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秘密の鍵を握る【シークレットマスター】

目の前に大きな山がそびえ立つ。

モーゼはホレブの山に登り、神の啓示を待っていた。
君はそのときモーゼとともにはいなかったが、山の麓からはっきりとモーゼの姿をとらえていた。

神とはなにか?
神は人の前に姿を現すのか?
神と人との間に交わされた約束とは何か?
そのために何をしなければいけないのか?
神に選ばれるとは何を意味する?

そして肉眼では見えることはできなかったが、山の頂きにおけるモーゼをしっかりと心の眼でとらえていた。
突如、それまで無風状態であった山の頂きに、一陣の風が巻き起こった。
陽が沈んでいるので、あたりを見ることはできなかった。

夜空に無数の光の粒が広がっていた。
その光の粒は、星か、異星人の乗る船か、やがてそれは一つに集まり、巨大な頭上の星となった。

次第に一際輝く溶岩のような塊となり、山の頂きに轟音とともに降りてくる。そして、荘厳なる声が響いた。

我はアドナイ
お前たちをこの星に連れてきた神である
お前たちは星の民

はっきりとそれが聞こえた。
そして君はそのとき、すべてに気がついた。

神とは、偉大な聖なる星からやってきた生命体であること。
その生命体は厳かで、これから先、何千年にも渡って地球を導くように思われた。

そしてそのアドナイはこう言った。

私は信じる力。信じきる力。
私は信じきることによって、すべての文明を築いた。

地震や津波が来てすべてがゼロになっても、この信ずる気持ちがあれば、たちまちのうちに再建することができる。

なんどもこの地球を不幸が襲うのは、この星が魂のテストの星だからだ。
幾つもの幾つもの試練が来たし、これからも来るだろう。

それはこの地球を滅ぼすためではない。
乗り切ることによって、信ずる力はさらに強くなる。

そしてそのアドナイは、それを心の眼で見ている君にもはっきりとこう伝えた。

お前も同じだ。知識や体験は、時代が変われば役に立たない。
信じきる力は、時代を超えても通用するものなのだ。

君は心の中でアドナイに質問した。

信じるとはどのようなことを申すのでしょう?
人を信じるのでしょうか?
直接神を信じることができたらどれだけ幸せでしょうか。

古今東西の、あらゆる人間を偉人にした秘密の鍵がある。
それは信じきることによって、神との直接のつながりを得たもの。
その秘密の鍵を手にいれたものは「シークレットマスター」と呼ばれた。

もちろんモーゼもその一人であった。
そのときモーゼも、アドナイから同じように質問を受けていた。

信じるとはなにか?答えなさい。
もしこの答えを間違えたら、もう何十回も生まれ変わらなけれなならない。
正解に到達したら、お前は宇宙のマスターキーを手に入れたことになる。

信じることについて君はアドナイに質問し、同じ質問を、神はモーゼに投げかけていたのだ。

夜が明ける前に答えよ。

モーゼは最初こう答えた。

力の限りを尽くして、もうこれ以上努力のしようがないとき、物事が上手くいきますようにお願いする。
これが信ずるということでしょうか?

アドナイは首を横に振った。

それでは足りない。

ジリジリと夜明けが近づいていた。
次第に不明確だった山や谷や草原の姿が徐々にシルエットを明らかにしていく。

モーゼは絶体絶命だった。
民を率いてきたが、自分がこの質問に答えられなければ民は全滅する。
それどころか、己れ自身も、もう何十回も生まれ変わらなければならない。
自分を救うこともできず、民も救うことができない。

時が近づいていた。

いいかね、古来の古の賢人は、このような死に物狂いの境地で信じることについて考え抜いてきた。

アドナイは優しくモーゼにこう教えた。

よいか、この山の上でお前がこの私に出会ったことをお前は下山して説かねばならん。

一体何人が耳を傾け信じると思う?
人々は幻だと言う。偽りだと言う。お前は嘘つきだと言うんだ。
それでもお前はこのわしの教えを説くか?

もちろん説きます。

モーゼは胸をはって答える。

よかろう。だが説いたとして耳を傾けるものは一人もいない。
どうするのだ?

お前がここで体験したことを、下山して伝えたところで人々はそれを俄かには信ずる事はできない。

お前は私を徹底的に信じ、民はお前を疑う。これを信ずると言えるか?

どうしたらお前がこの私を信じたことを、その信ずる境地を民に教えることができようか。

いくら説いたところで、それはお前の体験であって民の体験ではない。
このようなことで、これから先四十数万の民を無事に導いていけるのか。

実はそのことで、モーゼもまた悩んでいたのだ。

ではこの私に道はないということでしょうか?
この私の前には絶望しか残っていないのでしょうか?

たとえ下山してあなた様の教えを説いたところで、人々からは気狂い扱いされ、誰も耳を傾けないとすれば、もはや絶望した残っていないのではないでしょうか。

アドナイはこう言った。

お前はな、ここで見たこと聞いたこと感じたこと体験したこと。
民にわかりやすく説こうとする。
それはお前の親切心からくる。

だが、それは違う言葉を違う言葉に翻訳したにすぎない。
お前の体験は、いくら言葉にしても虚しく響くだけだ。

よいかモーゼ、きょうからお前はこの体験を分かち合おうとする気持ちを諦めてもらわねばならん。

どういうことでしょう?
私はこの素晴らしい体験を民に説きたくてウズウズしているのに。
それを説くなとはどういうことでしょう?

よいか、人々はお前の体験をわかりやすく、比喩や例え話として説いて欲しいとは思ってはおらぬ。
人々はお前と同じように体験したいのだ。お前の言葉がききたいのではない。

それにお前は語ることが苦手だ。今まで語ることをアロンに任せっきりであったが、それでは到底四十数万の民をまとめることはできぬ。

説こうとするな。この体験の喜びのままに生きなさい。
そうすればお前の身体に染み付いた、この偉大な体験の喜びが知らず知らずのうちに伝わっていく。あえてそれを言葉にする必要はない。

お前の心が私から離れるからだ。私はお前が私から離れてほしくないのだ。
お前は私と一つになって喜びのまま生きるがよい。

それをわかりやすく説こうとか、噛み砕こうと思う必要はない。
お前はその体験のまま生きればよい。
朴訥で淡々とした喋り方だが、お前の言葉の端々から感動が伝わる。
その感動は裏切ることがないのだ。言葉にすればすべてが偽りになる。

よいか、お前はこれから下山しなければならぬ。
だが心はいつまでもこの山においていきなさい。
お前は生涯、心をこの山においていくのだ。

言葉で説こうとするな。
そうすれば民衆はお前から体験の残り香を嗅ぐことができる。

このようにして信ずることが伝わるのだ。
よいか、信ずるというのは、偉大で不思議な体験を、その喜びのまま一生を貫こうと思うことだ。

わざわざ誰かに説こうとすれば、ウソになる。ウソを生きてはならぬ。

生き生きと、輝く喜びのまま死ぬまで生きてほしいのだ。
これが信じるということだ。

その瞬間、見たこともない稲光がシナイの山の頂上に落雷した。
二枚の石板が築かれ、光の手で十戒が描かれた。

いいかね、これが君が見たこと聞いたことだ。
君は誰かに伝えようとしたり、妥協する必要はまったくない。
妥協すればするほどウソになる。

君の本当の素晴らしさは、喜びのままに生きる力にある。
神の前で踊る、そなたの踊りのなんと美しいことか。

賛同者がいようといまいと、強烈な原始体験の喜びのままに舞え。
それを忘れてはならぬ。

心は常に神とともにある。
一ミリもずらしてはなりませぬ。

END


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