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スペイン戦と社会学的想像力と

想像力には未来をつくる力がある。
現状を変更する何かがある。
その証拠にあらゆる独裁政権は詩人や芸術家を抑圧する。
    ―――――W・ブルッゲマン『預言者の想像力』


▼▼▼スペイン戦の奇跡▼▼▼


Podcast/YouTubeの、
「夕刊ジンナイ」でも話したが、
今朝、日本代表のスペイン戦を観戦した。
疑似生で見たのだが、
事前に結果を知ってしまう「事故」は起きなかった。

もう、今さら何も言うことはないのだが、
本当に感動した。
VTRがスタジオに降りてきたとき、
中村俊輔さんらとともに出演していた、
田中マルクス闘莉王さん(今は坊主)が、
「(朝4時に)起きてて良かった!
 いや、生きてて良かった!」

と言っていた。

僕も同感だ。

生きていて良かった。
そう思わせてくれた試合だった。
サッカーの試合ではじめて、
涙がじんわりと瞳を塗らした。
詳しくはPodcast聞いて欲しいのだが、
これって何の涙なんだろう、
と思ったとき、
「あぁ、山王×湘北の涙だ」
と気づいた。

スラムダンクの山王VS湘北戦は、
もう誇張なしに何十回も読んできた。
読むたびに泣いてきた。
僕にとっての「古典」なのだ。

あの、明らかに格上の相手に、
何度も引き離されながらも、
泥臭く食らいついていく湘北高校の5人と、
カタールの地で、崖っぷちでも目の輝きを失わない、
日本代表の選手たちが重なった。

本当に良いものを見た。
生きていて良かった。
先週も書いたけどわりと厭世的な僕ですら、
珍しくそう思った。

▼▼▼若手の躍動に思うこと▼▼▼


さて。

そんなワールドカップな日々を送りつつ、
年末の忙しい日々を過ごしている。
仕事や様々な予定も立て込みがちだし、
注目しているお笑いの賞レースも立て続けにある。
10日にはザ・Wが、
17日にはM-1グランプリがある。

ヨネダ2000という女性コンビは、
そのどちらにも出るという。
しかも彼女たちはまだ信じられないぐらい若い。
サッカーワールドカップでも、
日本のお笑い界でも、
若い人々が躍動している。

とても良い事だ。

コロナは若手の躍動を押さえつけることはできない。
時計が止まったかに思えたこの3年間にも、
若い人々は成長し、恋をし、感動し、力をつけていたのだ。
なんか、コンクリートをぶち壊しても成長している木の幹みたいだ。

僕はもう、
どこに出しても恥ずかしくないぐらいの
「おじさん」になってきているのだけど、
おじさんなりにいろいろ考えながら生きている。

世代論はそんなに好きではないが、
僕のような年齢は社会で「中堅」と言われる。
会社員ならば中間管理職だろうし、
キャリアの5合目というか。
自分もプレイヤーで、
後進も育て、上の人々の意図も汲むという。
連立方程式でいうと、
「変数」が一番多いのが中堅だと思う。
若手はひたすら成長すれば良い。
上に立つ大御所は、
経験を生かしつつ大極を見ながら、
いろいろ指示を出せば良い。

中堅は自分も成長し、
若手の成長をサポートし、
老年の方々の意図も汲む。
さらには家庭生活の負担も、
この年代が一番大きかったりする。

ライフステージが戦場ならば、
最も死人が多く出る激戦区が、
この「中堅」という年齢なのではないだろうか。

▼▼▼中堅の立ち位置▼▼▼


最近、臨床心理士の東畑開人さんの、
『何でも見つかる夜に、心だけが見つからない』
という本を読んだ。

東畑さんは臨床心理士で、
研究者としての側面も持つし、
著述家としても活躍している。
わりと僕とよく似た、
「限りなくフリーランスに近い職業人」だ。

フリーランスは上司とか部下とかいないから、
新人・中堅・ベテラン・管理職とか、
あんまり関係ないと思われるかもしれない。
じっさいそのとおりなところもあるが、
そのとおりでないところもある。
フリーランスもやはり、
「社会全体」という超巨大組織の歯車だから。
東畑さんは「中堅」に関して
こんな示唆的なことを書いている。

