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岩田俊太朗の生い立ち

岩田俊太朗

今日は記念すべき100投稿目です。
もう100個目なんですね。
すごくあっという間です。
思えば最初の頃は集中応援に向けて10個くらい記事を書いていた気がします。懐かしい。
もう半年くらい前なんですね。


そういえばなのですが

僕はこのnoteの中で自己紹介をしていませんでした。今まで皆さんの中には、「こいつ誰だよ」と思いながら読んでいた人もいるかもしれませんね。100回という区切りもあり今回は岩田俊太朗とはどんな人間なのか、どのように生まれ育ったのか、について書きたいと思います。
生まれてから今までを書いているので相当長くなっています笑
では、始めます。

岩田俊太朗の生い立ち


産まれたとき

僕は、1998年に山形で産まれました、
生まれた時
身長51cm体重4160g

という超巨体児として産まれたそうです。


大きすぎて保育器に入れられて(普通は未熟児などが入るところ)

並べられている赤ちゃんの中で、ずば抜けて大きい赤ちゃんが僕だったので本当にすぐに見つかったそうです。

お母さん、よくもまああんな華奢な身体でこんなでかい子供を産んでくれました。ありがとう。

赤ん坊の頃のことなんてほとんど覚えてもいないので、幼稚園の頃まで飛ばしたいと思います。

幼稚園

僕は金井第二幼稚園というところに入りました。
それはまあ優等生ぶった幼稚園児だったと思います。
幼稚園の頃の思い出としては、幼稚園には土俵があり、相撲をして遊ぶのが常でした。
年一回相撲大会があり、僕はその横綱に選ばれました。土俵入りとかも園長先生からしっかり指導を受けて、割と本格的な事をやってんだんじゃないでしょうか。その頃は身長も一番大きく、ガタイも良かったので僕に相撲で勝てる人はいなかったですね。

また幼稚園にはサッカースクールがあり、男児の3分の1くらいが入るものでそこで僕はサッカーと出会いました。
たしか、1週間に一回くらいのやつで何を教えてもらったかなんて全く覚えていませんが楽しかった記憶だけはあります。杉山先生(当時のサッカースクールのコーチ)今は何してるのかなー。

小学校

まあ真面目ぶった幼稚園時代は元気に育ち、地元の山形市立金井小学校に入学しました。
小学生時代は、担任の先生に本当に恵まれたと感じています。
どの先生方も優しく、ときには厳しい指導をしてくれたため、人間としての基本的な礼儀だったりマナーは小学生のうちからある程度はわかっていたような気がします。まあ例えば、靴を脱ぐときは揃えて脱いだり、トイレのスリッパが乱れていたら整えたり、目に見える落ちているゴミは拾ってゴミ箱に捨てたりなど、大学生になってもこんなことも出来ないの?と思う事が多いのが現状ですが、こういう事をしっかり教えてくれたのが小学校の先生方だった気がします。運動会では組頭を務め、委員会では体育委員長を務め、その頃から人前に立つのが好きで、目立ちたがり屋でした。今と全く変わりません。
また、サッカースポ少(ほなみFC)にも2年生の時に親に無理を言って入れてもらい、そこでもサッカーを楽しみました。本格的にGKになったのは4年生くらいからで、3年生の夏頃に、当時低学年チームにいた僕にいきなり監督から電話が来て「高学年チームのキーパーがいないから今日来れるか?」と言われ急いで親に送ってもらい、GKとして試合に出たのは今でも覚えています。僕のGK人生の始まりでしたね。たしか、幼稚園の同窓会に行こうとしていた時だったような気がします。
6年生の頃には、13年ぶりとなる県大会出場を決め、秋にはモンテディオ山形のjrユースのセレクションに合格し、まあ割と良い時期を過ごしたのかなと今振り返れば思います。あの頃がサッカー人生のピークだったって何度も思います笑。セレクションの時は何かが乗り移ったように調子が良かったな笑

