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極楽浄土に現存する人間の本質

我が国には、たくさんの宗教があります。

しかし、我が国独自の宗教が作られたのは、鎌倉の初期であります。

法然や親鸞や、日蓮達が、戦争に嫌気がさした庶民や貴族や武士を対象として、それぞれ立教致しました。

つまり、生活が困窮し、先の見通しが立たない時に、宗教が生まれたのです。

まったく未来が見えない中で、これらの宗教の先駆者たちは、闇夜に一筋の光明をもたらしました。

人間の力では、如何ともしがたい未来を、御仏の一条の光があれば、必ずや救いの道が見えると。

ほとんど殺し合いに近い世の中で、どのようにして精神的な柱、道筋を作っていったのでしょうか。

その中であなたは、法然と呼ばれる人に、一時帰依いたしておりました。

法然房は、なかなかの学識者でありました。
古今東西の学問、宗教を修めておりました。

しかし、知識には限界がある。
直ちに人が救われる道を説かなければ、宗教の存在意義はない。

法然房は、もちろん比叡山に籠り学問を学びましたが、やがてそこに限界を感じ下山いたしました。

もちろん、法然房にも迷いがありました。
自分はひょっとしたら、修行を失敗したものかもしれない。

こんな人間に、世の中を大きく根こそぎ変えるような、仏の教えを説く資格があるであろうか。

悩み苦しんだ挙句に、法然房は、親鸞のもとに身を寄せます。

親鸞は言いました。

拙僧も同じこと。
迷い多き身なり。
そして、今もって悟りを得たとは言い難い。

悟りを得たという自覚があって、宗教を始めたのではないというから驚きです。

法然房にとって、その当時の新興宗教の教祖たちは、皆悟りを得たぞと言わんばかりに自信満々の態度で、立教したと思い込んでいたからです。

ところがのっけから親鸞は、自分は不完全で欠点だらけであるというではありませんか。

これが仏教なのか。

仏教の開祖ゴーダマシッダールタは、完全な悟りを得たとして、天下に広く知れ渡っている。まして生まれた時から天上天下唯我独尊と叫んだらしい。

宗教の教祖は皆超人とばかり思い込んでおりましたので、親鸞のこの言葉は、法然房にとって驚きそのもの。

皆々煩悩を捨てて、迷いはすべて無いというが、この親鸞こそは迷いの塊である。煩悩の塊である。

法然は驚きましたが、完全無欠な悟りというものがないのだろうかと、驚いたのです。

では、完全な悟りはないのでしょうかと、親鸞に聞きますと、

もちろんこの世は穢土であって、汚らしいものだ。
しかしもちろん仏の世界は清らかである。
我等は称名念仏する間に、この清らかな世界に心を向かわせることができます。

一時期この言葉で救われた思いが致しましたが、法然はそこから一歩進んで、自分が今いるこここそが極楽浄土であると、そこまで確信を高めたのであります。

ちょうどその頃、家庭の不和や、家の中で使い込みをする弟の存在に悩まされておったあなたが、法然に教えを聞きにまいりました。

これこれこのような次第で、私の心は四六時中、苦しみ、悩み、揺れております。

こんな私にも、いつか御仏の静かな時が訪れるでしょうか?

法然は言いました。

その悩んで苦しんでいる、そして動揺している、その姿こそが、極楽なのだ

あなたは口を開けてポカンとしてしまいました。

法然様、お言葉を返すようですが、今のお言葉、しかとわかりかねます。
何度も申し上げますが、私は朝起きた時から、この弟などこの世から消えてしまえばいいと、阿修羅の心に取りつかれております。

私は稼ぎ手を失って以来、女手一つでたくさんの子どもを抱えてきました。
せめて弟が、自分と一緒に働いてくれると思いましたが、この弟めは、この私に、金銭を要求する有様であります。

