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己の可能性と大きな奇跡を信じる
きみはいま、光も何もない世界で、まさしく宇宙を感じている。宇宙を感じるということは、自分という存在を創られた、神の心を知るということです。
この壮大な宇宙から、自分という意識体がいかに偉大なもので、どれほど神に愛されて創られたか、そのことに対する感謝もないまま、幾たびも輪廻転生を繰り返し、ある時は王として、ある時は奴隷に近い境遇を経ながら、立場を変え職業を変えつつ、互いに相手の立場に立つことで、より広き視野を見出そうとする。
その広き視野は、いったい何のために必要であるかというと、自分はいったいこの宇宙の中でいかなる存在であるかということを、しかと自覚するために必要なことです。
そして生まれ変わるたびに、人は己の中に可能性を見出すときに、もうだめだと思った瞬間に道が開けたり、思わぬ人の助力を得て、不可能だと思ったことを成し遂げたりするものだ。
ある意味この人生というものは、不可能を可能にする瞬間を味わうためにあると言えるのかもしれない。今日はその中のドラマの一つを、あなたの前世の中から一つ選んでみよう。
いまから約一千三百年前、平安に都があった時代、即ち日本の国である。その時代において、質素ながらコツコツ田畑を耕す農民の姿があった。汗まみれになって、土と一緒になって朝から晩まで働く。
俺はこのまま土に生き、土に死ぬ。それで満足だ。田畑を耕し、朝に昼に晩に働き、春に働き、夏に働き、秋に働く。
まったく休む間とて無き、忙しき日々の連続。何のために働くというよりは、そのときのそなたにとって、ただただ、こうして元気に働けること自体が嬉しかった。そして、夕べのひととき、妻や子どもと語らうことが本当に心の底から楽しかった。
田畑で取れた収穫物を、街に売りに出かけては毎日の生活を支える。人は何のために生きるのかと考える暇はなかったが、明るく元気よく働けるだけで、満ち足りていたのだ。
しかし、そんな毎日の生活にも変化が訪れた。もともと体が弱かった妻が、ある激しい日照りの年に死んでしまった。そなたは、妻の亡骸を抱きかかえ、天に向かって嘆き、地に向かって涙した。
おまえはどうして先に死んでしまった。やがて大地に還るのが人の定めとはいえ、いま現実にこうして死なれてしまうと、俺の生きがいのすべてが無くなった。俺は明日からどうやって生きていけばいいんだ。もう夕方になって帰っても、俺を温かく迎えてくれる安らぎがない。朝になって、おはようと言ってくれるものもいない。収穫物がたくさん取れたときに、あなた、たくさん取れたわねと、一緒に喜んでくれる安らぎがない。俺は今からどうやって働けばいいんだ。どうやって生きていけばいいんだ。子どもを抱えたまま途方に暮れた。本当にどうやって生きていけばいいんだ。
おまけに日照りが続く毎日。収穫物がほとんど取れない日が続く。当然生活の収入というものはさっぱり上がらない。しかし、税金だけはきちんと払わなければならぬ。生活の苦しみと妻を失った嘆きの二倍、三倍の苦しみが襲った。何も考えずに生きてきたから罰が当たったのか、それとも、元々そうなるようにできていたのか。いずれにしても、生きる目的を失ってしまったという点では同じだ。そして、続く日照りのために、とうとう重い税金が払えない。田畑まで手放さねばならなくなった。俺は妻を失ったばかりではなく、俺の自慢の田畑まで手放さなければならないのか。
