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全ヨジャーナ “宇宙の大きな理りに目覚めたとき”

君はいま、静かな湖の水の面を眺めています。

普段はこの湖に浮かぶ、空の景色を眺めていましたが、
ふと、気になって、湖の水底まで君は目をこらして見ます。

そして、ふと思うのです。

自分が湖を見つめているのか?
あるいはまた、湖がこの私を見つめているのか?

そこへ、悟りを開かれたゴーダマブッダ釈迦牟尼仏が通りかかり、あなたに声をかけます。

どうだね。自分を見つめることができたかね?

はい。
普段は湖に浮かぶ、白い雲の流れ、青い空の模様などを眺めていましたが、ふと気になって、湖の底まで今日は見ることができます。

果たして湖に浮かぶ景色、あるいは、湖の水底の風景、どんな時に湖の底が気になるんでしょう?

いい質問だ。
この私も幼い頃に母親を失ってね。母親の温かさを知らなかったんだ。

そして、幼心に母親の面影を想像してみた。
しかし、覚えているのはニコニコ微笑んだ母親の顔だけで、なんとなく憂いを秘めた目で、私を見つめているように感じた。

それは実際の母親の姿の記憶なのか、それとも母親にこう言って欲しいという、自分の気持ちなのか、見分けがつかなかったんだよ。

ちょうどお前が、湖に浮かぶ空を眺めているように、外に映ったものを追いかけるのか、あるいは、湖の底にある景色、つまり自分自身を追いかけているのか。

人を見る時も同じかもしれないね。
ある人がお前にとても辛く当たったとすると、この人は多分、他にも意地の悪い面があるのではないかと探ったりもする。

それは自分の想像かもしれないし、実際にその人の姿かもしれない。
真実を知りたかったこの私はね、自分の妄想を断ち切ろう断ち切ろうと、最初の悟りを開いた頃は懸命だった。

目を瞑っているとね、全ヨジャーナ(Yojana)すなわち、宇宙の情景が見えてきたんだ。

創造神だろうか。ニコニコ微笑んで私を見つめている。

そして、『大きくなったね。立派になったね。』と言っているように聞こえたが、それは本当に創造神の声なのか、自分の願望にすぎないのか、見分けがつかなかったね。

最初の内は、自分で作った妄想など、取るに足りないと思っていたが、これがもし妄想であったら、全部消えて欲しいと思った。

この私は、すんなり悟りを開いたように多くの弟子から慕われているが、この私といえども生身の人間だよ。
そう簡単に悟れるわけではなかったんだ。

実の母を知らないということが、どれだけ人間形成に大きなマイナスの影響を与えるか、考えたことがあるかね。

一体に親というものはだ、無条件に信じることができる、特に母親はね。
もちろん父親も、温かい目を持ち合わせているが、社会に出て、どうやったら人にばかにされない、一人前の生活が出来るかという観点でしゃべるので、どうも私の心には、ちっとも響かなかった。

どっちにしても、妄想だったら、全部消えてなくなればいいと思ってたんだ。

そして、人生の始まりにおいて、無条件に信じられる人を失ったということはだ。誰も信用できないという、疑心暗鬼の心を生むということが、後にわかったね。

私も、城を飛び出して様々な修行者に仕えた。
だが、すぐに信用することはできなかったんだ。
もしかしてこの人も私を裏切るんではないか。
自分の利益のために嘘を教えるのではないか。
そう思うとね、真理を求めるどころではなかったんだ。

なぜこんな話をする分かるかい?
お前も、本当の親の愛情を知らずに育った。
育ての母親がでたが、この人も自分を裏切るんじゃないか、いつか実の母のように、捨てるんじゃないかと、幼心に疑ったりしたものだ。

その気持ちが、この私には手に取るようにわかる。

そして君は釈尊にこう答えました。

どうやって、その疑心暗鬼の心を、乗り越えられたんでしょう?