〈カウンセリングルームで行われているのは、
ごくごくミクロな仕事です。
個人の心という最小単位を相手にして、
それがほんの少しだけ変わることを助ける仕事です。

国内総生産とか地球温暖化とかと比べると、
僕はあまりに小さな仕事をしている。  
だけど、そこで扱われているのが
「みんな」の苦悩でもあるとわかると、
カウンセリングという極小の仕事が、
この大きな社会全体についての仕事でもあると実感されてくる。  
中堅とは、心と社会が深くつながっていることを
知る時期だと思うのです。〉

『何でも見つかる夜に、心だけが見つからない』Kindleの位置No.111

、、、自分のミクロな世界が、
社会全体という大きなものとつながっている、
それが見えるようになるのが、
自分が中堅になったということの意味なのだ、と。
これって組織に属していようがそうでなかろうが同じですよね。
陶芸家だろうと、会社の営業課長だろうと、
「中堅の定義」としては東畑さんの論は有効だ。

僕たちは日々奮闘している。
会社員ならば自分の部署や持ち場で、
サッカー選手ならば自分のポジションで、
フリーランスならば商売が潰れないように、
学校の教師ならば受け持ったクラスルームで、
必死で戦っている。

その「必死の局地戦」が、
社会という大きなものとつながっていることが見えてくる。
これが成熟するということなのだ、と。
逆に言えばこれが分からないうちはまだ、
「精神的には若手」ということになるのだろう。

戦闘に勝つことと、
戦争に勝つことは違う。
戦闘に勝って戦争に負けることがある。

部分最適と全体最適は違う。
部分最適の合計が全体最適になるとは限らない。
これを経済学用語で「合成の誤謬」という。

若手には戦闘や部分最適だけが見えている。
中堅には戦争や全体最適「も」見えている。
そういう話だ。

C・ライト・ミルズという社会学者は、
その古典的著作『社会学的想像力』で、
「ミクロな日常」を、
「社会や歴史というマクロ」に、
関連付けて考える思考力がある人間を、
「社会学的想像力」を持つ、
言葉の本来の意味での社会学者なのだ、と言った。

しかし、「専門化」によってサイロエフェクトが起き、
隣の専門について無知なオタク研究者が増殖し、
このような能力を持つ社会学者はもはや珍しくなった、
とミルズはボヤいたのだ。

引用しよう。

〈そうはいっても、人々は普通、
自分たちが抱え込んでいるトラブルを、
歴史的変動や制度矛盾といった観点から捉えようとはしない。
また、享受している幸福について、
自分たちが暮らしている社会全体の
大きな浮き沈みに関わるものだとは考えない。

普通の人々は、
自分たち一人ひとりの生活パターンと
世界史の流との間に複雑なつながりがあることにほとんど気づかない。
両者のつながりは、
人々がどんな人間になってゆくか、
そしてどんな歴史形成に参加することになるかということに対して
何らかの意味を持っている。
だが普通の人はいつもそれに気づくわけではない。

彼らには、人間と社会、個人史と歴史、
自己と世界の関わり合いを理解する上で
極めて大切な思考力が欠けているのだ。
個人的なトラブルにうまく対処するには、
その背後で密かに進行している構造的転換を
コントロールする必要がある。
しかし、彼らにはそれができない。〉

『社会学的想像力』16頁

、、、ミクロな世界に閉じ込められた、
「普通の人々」の想像力の欠如を、
その社会学的想像力によって補い、
人々を、東畑開人さんの言う「中堅」に成熟せしめるのが、
ミルズが考える社会学者の本来の姿なのだ、と。