そして、手放すのは良いとしても、明日からどうやって生活していけばいいのか。まだまだ、子どもは小さい。都に物を習わせに行くだけでお金がかかる。苦しい農民はいやだと、商売の勉強をしようと言っていたが、勉強にやるお金すらない。考えてみれば、苦しさに耐えるだけが取り柄だった。しまった、もう少し考えて生活すれば良かった、こんなことになるなんて。しばらくは、違う村の畑を手伝って副収入を得た。借りの住まいも与えてもらって、農家の手伝いのようなことをしなければならない。今までは自分の土地だと思って胸を張っていたが、今日からは違うんだと思うと、なおさらやる気を失くしてしまう。ああ、人間というものは、自分の土地だと思えばやる気が出るが、他人から借り受けた物だと思うと、とたんにやる気が出ないんだなあ。人間の心は正直だ。
自分の土地だと思っている間は、何かこう、天地と一つになったような気がして、雨も嵐もドンと来い。と思っていた。いざ、その土地を全部失ってしまうと、人のために働くことの空しさが、どんどん襲って来る。かといって、小さな子どもを抱えた今となっては、職業に貴賤を問うことなど許されない。とりあえずは、今日明日の生活費を稼ぐために、どんなに辛い目にあったとしても辛抱しなければならない。子どものためにという言葉が、このときほど重くのしかかったことはなかった。
我慢だ、我慢だと言って聞かせて、自分にムチ打つように、それまで以上に働いた。逃げ出そうと思ったこともある。職業を変えようと思ったこともある。しかし、他に取り立てて取り柄もなく、また、腕に職も技術もない。いまさら、俺に他の仕事なんてできねえ。俺には畑のことしかわからない。都に出て商いの真似事もできない。何もできない。しかし、子どもは養わなければならん。俺は意気地なしなのか。いつから気が弱くなった。気がつくと、あるお寺の境内の木に自分の頭をガンガン打ち付けていたのだ。それこそ、駄目だ駄目だと言いながら、頭を打ち付けていたんだ。
そのお寺の庭は、実に良くできていた。このまま頭を打ち付けていたら、死ぬだろう、そう思っているときに気を失ってしまった。実はこのときの寺の庭との出会いが縁で、今生で作庭師のような仕事に就いたんだ。
ふと気が付くと、畳の上に寝かされていた。頭もとで、お師匠さんがニコニコ笑いながら、頭を冷やしてくれていたんだ。
「おお、気が付いたかな」
「ここはどこですか?」
「ああ、ここか。ここはなあ、そなたが最後の死に場所と決めたに違いない寺じゃよ。わしが最後の勤行(ごんぎょう)をしに、堂内に上がろうとしたところ、庭の方でドスドスと音がする。気が付くとなあ、そなたが頭を真っ赤にして、木に自分の頭を打ち付けておられたんだ。わしは、これは大変なことになったと思ってな、放っておくと、そなたは死んでしまうだろうと思った。わしは、慌てて裏庭に回り、そなたを抱え起こしたんだ。そのときすでにそなたに意識はなかった」
「そういう次第でしたか。失礼いたしました」
「いやいや、人を助けるのが坊主の仕事じゃ。わしは一つも苦に思っておらん。ところでどうだ?傷の具合はどうだ?」
「はあ、何だかまだ、頭がフラフラいたします。生きているのが不思議な様です」
「わしも同感じゃ。あの出血の具合によれば、到底助かるまいと思っていたが、どうやら、そなたには、まだ運が付いているようだのう」
「この私にですか?」
「そうじゃ。お前はまだ、運があるからこうして生きておいででないのか?」
「あなた、私のように運のない人間に何を申しますか」
それから、根掘り葉掘りと身の上話しをした。若くして死んだ自分の妻のこと。そして日照りにあって、とうとう自分の田畑を手放さなければならなくなった次第について。そして今は、自分の住む場所とてない仮宿しか与えられていない、農民の又買いのようなことをやっているということを話した。
「どうでしょう、お師匠様。世の中にこれほど不運な男が他におりましょうか。庭のモグラですら自分の住む場所はございますが、この私には天地広しと言えども、住む場所すらございません。おまけに、小さな子さえ育てねばならぬ有り様」
「しかし、子は財産と言うではないか」
「確かに、自分が意気揚々と働けるうちは財産と思うておりましたが、今は荷物かもしれない」
「罰当たりなことを申すでない。子どもは授かりものだからな」