中学校

なかなかの優等生だった小学生時代も無事に終了し、中学校に進学です。僕の地域の金井地区という地区は、小学校と中学校が隣にあり、ほぼ中高一貫校のようなものでした。だからこそ、成人式では小学校の先生方も招待し、小学校からの思い出を語り尽くせました。またいつか開きたいですね。
中学校の大きな変化はやはりサッカーの環境。
モンテディオ山形の下部組織に入ることができ、毎日の練習が楽しみでした。
正直いうと中学校に行けば"モンテでサッカーやっている"という事実でちょっとマウント取ってましたね。情けない笑
モンテでのサッカーは、はじめの頃は順調でした。ポラリスリーグの開幕戦からある程度ずっとスタメンで出場することができ、県トレセンにも選ばれていました。まあ言ってしまえばその代の山形のGKで1.2を争う選手だったという訳です(所属していたチームが良かったというだけ)
しかし、そのまま順調にはいかないもんでした。

シーズン終了間際の試合の週でした。
その週の調子が悪く、スタメンで使ってもらえなかったモンテダービーのvsモンテ庄内
コーチの意向で、リーグ戦ではありましたが交代などで全員を使ってもらいました。
後半途中からGKながら出場し、CKから僕のミスで失点。それで同点に追いつかれ引き分けに終わってしまいました。なんか一気にみんなからの信頼がなくなった気がしました。いや、多分その頃は誰からも信頼されてなかった。
たまたまかもしれませんがその翌週の6年生対象のモンテディオ山形jrユースセレクションの手伝いの後に紅白戦をしている時にGKでの一対一?ルーズボール?に突っ込んで負傷。人生初の調整。
なんか歯車が狂い始めた頃でした。


その後オフに入り、オフ明けの遠征では確か参加チームの中で最下位。(高橋謙太郎率いるスクエア富山に唯一勝ちました。サッカーの繋がりって面白いですよね)この時は同期のGKが怪我をしていて、フェスティバル中すべての試合に僕が出ていたので、毎試合大量失点で正直途中で本当に帰りたかったです。


新シーズン(中2 )コーチが代わり、アピールのチャンスだ。最初の頃はシーズン終了の流れのままずっと控えGKだったのですが、たまたま調子が良く、3年生との練習試合でやっと来た先発起用。確か夏休みくらいでした。部内試合でただの練習の一メニューに過ぎないくらいだったのにめっちゃ気合入ってたのは今でも覚えています。その試合は確か1点はやられたものの、まずまずのプレーでコーチにも褒めてもらいました。その直後にシュート練習があり、そこでも自分の体が動く。その頃からブレイクアウェイがちょっとだけ得意だったので果敢にチャレンジすると、思い切りシューターが振り抜いた足が僕の右手を捉えました。
ただの突き指だろうと信じ込んで次の日もテーピングでガチガチにして練習しましたが、我慢ができませんでした。
指は真っ青で腫れていてその日のうちに診察をするとやはり骨折。

せっかく先発で使ってもらった試合でまた怪我。


まじでついてないなぁと思いながらも、

指が使えないなら走るしか無い

となぜかGKながら思うようになり、めちゃくちゃ走り込みました。


多分その頃のチームの中で1番か2番くらいに走れるようになっていたと思います。


今でも少しだけ中距離には自信があるのはその頃のおかげかもしれません。


指も順調に治り、また頑張ろうと思っていた矢先


左膝に違和感が。

医者からは関節に負担がかかり過ぎていると。

きっと走り込んだせいだ、ちょっと疲労が溜まったのかな

と思っていましたが、いつしかその違和感はボールを蹴るときにまともに踏み込めないくらいの痛みに。

プレーが思うようにできなくなり再び離脱。

医者の診察は

滑膜ヒダ障害

生まれ持って関節付近の膜が厚く、それが関節に入り込んでいて痛みが出ているという事でした。

痛みを引くのを待って2ヶ月

何も進歩ない。


医者に手術の相談

中学生での膝の手術はあんまりないけど、やることはできるよ。でも関節には大きな負担はかかる。


と言われ、とにかく早く思い切りサッカーがしたかった僕は手術をする事に。

今思えば中2からほとんど背が伸びなくなったのは手術が関係しているのかもしれないですね。親は180もあるのに僕は171ですからね。まあ本当にもしかしたらですけど。

手術も成功し、新3年生に、


開幕戦のちょっと後くらいから復帰しましたが、中学生の5ヶ月間って本当にライバルたちと差がつきます。もう取り返せない差になっていました。
まあ手術をした理由に関しても、中学でサッカーが終わるわけではないし、高校大学とサッカー人生が続いていく訳だから。という判断でした。だからこそ、ちょっと諦めているような自分もいました。あんなに良い環境でサッカーをしていたのにもったいない。できる事は山ほどあった。

