて、ジリジリと隅に追い詰められている現在。思いのほか、余裕がないのだと痛感した。

結果がついてこないのは、努力が足りていないし、自分の実力がそれきりなのだ。

「不器用だから」なんて言葉は通用しない。

私は人よりも多く学生生活を送ることについて、後ろ指をさされることに苛立ち覚えていた。しかし、結局はモラトリアムの延長になっている現状を肯定したくないから。

ごたくを並べているうちに、私の未来は緩慢に閉じていっている。

仕事もしないで、何かの責任を負う事からとことん逃げてきていたのだ。



みんながみんなに向けた言葉ではない。

本当に苦しい中頑張っている人もいるし、社会生活をしていく上で困難を抱えている人もいる。

ただ、この言葉たちは「けど」「のに」を使って甘えた「私」への戒めだ。



もう逆説的な言葉を使って悲劇のヒロインを演じるのはやめる。

行動せよ。

堂々巡りな思考から、飛び出す。

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