「そう思いたいのですが、残念ながら...」
「残念ながらか。しかし、その、残念ながらと申すそなた、いま生きておる。生きておるということは、運があるし、生かされているとは思えぬか」
「そうは言われたところで、自分に運があると言われても、そうは思えないんだ。お師匠さんのように、悟りが進めば、自分の運の一つや二つ数えることができましょうが、今の私にはそのようなゆとりはございません」
「そうか、それなら自分を憐れとおもうか」
「はい、最初に申し上げましたように、私ほど不幸な人間はございません」
「そうか」
「どうしたら幸せがつかめますか? どこかお経の中に、そのような言葉は書いてないでございましょうか、お師匠様」
「なるほどなあ。残念ながらなあ、お経の中には開運の方法のようなものは書いていない」
「そうですか。では、やっぱりお経は死者にあげるもので、生きてる人間が読んでも役に立たないものなんですね」
「そうだなあ。お経そのものが死者にあげるもの」
「ではなぜ、お師匠様はそのような職業を選ばれたのですか?」
「いいことを聞いたなあ。わしはお経をあげるたびに、その内容は死者を弔うものだと自覚しておる。しかし、あるとき気が付いたんだ。この手の住職はなあ、代々受け継いだもので、わしが好き好んで受け継いだものではない。最初はいやいやながら坊主をやっておった。何でこんな役に立たない死者にあげるようなお経を毎日毎日あげねばならぬのか。そればかりが不平不満の種であったぞ。ところがなあ、ある日はたと気がついた」
「どのようなことでございますか?」
「それよ。わしの唱えているこのお経が死者を弔うものなら、この生きているわしは、一体何をしなければならぬか。そういうことに気がついたんじゃ」
「しかしそれは、お経には書いてないのでございましょう」
「それよ。最初はなあ、お釈迦様という方は、何と不親切な方と思うたぞ。死者を導くだけで、なぜ生者を導かぬかとな」
「で、どのように考えられたのですか」
「お釈迦様は、生きている人間はどうあるべきかを教えられなかった代わりに、自分で考えろと言われたんだと気がついた。」
「自分で考えるのですか?」
「生きてるわしが何をするかは、結局、自分で考えなければならぬのだ」
「そして、どのように考えられたのでしょうか?」
「それよ。結局な、人間は生きている間は自分が本当にやりたいことをやるしかない。死んでも悔いがないように、本当にやりたいことをやることが、生きている人間の勤めかなと。それでな、わしは無料で寺子屋のようなことをやっておるのじゃ」
「なるほど、それが本当になさりたいことで」
「わしが本当にやりたいことはそれじゃ。死者の供養はまあ、付録のようなものじゃて! ハッハッハッハッア!」
声高らかに笑ったときの住職がうらやましかった。自分もこんなに高らかに自分の人生のことを言えたら、どんなに素晴らしい人生だろうか。しかし、自分は食うにも困るような百姓の又借りである。言わば百姓以下であると思うと、住職の手前、尚一層恥ずかしくなるのだ。
「どうじゃな。そなたももう一度生きなおしてみられたらどうじゃ。先ほどまでのそなたは、わしの寺の庭の木に頭をしこたま打ち付けられて、いったんは死んだものと思ってみなされ。そして、今そこにおられるそなたは、まったく新しい生命であると思い、もう一度生きてみなされ」
「もう一度ですか、と言うと?」
「それよ。死んだ気になって本当になさりたいことをされたらどうじゃな」
「本当にしたいこと...」
「そうじゃ。そなたの顔にはなあ、本当は百姓などしたくないと、そのように顔に書いてあるぞ。ただ先々のことを心配するがあまり、今一歩が踏み出せずに、今日か明日かと思ううちに、ずるずると月日が過ぎてきたのではないかな。恐ろしいものだ。人間には顔相というものがあって、どうやらこの顔相は、嘘がつくことができないようだ」