結局最後まで試合に絡む事はできず、最後の大会である高円宮杯の前日調整では、人数合わせでやったCBで、シュートブロックでスライディングをするとそのまま足首が持っていかれました。
最後の最後まで怪我としか闘っていないような中学サッカーはここで終了になります。

中学校生活に関しては、周囲からの一定の信頼を得ていた為、生徒会長も務め、体育祭では組頭を務めました。それはそれは忙しかったし充実していましたね。生徒会活動が終わる頃には校長先生から「金井中を変えてくれた」と評価していただきました。そういえば激励会などがあればその度につけていた「闘魂」と書かれたハチマキ。次の代には受け継ぎましたが今でも受け継がれていたらめちゃ面白いです。今でもあんな事やっている生徒会長っているんですかね。時代の変化で禁止されているかもしれませんね。


また、受験の時は毎日両親と言い合いでした。
最初はサッカーが強い公立高校に行きたくて、懇願していましたが、それでは将来が心配だという両親の意見。サッカーで進学することを諦め勉強で高校に入りました。(結果として結果オーライにも程がある状況になる事はこの続きに書いていく)
無事に高校も合格し、充実した中学生活もここで終わりになりました。卒業式の僕が読み上げた答辞では、半分以上の卒業生が泣いていたのが記憶に新しいです。(異論があれば受け付けます笑)


高校

晴れて翌年の入学に山形南高校に入学することになりました。希望と高校サッカーへの憧れを胸に入学しましたが、待っていたのは理想とはかけ離れた現実でした。サッカー部に入学したものの、正直何を言っているかわからないコーチ。それに同意だったのが一つ上の代の先輩方。どうしたら良いかともに考えてくれて、そのコーチは解任することになりました。


その後はサッカー部での活動は本当にキツかった。指導者がいない中、自分たちで練習メニューを考え、試合の人選も自分たち。交代はマネージャーが管理し、とても大変そうでした。


リーグ戦でもなかなか勝てず、昇格争いではなく最終節なんとか引き分けての残留。まあなんとか守りました。あの試合は本当に緊張したのを覚えています。

その年の新人戦は、直前に選手権の県決勝まで進んだ新庄東に勝ったりと、まずまずな成績は残せましたが、正直不安でした。


すると、僕にとって運命的ともいえる出会いが。


某Sコーチが南高にきました。
この経緯は簡単に言えば、保護者会で探してくれたのです。

やっと指導をしてくれる人がいました。しかもかなりの実績を持っている人。


まあ、練習は毎日が本当に辛かったです。
あんなにきつい練習した事、今までありません。
こんなこと言ったら一個下の代に怒られそうですね。一個下の代はもっとやばかったもんな笑


東北大会の途中に砂浜で走るとか考えられないでしょ笑

でも、本当に素晴らしい指導者でした。
どんなことを言われてもついていこうと思えたし、本当は自分たちのことをすごく考えてくれている人でした。


今でもなぜ契約を切ったのかわかりません。
母校のサッカー部への唯一の疑問です。


いつか認められるようにまだまだサッカーがんばりたいです。


サッカーも僕らの代になり、絶対にキャプテンになると思っていたら、コーチから指名されませんでした。正直キャプテンやりたかったです。


僕らの代は良い成績は残せませんでした。

サッカーは選手権こそだ

という気持ちが捨てられず、選手権まで僕らの学年では唯一残りました。

話を聞くとここ20年くらいはそんな人はいなかったそうですね。

なんで珍しいのかは本当にわかりません。


東京にくれば選手権までやるのは普通です。


山形の高校生は本当に考え方を見直した方が良いです。選手権までやっても勉強できますよ。

まあ選手権も王者山形中央に負けて僕の高校サッカーは終了となりました。


人生で1番泣きましたね。
本当に悔しかったし無力感でした、

同時に、これから受験に向かう恐ろしさもかなりありました。

サッカーの話はこの辺にして、


山形南の人間教育は本当に凄いと思います。
必ずと言って良いほど強い人間が育つと思います。中にはそうでない人もいますがそれは個性です。うちに秘めた熱い気持ちは絶対持ってるはずです。南高魂。


