人生を紐解く “目覚め” への大きな鍵
今ここに横たわっているあなたは、親や先祖から与えられた肉体に、仮の姿として宿っておるだけで、それはあなたという魂を入れる器に過ぎないということを自覚することです。
いかに今ある生活が不自由に見えても、それはつかの間の不自由。魂は鳥のように大空を羽ばたく。
そなたは、霊界にあっては鳥のように羽が生えて、自由に空を飛んでおった。その自由な束縛の無い心を、不自由な環境に生まれたとしても失うことなかれ。
たとえ親やパートナーが、どうしようもない生活上の癖を持ち、それによって悩み苦しんだとしても、自分まで心を苦しめてはならない。
人の姿をみて、一喜一憂すること無かれ。
霊界にいる時の、自由な鳥のような気持ちを失うなかれと教えられて、今生もまた、生まれてまいりました。
なぜ霊界でこのような鳥の姿になって、大空を舞っておったか?
それは前世に秘密があるのであり、飛鳥の都において、大空を飛ぶ鳥に身も心も焦がし、大空を自由に飛び回るその鳥となりたい。そう憧れたからであります。
広々とした心で、茜色に染まりゆく奈良の都を見て、功成り名遂げて、一代を終わらんとするときに、いつまでも、この茜色を心に留めおきたいと願ったがゆえに、霊界において鳳凰のような姿となり、大空を舞ったのであります。
こうして奈良の時代において、自由の境地に至った。その喜びの境地に浸ったが、実はそこまで至るまでにも、いくたびかの紆余曲折があった。
今日は、魂を磨き向上させていった、一職人の話を致しましょう。
さて、奈良に都が構えられておったのは、ほんのつかの間でありますが、そうした俗世の権力組織の有様とはまた別に、いつの世もコツコツと、己の技を磨き、己の御霊を向上させんとする、職人たちの姿がありました。
山科の里において、草木染という技を一途に究めんとして、誠心誠意、己の技に打ち込んでおった時代があったのです。しかし、なかなか思うように己の技が究まらない。
大勢の弟子を抱えた先生の下で、修行をしておりますが、思うように草木染が描けないのであります。
それは、自分の常識観念というものが邪魔を致します。あまりにも模様を描き過ぎると、地味な印象を与えてしまう。かといって、一点だけを描いたのではこれは単調すぎるし、その中間を描きたいのだけれども、今度は肝心の色が出ません。
渋柿色の、ちょっと黄ばんだオレンジ色が好きなんですが、その色をなかなか形に表わすことができません。草木の種類を増やしましたが、一緒であります。
こうして百人近くおった門弟の間で、自らも技の向上を競いますが、なかなか芽が出ないのであります。
そうしている間に、明らかに自分よりは、腕が劣っているとみられる人たちが、どんどんと師匠に認められて、そして自分の村に帰って、草木染の職人として生きることを許されます。
しかし、長い間修行を重ねておった自分のほうが、明らかに腕が上なのに、なかなか師匠から認可状をいただけません。次第に心に焦りと不平不満がくすぶってまいります。
おかしい、明らかに自分のほうが腕前が上なのに、なぜ自分はお師匠様に認可していただけないのだろう。私はお師匠さんに嫌われているのだろうか?
いつになったら私は独立できるのだ。また一人前の職人として、いつになったら自分を認めて下さるのかと、疑心暗鬼が持ち上がってまいります。
これではいけないと思って、誠心誠意、芸の道に打ち込めば打ち込むほど、己が尽くした苦労が報われない。
自分の運命を呪ってみたくもなるのです。これほどまでに、誠心誠意打ち込んでも、なおも花が開かぬ。
己はよほど業の深き星のもとに生まれてきたのだろうか?
それとも、口下手であるがゆえに、なかなか認めてもらえないのだろうか?
あるいは、自分のアピールする力が弱すぎるのだろうか?
自分の意思が弱いのだろうか?
どのようにしたら、人々の気を引くことができるのか?
気の強い人がどんどんと認可されるのだろうか?
どうなのだろうか?
自分の腕前が、社会的に評価されませんと、自分というものと社会の間に、大きな黒い溝ができたように感じられて、何をするにつけても、歯車の合わない、なにかこう、切り離された孤独な気持ちが、ずしりと己が心の中にのしかかってくるのであります。
社会というものは、えこひいきするものなのか?
あるいは自分の悪口を誰かが言いふらした結果、どんなに自分に才能があっても、自分が取り立てられないのだろうか?
何かが狂っているのだろうか?
自分の努力が足りないのであろうか?
