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円の真理に居着くのでなく、楕円の真理と踊れ




仏教では、向上道、向下道の二道があると説く。
向上は、一個の人間が大いなる智慧を求めて道を究めること。
向下は、大智にあふれた者がその働きを大悲へと変貌させ、
人々の生きる悲しみや苦しみに共に向き合おうとすることを指す。
生涯にいくつも山を越え、山を下らねばならない。
だが、人は熱心なあまり向上の道だけを強く求めることがある。
妻の死は、内村に向下の道があることを教えた。
     ―――『内村鑑三 悲しみの使徒』若松英輔著 87頁



▼▼▼真理は楕円▼▼▼


「真理は楕円」だと内村鑑三は言った。

ユーグリッド平面幾何学における「楕円」の定義は、
「二つの焦点からの距離の和が一定である点の集合」、
ということになろう。
これに対して「円」の定義は、
「一つの中心からの距離が一定である点の集合」だ。

画鋲をひとつ刺す。

その画鋲に毛糸の片方を縛る。
その毛糸のもう一方の端に鉛筆をくくりつけ、
毛糸の緊張を解かずにぐるりと線を描く「円」になる。

画鋲をふたつ刺す。
二つの画鋲の距離よりも長い毛糸を、
それぞれの端に縛り付ける。
その毛糸が緊張し続けるように、
鉛筆でぐるりと描くと「楕円」になる。

中学校ぐらいで習うんだったけか。

「真理は楕円」と内村が言ったのは、
「円」ではない、という意味においてだ。

円(楕円に対する「真円」)は、
中心がひとつしかない。

それに対して楕円は二つある。

この差のことを言っている。

内村はキリスト教を背景にこれを言っている。
つまり、キリスト教を、
ひとつの完全無欠な真理の体系かのように、
「ひとつの中心」に整合させて理解しようとする傾向に対して、
そうではないのではないか、と言ったわけだ。

そうではなく、
真理は複数性を持つ、
と内村は考えたのだ。
焦点が二つある楕円のように、
「こちらも真理だが、こちらも真理だ」
という緊張関係と、それによる「動的な状態」こそが、
むしろ「全体としての真理」と言えるのではないか、と。

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