確かに図星であった。百姓というのもまた、この寺の住職と同じ、自分が本当にしたくて就いた職業ではなかった。ただ生きるために必要だと思って、自分をだましだまし働いてきたことは事実であった。
「そこまでわかりますか?」
「仏道を極めればな、一目瞭然にわかるのだ。そなたの本当にしたいことは、違うところにあるのではないか。それをだましだましして、働いてきた。そして、遂に行き詰まることが起きた。そうであろう」
「確かに日照りによって、すべてを失いました」
「なぜだかわかるかな?」
「わかりません」
「天地の理(ことわり)じゃよ。自分が本当にやりたくないことは、消えてしまえばよい、終わってしまえばよいと、無意識に念ずるがゆえに、いつかは終わりが来るものなんだ。それが人との別れであったり、仕事の行き詰まりであったりする。にっちもさっちも行かなくなったり、空中分解したり、一歩も進めないような状況が来るのは、心の底では本当はその成就を願ってないからじゃ」
「そういうものですか」
「わしはそういうものだと思う。例えばなあ、春になると一斉に芽が吹く。土の中も海の中も。それは天地が本気で生きよう生きようと思っているから、あらゆるものが生きるのであろう。天地が本気で生きると思っていなければ、桜の花が咲いて終わりよ。海もすべての生物が芽吹くということはなあ。よいか、そなたは今まで自分を偽って生きてこられた。いやだいやだと思って働いてこられたのではないか」
「しかし、生活のためです。止むを得ないでしょう」
「よく考えてみよ。いやだいやだと思って働けばなあ、生活すら支えることができなかったろう。違うか」
図星であった。生活のために働いてきた仕事であったが、かえって心の底でいやだいやだと思うばかりに、行き詰まりが生じてしまった。この寺の住職の考えには、どこか耳を傾けなければならない点があった。
「伸び伸びと広やかに生きれば、自分が本当にやりたいことをやりながら、かつ、生活の収入を上げる道があるのでしょうか。お師匠様わかりますか。私が本当にやりたいことが」
「そうやなあ。そなたの目はなあ、秋の眼差しをしておられる」
「秋の眼差し......」
「そうだ。春の眼差し。これはなあ、何かを創る役割をしている人の魂だ。夏の眼差しはなあ、キラキラと輝く、人に目立つようなことをする人の生き様だ。秋の眼差しはなあ、人に対する優しさをたたえておる。したがって、そなたは何か人を助けたり、苦しみを取り除く仕事をしたいのではないかな」
「その通りでございます」
「もうこの辺で本音を打ち明けられたらどうだ。本当はそなたは百姓よりも人助けがしたいのであろう」
「しかし収入がついてくるかどうか」
「言ってみられよ。何をされたいのじゃ。損はせぬ」
「はい、私もまた、実の母と父を知りません」
「なるほど、それで秋の眼差しをしておられるのか」
「はい、言わば孤児でございます。捨てられた身でございます。それゆえ小さい頃から心の中にぽっかりと空洞が空いて、誰も本当の心の苦しみ悲しみ寂しさを埋めてくれる人に出会えませんでした。ですから、私が本当にしたいことは、孤児院のようなものを作ることなのです」
「では、やりなされ」
「どうやって、できますか。よろしいですか。今日明日の飯にも困るこの身の上ですぞ」
ふと気がつくと、寺の住職に向かって説法している自分がおかしかった。
「あっ、これは失礼しました。というような次第で、私には孤児院を作るような資格はございません」
「誰が決めた?」
ビクリとした。確かに誰が決めたわけでもない。
「しかし、常識で考えれば...」
「馬鹿者! 常識で考えれば、人間というものがこの天地に産まれるわけがない。常識で考えればそなたはとうの昔に木に頭を打ち付けて死んでしまっていた」
「なるほど、仏道を極めるとはここまで来ることか」
「今はなあ、ただただそなたの願いだけをおっしゃれば良い」