そうだね。
特にだ、女性にとっては、人を信用できないということほど辛いことはないんだ。

ひとつひとつ信じられるものが増えていけば、女性は幸せになれる。
男性とまた違うんだよ。

男性は自分を信じていく。
社会で通用するかどうかに、他人の顔色を見ながら、自分に対する自信を深めていく。


しかし女性の成り立ちは違う。
先ほどの質問だがね、私がどうやって疑心暗鬼を乗り越えたかだ。

私は実にこれに、たくさんの時間をかけたんだ。
信じられるものが何一つない世界に、私は生きていた。
暗黒の時代を生きたと言っていい。
何もかも信じられないのだから、当然神仏も信じられなかった。

私は、悟る資格などないのではないかと、何度も何度も自問自答したね。

それで、先程の質問ですけど、実はそのことで私も悶々と悩んでいるんです。

実の父親が死に、育ての母が死に、そして実の母が今生きているのか死んでいるのかすら、わかりません。

私の心の奥には、ぽっかりと、おそらく絶対に埋めることのできない穴があいているんです。

商いをしてそれなりの成功をおさめましたが、ちっとも幸せ感がないんです。物では心の隙間を埋めることはできませんでした。

私は幸福でしょうか?
不幸でしょうか?
心から喜べる日は来るんでしょうか?
悟りとはなんでしょう?

すると、釈尊は目の前にあった花を、少しつままれたんだ。
君は意味がわからなかった。
すると釈尊はこうおっしゃった。

いいかね。今私はこの花をつまんだね。
形が少しいびつになったのがわかるだろう。
するとだ、実に不思議なことが起きているんだ。

周囲に咲いている花が、皆一斉に仲間の花を心配するんだ。
大丈夫か、ケガしてないかってね。

人は遂に気が付くんだ。
完全な人間は一人もいないって。
お互い、不完全な者同士が、自分にできることで人のお役に立っていく。


いいかね。お前のポッカリ空いた心の穴を埋めるか、あるいは埋めることができないか、それが問題ではないんだ。
私は長い修行の果てにこのことに気が付いたのだ。

いいかね。実の母を知らないという、心にあいた大きな穴は、取り返しがつかないのだ。

どれだけその途中で愛する人ができても、絶対に埋めることができない。
埋めたつもりにはなってもだ。
これが真実ではなかろうか。

だがそのことだけを考えると、人生は悲惨に満ちている。
私の弟子の中には、生まれて間もなく両親が、敵に惨殺された弟子もいる。目の前で両親が殺されたのだ。
当然誰も信用することはできない。

いいかね。昔受けた心の傷を、埋めるなどということがどうしてできようか。

物の傷は修理すればなおるが、心の傷だけはそうはいかぬ。悲劇だろうか。

そこで考えてみなさい。
先ほどの花の話をね。

およそ完全なものは、全ヨージャナ(Yojana)、すなわち全宇宙の中の、どこにも、いやしないであろう。

自分が完全だと思い上がる方が、むしろ怖いと言っていい。
いいかね。大切なことはだ。

お前の心にあいたポッカリとあいたその穴を、これから先埋めることができるかどうかではないのだ。

お互いに穴があいたもの同士が、助け合っているのが、この宇宙だということだ。


自分にも落ち度があると思うから、人に優しくなれる。
自分も病気を抱えているからこそ、人を癒そうという気になる。


完全を求めるのではなく、全宇宙の全てが、傷をかかえ、不完全なままに、互いが互いを助け合っているという、この宇宙の大きな理りに目覚めたとき、私の心は初めて救われたんだ。

今年君は、人の心を満たす、心の喜びを増やす
そんな働きをするようになるでしょう。

その時に必要なのは
今日ただいま、たくさんのスピリチュアルが唱えているように
自分は幸せである完全であると、妄想で思いこむのではなく


いやそうではなく

この全宇宙の真実の姿というものは、互いに不完全な者同士が、助け合い、手をさしのべ合っているのだということに、本当の意味で気が付かなければならないということだ。

これが釈尊の悟りである。

小さな力は、か弱い力を持った者同士、互いに助け合っているであろう。
その幕開けが、今年という偉大な年なのである。

END

魂ヒーリング Dr.Shu 五島秀一


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