従いまして、朝起きた時から私の地獄の一日が始まるのです。
このように憎しみ恨みに包まれているこの私の、どこが極楽浄土でしょうか。

すると法然房は、目を閉じてこうおっしゃいました。

よいかな。
今ここに、生活も乱れ切って、毎日の支出におわれておる、借金取りに追われておる、一人の人間がいたとしよう。

もしもそなたも同じように、借金取りに追われて、その人の面倒をみるなどとんでもない有様であったら、この者に慈悲の心が起きるか否か。

もちろん起きません。
その時は私は自分のことで精一杯ですから、生活に困窮しているのはこちらの方だと言いたいところでございます。故にもちろん、愛情も、慈悲も起きません。

そうであろう。では、そなたが億万長者であったらどうか。
人の何千倍も稼いで、少しも生活に苦しむところはなく、五体も満足で健康。
さすれば、僅かなお金を恵んでやろうという気は起きないであろうか。

もちろん起きます。
自分のお金を分けてやっても、何一つ困ることはございません。

そうか。それが御仏の慈悲というものじゃ。
もし自分が惨めで足りないところだらけで、自分が困っていると思ったら、人は人を助けることはできない。

しかし、本当の自分は、御仏に守られて、幸福一杯であると思ったら、人にはゆとりができて、助けてあげようという気になるのだ。

自分の生活が、本当に困っていてもですか?

そうだよ。
もし本当に心にゆとりがあれば、少々困っていても、ああ、これは人一倍朝早く起きて、夜遅くまで働けばいいだけだと思って、精一杯働いても、心にゆとりがあるから、ほとんど疲れないのだ。本当の自分が何であるかを知っているからだよ。

よいか。
今弟に苦しめられて、家族にも苦しめられ、借金取りにも苦しめられている。
そのそなたが本当の自分だと思ったら、これほど辛いことはございますまい。

しかし、もしその本当のそなたは、阿弥陀如来と同じで、心が豊かで、たくさんの御仏に守られて、朝から晩まで、目に見えない存在から励ましを受けていると思えば、心は疲れないだろう。

つまり、本当の自分がどこにいるかを知ることが大事なのだ。

しかしそれは、あくまで想像上のことではありませんか。

もちろんそうだ。
人間の心というものは、いかようにでも想像することができる。
不幸を想像することもできるし、幸福を想像することもできる。

どちらが安全快適で、心が落ち着くかを考えれば、それが妄想であろうと想像であろうと、心が豊かで落ち着く方向へと、心を振り向ければよいのじゃ。

私は最初、悟りとは何であるかがわからなかった。
だがやがてわかったのだ。

悟りは人間の想像力の中にある。
自分の心が最も落ち着くように、想像すればよいだけの話じゃ。

どんな風に想像すれば、自分の心が落ち着き、豊かになって、短気でカリカリする心を克服できるのか。
自分は本当は大金持ちで、何もかも満たされた世界にいて、たまたまこの現実という世界にやって来たのじゃ。

自分の実家が大金持ちで、その実家から派遣されて貧しい村にやって来たと思えば、今貧しい村にいることが現実であったとしても、そなたの実家は大金持ちで満たされておる。そうすれば、何事も苦悩なくこなすことができる。

自分が本当はどこからやって来たのか、誰にもはわからぬ。
しかし、それを想像することはできよう。


このようなわけで、南無阿弥陀仏と想像することが、自分は常に弥陀の世界にいる。自分の本心は、弥陀の世界にあると、想像することなのだ。

このように法然房から教わったのであります。

故にあなたは、途中で少々嫌なことがあり、苦しく辛い事があったとしても、いつの間にかそれを陽気な心の働きで、くぐり抜けることができます。

そのようなわけでありますから、これからも心の中に極楽浄土を描き、あなたの本質あなたの魂は、最も豊かな世界に、今も現に存在し得ると、創造なさることであります。

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

2024年6月 タマシイヒーリング by Dr.Shu
画像引用 天空の花園「月山弥陀ヶ原湿原」


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