何か、才能だけではだめな、別の要素が必要なのかと思って、神頼みもしてまいりますが、なかなかうだつがあがりません。
このようにして、苦しみの日々が続きますと、しだいにまじめに芸に打ち込むのも、ばかばかしくなります。自分より遅く入ったものが、先に認可されて独立していく日に、
「私を祝福して欲しい」とその人に言われたが、出てくるものは、恨めしそうな表情ばかりでありました。
「あなたは私より修行の年月が短いのに、もう独立なさる。あなたには、際立った才能がおありなの」
ほめ言葉とも嫉妬ともつかぬ言葉が、口をついて出る有様。こんなことではいけないと思いながらも、しかも、どうすることもできない、己の葛藤と矛盾に悩み苦しみます。
自分はそれほどまでに、業が深いのだろうか? 仏教の道ではどうなのかと思って、仏教のその道の先達を訪ね歩いても、
「いえいえ、仏教には、出世ということについては説かれておりません。死後の魂の安楽のみが書いてあります。」
という、むなしい答えがかえってくるばかり。
これでは仏教の道にも救いの道はない。神社に行ったけれども無駄であった。
そうしてみると、思い出されてくるのは、幼少期から自分を励ましてくださった、お父さんやお母さんのことだ。
「いいかい、たえよ。この世にはどうにもならぬものがある。それに反発してはならぬ。じいっとじいっと耐えていくのだ。名前のようにね」
そう言われた言葉が思い出されます。
してみると、今の自分の境遇は、どうしようもない境遇であって、じたばたしたところでこの重石を取ることはできない。ただただ名前のごとく、ひたすら耐えていかねばならぬのか?
まわりが、相手が変わるまで、待ち続けるしかないのか? 大きなチャンスがめぐって来るまで、待つしかないのだろうか?
仏教にも答えがなく、神社にも答えがない。また道の先達に聞いても答えは返ってきません。
また、自分よりも早く独立していった人間を、心の中であれこれと思い浮かべても、とりたてて才能の煌めきというものもなければ、自分が学ぶべき点もないように感じられます。
そうしますと、この場所で草木染を勉強すること自体に目的と意義を失い、心の中には虚しさが募ってくる。ただただ虚しい日々が続くならば、いっそ草木染の仕事は辞めて農民にでもなろう。
そうやってぼんやりと川岸に腰をかけて、石ころをポンと川に投げますと、パシャンと波紋が広がってまいります。ある夏の日の昼下がりでありました。
いつもと同じように、草木染の修行を終えますと、川原に腰をかけまして、ぼぉーっと川面を見ておりました。
水が流れております。あの川に逆流がないように、私の人生にも定めという、どうしようもない抵抗することのできない力があって、私を一定方向にしか流そうとしないようだ。
この流れに逆らっても無駄なのね。いつの日か、平凡な、その日暮らしのような心境となっておりました。
そうして川をじぃっと見ておりますと、村のわらべたちが水浴びをしております。夏とは申しましてもすでに盆を過ぎまして、水の温度も冷たくなっておりました。
わらべたちがはしゃいでおります。そして水から上がって、わらべたちがゆっくりとこちらに向かって歩いてまいりました。
あなたはいつになく、声をかけてみる気になったんであります。わらべのひとりに声をかけてみました。
そうなのか。川の水はまだあったかいんだわね。そうやってわらべたちが、あなたから別れていきました。
そこへまた、別の村のわらべたちが、わぁっと集まって水遊びをいたします。
不思議に思った。とうに盆を過ぎておったから、この川に来るまでに、しきりに、もう川の水もずいぶん冷たくなったろう、という話を聞いていたからだ。
ところが、このわらべたちは、口々にあたたかいというではないか。そういえば、さっき通り過ぎていったわらべもあたたかいと言った。
わらべにそう言われたんです。そうして、わらべたちに手を取られて、川岸に近づいてまいりました。
そのとき、電撃のように心に響くものを感じたんです。
そうやって、川面に向かってブツブツとつぶやいたんです。
なにかこう、電撃のようなものが、自分の心に響いたんであります。ところがその光景を、お師匠さんがじいっと見ておりました。
そしてゆっくりと近づいてまいりました。ふっと後ろを振り返りますと、草木染のお師匠さんが、足元を濡らしながら、自分のほうへ向かって近づいてまいりました。
初めて芸の道を通して、人間の生きる根本的な姿勢について悟ったのであります。
良いか悪いかは自分で決めよ。
草木染の達人がそなたに残した、教えの至上の一コマでありました。
もちろん最初は、基礎技術を身につけるまでは、いろいろと師匠から教わるだろう。
しかし、最後の最後にふんばりがきくかどうかは、自分がどう自分を評価するか。
自分が自分をみる眼差し。
この眼差しを鍛えるところに、芸の本当の修行の道がある。
人の目を気にしているうちは、道は開かれない。また、協力者も現れない。
天命の道もまた開かれない。
草木染の道一筋に究めた師匠の言葉は、さすがに人生の冥利妙諦をついておったのであります。
他人の姿に動揺する心。
いかに技が磨かれていても、心が磨かれていなければ、心技一体の名作をつくることはできない。
技が未熟であっても、自信がみなぎる者が先に独立していったのは、そのせいでありました。
心技一体といいながら、心をちょっと優先させて、技心一体でなく、何ゆえ心技一体と心を先にいうか。
まさしく、奈良の山科の里、草木染の達人が残した至上の言葉であります。
自分で自分の心に白黒をつける能力がある。
自分が正しいか正しくないかは、自分が決める。
こうして、自分が自分に自信を持ったとき、あなたのまわりの人々もまた、自分で自分に自信を持つ。あなたを中心にして、自信の輪が広がる。
ここに、今生の人生を紐解く、大きな鍵があるということに、目覚めていただきたい。
本日は、芸の道を通して淘汰した、冥利妙諦の一説、しかと心に留めおかれたい。
2007 END
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