『新しい日常』という言葉の恐怖
宣言が布告されると、ガスマスクが支給され、サイレンが鳴ったらかぶるようにと言われました。私はガスマスクをかぶり、赤ん坊用に支給されていた古い箱の中に娘のシルビアを入れて空気を入れ始めました。近所の人達はどうすればいいのかと思案顔でした。みんなガスマスクを付けたままでした。それは本当に異様な光景でした。
第二次世界大戦中のロンドン市民の手記より
新型コロナウイルスが世界中で猛威を奮い始めて早2年弱が経過した。日本国内では依然と比べて感染者数は減少し、緊急事態宣言も解除され、ワクチン接種率も着実に増加している。ただ世界を見れば、アメリカでは未だに1日の感染者数が連日1万人を超えており、収束を見るには程遠い状況である。そんな状況の中で僕達の生活は一変し、常に感染防止を念頭に行動をしなければならなくなった。この変化した生活をマスコミは「新しい日常」「ニューノーマル」と名付けた。
確かに外を出るにも必ずマスクをし、なるべく人との距離を空けて行動し、テレビ番組では出演者同士の距離が空き、やむを得ず近づく場合は透明のフェイスシールドやマスクを付けるようになった。そんな光景はほんの数年前までは全く想像しなかった。ただ、そういった生活風景を「新しい日常」と呼ぶのは、一種の諦観のように見えるのである。確かにマスク着用やソーシャルディスタンスの確保等はコロナ感染抑制のために必要なことであるが、それはコロナ禍の中でだけ、やむを得ず行なっていることであって、決して日常にしてはいけないのだ。過去の人達がこの光景を見たらどう思うだろうか。マスク着用率の高さで「何らかの感染症が流行している」とは推測がつくかもしれない。しかしそのためにフェイスシールドを付けて芸能人が外ロケをしたり飲食店店員や役所職員が来客対応をする姿は酷く奇妙に映るだろう。勿論今のような生活がずっと続くことは信じたくはないし、マスコミとしても本当に収束を諦めている訳でもないだろう。ただ、「黙食」しか経験できず友達同士でワイワイ話しながら過ごす昼休みに憧れる中学生や、楽しくて馬鹿馬鹿しい飲み会や海外旅行を気軽に出来ない学生達を見ていると、本当に胸が痛む。何をするにも「コロナだから・・・」と中止せざるを得ない場面が多く、オンライン修学旅行などといったものは愚の骨頂である。僕達が過ごしているのは「新しい日常」ではなく「束の間の非日常」でなければならず、僕達の行動でそうさせなければならないのだ。
2019年までのスポーツや音楽イベントの映像を見ていると、何万人という観衆がマスクをせず大きな声を出して騒いで、選手やアーティストは抱き合ったり顔を合わせて声を出している様子が見える。当時の人々は何も気にせず見ているが、今からの視点で見れば「あーあーこんなに密になって・・・」だとか「物凄い量の飛沫が飛んでいそう」といった感想を抱いてしまう。僕はこの感覚が凄く嫌で、ついこの間まで何の疑問も持たなかった光景が、今では半ば禁忌となっているのだ。気兼ねなくマスクをせず大規模イベントや娯楽施設に出向いたり、友達と盃を交わすことのできる「今までの当たり前」を僕達の力で取り戻さなければならず、奇妙な光景の並ぶ「新しい日常」が永続的にすげ替わるようなことは本来あってはならないのである。
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