ちなみにブルッゲマンという神学者は、
ミルズのこの論理を下敷きに、
旧約聖書の預言者が担ったのは、
まさにこの役割に限りなく近い、
と書いている。
ブルッゲマンの著作、
『預言者の想像力』は、
ミルズの『社会学的想像力』を下敷きに書かれた。

ミルズからいま一度引用しよう。

〈私的問題を公的問題へと翻訳し、
公的問題を多様な諸個人にとっての
人間的意味の観点へと翻訳し続けることは、
――リベラルな教育者としての――社会科学者の政治的指命である。
研究の中で――そして教育者としては人生の中でも――
この種の社会学的想像力を発揮するのが、彼の指命である。〉

『社会学的想像力』314~315頁

、、、ミルズは、
個人の私的問題と、
社会の公的問題の間に橋を架けること、
これが使命を帯びた社会学者の役割だ、
と若い社会学者たちに説いた。

ブルッゲマンはこれを敷衍し、
預言者とは、
現実の世界(此岸)を生きる人々と、
超越的な神の世界(此岸)の間に、
橋を架ける人間なのだ、と書いた。

では、何が僕たちを成熟させ、
何が僕を「中堅」にしてくれるのか。
それは「悲しみ」だと先の東畑開人さんは言う。

今一度引用しよう。

〈だから、悲しむことができたとき、
僕らの心は以前よりも少しだけ、広く、深くなる。
心に複雑なものを置いておけるだけのスペースができる。
これを僕は「ネガティブな幸せ」と呼びたい。  

もちろん、それはつらい時間です。
悲しみは気持ちのいいものではなく、心を落ち込ませます。  
でも、そういう時間がなければ、
僕らの心はシンプルで、狭く、浅いままにとどまってしまう。
目の前の複雑な現実と触れ合えないままに、
白と黒しか存在しない自分だけの世界に閉じこもるならば、
世界は貧しくなってしまう。  

悲しみには豊かさがある。  
そこには世界の複雑さと、他者の複雑さと、
自分の複雑さのための余白がある。  
そういうものを実感できたとき、
僕らはネガティブなことが起こり続ける人生というものを、
それでも生きるに足るものだと思える。  
それを世間では「大人になる」というのでしょう。〉

『何でも見つかる夜に、心だけが見つからない』Kindleの位置No.2691

、、、悲しみは僕らを大人にしてくれる。
この30年ぐらい、
日本は、日本人は、
数多くの悲しみに遭ってきた。
沢山泣いてきた。
東北の地震で、
景気の低迷で、
政治の混乱で、
社会共通資本の枯渇と個人のアトム化で。

孤独になった僕たちは、
沢山泣いた。
その涙を分かち合う他者も持たずに。

その涙と悲しみが、
いつの日か僕たちを成熟に導き、
どうか「心の余白」を大きくしてくれるように。
「所得倍増計画」やバブルの時代の、
底抜けに楽観的な日々には見えなかった、
奥行きのある、より深い、より豊穣で、より多様な、
そんな幸せを僕たちの世代と、
そしてもっと若い世代が発見していけるように。

まだ30代にして、
僕なんかよりも大人な考えを持つ、
臨床心理士の東畑開人さんの真似をして、
僕もまた小さな小さなミクロの仕事場から、
この社会や歴史に思いを馳せる。
窓の外にはカラッカラの令和の日本が見えるが、
悲しみで広くされた心で、
そこにすら宝物を発見できるようになることを、
僕たちは「成熟」と呼ぶのだろう。
まだまだそれは先のことなのかもしれないが。


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参考文献および資料
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・「スラムダンク」井上雄彦
・『何でも見つかる夜に、心だけが見つからない』東畑開人
・『社会学的想像力』C・ライト・ミルズ
・『預言者の想像力』W・ブルッゲマン

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