意図せず孤独になるか、意識して孤独を選ぶか

 20歳までの人生において、基本的に孤独を感じたことがなかった。一人だなぁと思ったことはあるが、世界に孤立した感覚は無かった。鈍いのかあえて気にしようとしなかったか、両方か。
 本当に幸せなことに、僕の人生には親友と呼んでもらえた人が三人いる。一人は小学生からの付き合いで、二人は中学で知り合った。仲のいい友達レベルならもう3人ほどいて今も付き合いがある。中学卒業アルバムの最後にある空白欄は、かける場所がないほど埋まっていた。

 中学の頃叔父に買ってもらったPS4が、世界を大きく変えた。ゲームは友達といつでもできるようになった。それまでは3DSかWiiで、誰かの家に行くか、集まるかしか無かった。それがネットを通じて繋がれた。みんなで同じ時間を共有して、同じ経験をする。人生で最高の趣味の一つだった。
 繋がると聞いてどこまで想像がつくかわからないが、隣より近い場所に友達を感じられるものである。もし人間のボディランゲージの重要度が低い世界線だったら"会う"という行為は時間の無駄になるほどに。
 誰かと一緒にいるのは楽しいし、安心する。ずっとつるんで生きてきただけに、それ以外の手法を知らなかった。常に他者が近くにいて、やらなきゃいけないことを教えてくれた。
 高専に入ってからもつるみ癖が消えず、消えないのに人と深く関わらなかったので、他者に頼りっぱなしの癖に仲良くなる気のない人になっていた。

 ずっと前からやりたいことがあった。コーディングとか、プログラミングとか呼ばれる奴である。人生で何度も挑戦したことがある。名前を挙げればキリがないほどに。その度に忘れ、ゲームに没頭してきた。虚しいことに、友達と没頭したゲームはナンバリングが変わり、そのゲームのレーティングは上位1%レベルまで到達した。友達と一緒に。
 20歳までの人生は"友達"と"オンラインゲーム"だけだった。常に人と関わっていないと気が済まない人になっていた。
 だからこれは決意である。この自分を捨て、孤独を選び、他人に甘えないことへの。自分を律し、孤独の力を借りて、なりたいものに近づくため。

 "努力"という言葉について。努力は、なりたい姿に近づく行為を指す。自分にないものであればあるほど、たくさんの努力が必要となる。世の中には星の数ほど努力の方法論や、成功本がある。だがそれらを手に取る前に考えなければならないことがある。努力は"普通"じゃないということ。
 普通じゃなくありたいなら、人との関わりを意識して絶つことが必要だということ。毎日遊んでる友達がいながら普通じゃないことをするのはどうやら人の構造的に難しい。

 やりたいことがあるのに何故かできない。

個人的な経験から考えると、ずっと上達を望んでいたゲームですら、友達と遊んでる時しかそのゲームはプレイしなかった。否、やれなかった。
 なにかについて上達するために毎日継続してやる、上達を意識するといったことは普通ではない。特にゲームはいわば娯楽であり、楽しむことを目的とする。なのに上達を目指すという行為は明らかに"普通"ではない。
 これは完全に自分の経験を元にしてるので他の人には当てはまらないが、日常的に友達と遊んでるタイプの人間なら似たような経験があるはずだ。

 MOROHAの『革命』という曲をご存知だろうか。終始語り調で韻を踏みながら想いを歌詞に乗せて感情でぶっ飛ばす。バカにできない雰囲気が彼らの持ち味だ。

 多分こういう道もある。就職して、新しい街で6度目の春を迎える。友達と酒を酌み交わして疲れを癒やす。
 だけど、ごめんな友よ、と言いながらその生活に終わりを告げる人もいる。やりたいことのために、自分を大切にするために。

 蛍光ペンを見つけた。
 
 

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