一年生はあの有名な地獄の応援練習が南高生になるための関門です。


あれは正直ビビります。詳細を書くと南高に入る人が少なくなりそうだしあまり公にしないものだと思うので。

でも間違いなくあれで強くなります。怖いものがなくなるような感覚です。


男だけの環境で育てられ、授業は眠ければ立って寝ないようにして受ける。ビンタして目を覚ます人もいる。

質実剛健 師弟同業 文武両道

のマインドの元

"文質彬彬たる社会のリーダーになること"

というビジョンのもと、先生方に鍛えられます。

毎日本当に充実していました。
三年生になると、今や有名な岡田大毅生徒会長から生徒会に入れてもらい、学校の中心となって様々なことをやりました。


時には、でかいことをやりた過ぎて、でも提案したら反対されそうでコソコソやっていたら怒られたなんてこともありました。

とりあえず何でもやってみるかと言ってやってみた1年間だった。
出来ないっしょなんて思わなかった。

岡田はじめ、周りの奴らがそんな感じに全くならなかったからね。


やはり俺らの代の山形南生徒会は異常だし偉大だ


この代で俺は本当によかった。

南高祭期間は本当に頑張った。

実行委員の他の人はみんな部活を引退しているか、その期間は少し猶予を与えられている人ばかり。

サッカー部はそもそもそこまで続けている人なんて今までいなかったから普通に練習をしてから、南高祭準備。23時くらいまで作業して帰宅。そこから受験勉強。
日を跨ぐ前に寝た記憶がありません。その3ヶ月間くらいは。

とにかく多忙な毎日でしたが、なんか乗り切れました。若さなのか、熱量なのかわからないが。


まあそんなことで、南高祭も当時の過去最高の動員数を記録し、

選手権も終わったあとは受験勉強に専念し

周りの予想を大きく上回る点数をセンター試験で叩き出し(文字の点数が酷かっただけではある)
受験も失敗なく、(一つの大学はセンター利用で落ちたが、一般試験で合格)乗り越える事ができた。

卒業式の時は感謝の気持ちと本当に良い仲間に恵まれたなと思い涙が溢れた。

まさか男子校の卒業式で泣くなんて思ってもいなかった笑

翌春からは、仲間たちからの見送りもあり、東京での一人暮らしが始まりこの東京学芸大学に入学した。

大学での生活はおそらく蹴球部を卒業する時に書くであろう卒業Diaryで書きたいと思います。

三年生の夏からの生活についてはわりと毎日更新していた(中断やサボっていた時期はあったが)ので、もし宜しければそれを見て欲しいです。

今日は100投稿目という事で色々、本当に長々と書かせてもらいました。

ブログを書いてきて何か変化があったかと言えば、

仕事が本当に早くなった。
そして文章を書くのがとても早くなりました。
文章が次々に頭に思い浮かぶようになりました。


ブログを書いてきて本当によかったと思います。
間違いなく自分の力になっているのではないかと思っています。
陸也くんになんでブログを辞めたのか聞きました。すると、100%自己満だったからと言われました。僕は100%の自己満で続けていきます。その中で誰かのためになってくれたらこれ以上嬉しいことはありません。

そして、ブログに書いてあったことについて日常で話されると少し恥ずかしいですがとても嬉しいです。

昨日の良かったよ!

とか言ってくれる人もいます。いつもご愛読ありがとうございます笑

これからも岩田俊太朗の日常を投稿していきたいと思っているので、是非これからもご愛読のほどよろしくお願いします!

#自己紹介 #note


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