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母想い。

これは、4年前の2019年4月27日
母の告別式前に書いた文章です。
自分の初心とミッションを確認できるので
敢えて一部編集し母を想いアップします。

私は17歳で縁あり山名義範より850年続く山名高井家に養子に入った

高井の家に入った時、母は43歳で既に心を患ってた。
70歳で帰幽したが元気だった憶えがあまりない。 いや1度しかない。

山名八幡宮を嗣ぐため國學院大学で資格を取り修行を経て25歳で帰郷すると
担い手がおらず7年の間閉めきっていた神社は荒れていた。
厳しかった祖父は脳梗塞で身体の自由を喪うも頭の回転と大声は元気だった。

神社の再建と自分の未来のために兎に角働いた。
その間祖父とは何度もぶつかった。
理由は神社運営とお金の使い途。
徐々に神社に参拝者が戻ってきてもお金は祖父が握っていた。
給料は月5万円から15万円、気まぐれでいただいた。

でもそこには不満はなく、神社の設備投資をしたかった。
改善したいところだらけだったが権限はなく、修行時代の貯金を崩し充てていた。

27歳、祖父と大喧嘩をして本当に神社を出ようと荷物をまとめたことがあった。
行き先は短期留学で行った豪州メルボルン。
チケットもおさえていた。

夕暮れ八幡さまに最後の挨拶に行き、石段の上の社務所で机を整理していると
誰も上がってこないはずの中側の階段から足音がした。

母だった。

薄暗い社務所。40段以上の階にあがれないはずの
母が目の前でまともな話しを始めた。
いつも「頭が苦しい」と会話が続かない母が違うトーンで話しだした。

自分が病気になった理由。

子どもを産めなかった自分を責めたこと。
歴史の家柄の重圧と色んな軋轢。

高校生の俊が神社を嗣ぐ決意した日の安堵。

青春時代の想い出、好きな人がいたこと。
みんなでスキーに行ったこと。

静(父)さんが優しいこと。
結婚式場が兎に角忙しかったこと。
家事を何もしてあげられなくてごめんね。

そして、俊が何を感じていて何を悩み思っているか....
「私も同じ思いをしてきたからわかるのよ」と

的確だった。恐ろしいくらい自分のこと、周りのこと、そして過去と未来までもが全てわかっている。八幡さまと会話しているようだった。

後にも先にも、母としっかり会話した記憶はこの一度きり。

「私は壊れてしまったけれど、俊には壊れて欲しくない。だからどこへでも行っておいで、
でもすぐ帰ってくるんだよ」

泣いた。これまでで一番泣いた日だった。
今まで彼女のことを疎ましく想っていた自分を猛省した。

この人のためにもっとがんばろうと決めた。
この家の重み背負い、もっと強くなろうと決めた。

この話を母が亡くなる数日前に病床で二人だけでした。
手を握りながら感謝を述べた。
意識がないと聞かされていたが
確かに口が「しゅん」と動いた。
手を強く握り返した。

そこで勘違いをした。まだ意識がある。がんばれるのだと思ってしまった。
しかし、選挙が終わり自分が来るのを待っていてくれて最後の力を振り絞っての会話だった のかもしれないと思うと涙が止まらない。

さあ、告別式。気丈に振る舞う。

亡き母を思い、母の為に記す。

高井俊一郎

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