「それならはっきりしております。孤児院をやりたいのです。しかし、乳飲み子を抱え、今日明日の生活にも困るような私が、何を血迷いごとをと、住職様お笑いでしょう」
「誰が笑うか。そなたの心にそのような願いが宿ったということは、いつか必ず叶うから宿ったのではないのか。叶わないような願いを、もし神が、仏が、人間に授けたとすれば、こんなにむごいことはあるまい。慈悲深き天地の創り主が、そのようなむごいことをなさると思うか」
さて、この言葉を聞いたあと百姓はもとの生活に戻った。初めは言葉を聞いたところで、何の変化も訪れはしなかった。しかし、百姓の又借りのような生活をして、さらに一年が経過したとき、大きな大きな台風が来て、畑ごとすべてを失ってしまった。
そのとき心がカラリと晴れたんだ。そして、一年前のお師匠様の声を思い出した。
「そなたが、本当にしたいと言うことを素直になさったらどうじゃ」
今こそ、そのときが来たと思った。
そして、カラリと晴れた心境のまま、孤児院を作ろうと決心した。孤児の面倒は誰が見るという問題がある。それは自分は日中は働き、夜は空いた体で孤児の世話をし、朝は人一倍早く起きて、ほんのつかの間だけ孤児の世話をすればいい。
寝る間も惜しんで働けばよいということに気がついた。こうして、百姓の仕事を手伝いながら孤児院をやろうと腹を決めた。そして、村から孤児を呼び寄せ、ほとんどムシロ同様の場所に孤児を預かり、そのとき何が起きたと思うかな。
よろしいか、よくお聞きなさい。自分が夜も寝ずに孤児の面倒を見ようとして、乳飲み子を抱えて一体何が出来るのかと、自嘲気味に始めた仕事であったが、一旦始めたときに何が起きたか。
最初はな、見よう見まね、不平不満の心をこぼしながら、そなたの子どもたちが目覚めたんだ。
「お父さん、今までお世話になりっぱなしで、何一つお父さんのお手伝いができませんでした。今日こうして見ますと、お父さんの心はカラリと晴れておいでです。何卒孤児たちの世話を私たちにさせてください」
こうしてなあ、そなたが孤児たちの世話をせずとも、子どもたちの心に火が付いたのだ。こうして一年二年経つうちに、孤児院の仕事の方が忙しくなったため、都から幾ばくかの寄付金をもらい、商人たちからも幾ばくかの寄付金をもらって、二年経ち三年経つうちになあ、大きな立派な孤児院ができたんだ。そして、最終的にはなあ、そなたは孤児院の仕事に専念することになった。
一番大きな奇跡は何だと思う? 一番大きな奇跡は、自分が自分の心に惚れたときに、自分の一番身近な人の心に火をつけてしまったということだ。
五年経って、寺の住職を思い出して訪ねてみた。
「そうか、やっと飲み込みなさったな」
「ありがとうございます。あのときの一言がなければまったく違う人生を歩み、不平不満たらたらで私は人生を送っておったと思います」
「そうかあ。大きく動けばなあ、自分じゃない自分が動き出すってことさ。今じゃ想像すら出来ない自分が、今よりももっとスケールの大きい自分がふっと現れてくる瞬間がある。わしは寺の修行の最中にそれを発見した。それをお前様に語らせてもらっただけよ」
「いやあ、あのときの一声が私の心の中に種となって植え付けられ、今はこのように、大木のようにスクスクと成長しております」
「どうか、これからも自分ではない自分がどのように自分に働きかけるか、互いに楽しみあって余生を送りたいものよ」
「ありがたきお言葉」
「ささあ、今夜は互いに般若湯(はんにゃとう)といくか」
「よいのでございますか」
「よいよい。たまにはな。破壊坊主となって浮世を楽しむのも一法じゃけん。ハッハッハッ!」
これが平安時代の、そなたの魂の一絵巻である。
その時には想像すらできない、自分でない自分が出てくる瞬間があるぞ。
その瞬間を、信じることです。
END
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