見出し画像

伊集院さんに帰依している話し


ラジオは大多数の人々に親密な一対一の関係をもたらし、
著者=話し手と聞き手との間に暗黙の意思疎通の世界を作り出す。
これはラジオの直接的な側面である。つまりは、私的な経験。
―――――マーシャル・マクルーハン『メディア論』


▼▼▼伊集院さん▼▼▼


今年の9月~10月は、
鬱で動けなかった。

その間、伊集院さんのラジオに、
僕はずいぶん救われた。
いや、伊集院さんに救われた。

伊集院さんは内面がイケメンなので、
表だって言うことはないが、
かつて不登校になって部屋から出られなかった、
学生時代の伊集院さん自身のような存在に向けて、
ずーっと、言葉を紡ぎ続けている。
その言葉は説教とか人生訓とか元気が出る言葉とか、
そういうのじゃ駄目で、
とことん下らないものでなければならない。
言葉としてのカロリーがゼロでなければならない。

聞いた瞬間、
脳が「メモリーが勿体ない」と判断し、
忘れられていくような言葉たちでなければ、
部屋に閉じ込められたかつての自分に届かない、
と多分伊集院さんは思っている。

そして、それをずっと続けている。
ニッポン放送の時代から数えれば、
伊集院さんはかれこれ30年以上、
深夜ラジオのパーソナリティとして第一線を走っている。

僕は伊集院さん以外のラジオもけっこう聞く。

1週間の平均テレビ視聴時間:5分以下
1週間の平均ラジオ聴取時間:10時間以上

という僕は、
ラジオヘビーリスナーと言って良いだろう。

といっても、
ラジオの前に正座して聴取しているのではなく、
自宅で働く僕は軽作業のときに「ながら聞き」をし、
あとはスマホを持ってないので電車などの移動中はいつも、
ラジオを聞きながら外の風景を眺めたり、
人間観察をしている。
「あー全員スマホ見てるなー」が、
ほぼ毎回の感想なのだけど。

そんなラジオリスナーの僕から見ても、
「日本で一番ラジオが上手な人」は、
誰が何と言おうと伊集院光だ。

もちろん異論はあろう。
いや、上柳昌彦だ、とか、
大竹まことだ、とか、
ジェーン・スーだ、とか、
高田文夫だ、とか。

でも、やはり伊集院光なのだ。
伊集院さんのラジオの神回は、
もう、素晴らしい落語の一席を聞いたような感慨がある。
そもそも伊集院さんは六代目円楽の弟子の落語家だ。
話が上手くないわけがない。

落語で鍛えた素地があるから、
それをラジオに応用し、
「話芸」をとにかくストイックに30年磨き続けたのだ。
面白くないわけがない。

「ラジオで上手に話すとはどういうことか」を、
追求し続けるその「求道者」ぶりは、
「バッティング道」を究めようとひた走った、
元広島カープの前田智徳や、
元マリナーズのイチローを思わせる。

伊集院さんは内面がイチローなのだ。
ラジオの剣豪、伊集院光を、
僕は尊敬してやまない。


▼▼▼救済としての伊集院光▼▼▼

さて。
鬱の期間、伊集院さんに救われた話しに戻ろうか。

燃え尽きで2年間動けなかった時は別だが、
僕の鬱は「適応障害」の延長上にある鬱と全く違い、
「仕事が楽しくて仕方ない状態」から、
翌日、一気に鬱状態にシフトする。

パソコンが強制終了するイメージだ。
ブツンと脳が動かなくなり、
セロトニンが枯渇し、
絶望以外の感情を感知できなくなり、
希死念慮に囚われる。

本当にやっかいな存在だ。

思考能力がいきなりゼロになるだけでなく、
喜怒哀楽もまったく感じなくなる。
「感情の味覚障害」みたいな感じで。
そのくせ絶望だけはビシバシ感じまくりやがる。
あと、神経が過敏になるらしく、
外の光が部屋に入ってくると、
眼球から入ったその光が脳を刺激して「痛い」と感じる。
ひどいときはテレビのモニターの光も「痛い」から、
テレビを見られなくなる。
文字情報から意味を把握することもできなくなるし、
執筆などはもう、全然無理だ。

結論から言えば何もできないわけだが、
椅子に座って鬱をぐっと堪えている状態、
というのは一番希死念慮に脳内を支配されやすい状態なので、
脳を何かで満たす必要がある。
死神が脳というコップに入ってこないように、
水をコップに入れておかなければならない。

その「水」なのだけど、
思考力がゼロだから、
本はまったく読めない。
テレビも見られない。
となると、最後がラジオなのである。

そのとき、
「情報密度ゼロ」のラジオがもっとも良いのだ。
結果、伊集院さんに僕は助けを求める。
今年の鬱の2ヶ月間、
僕は伊集院さんの声を聞き続けた。
過去のアーカイブを漁り、
もう、ずーっと真っ暗な部屋で、
伊集院さんのラジオを聞いていた。

伊集院さんの語りを聞いていると、
あまりの馬鹿馬鹿しさに、
だんだん眠くなってきて鬱でも安らかに眠れた。
伊集院さん、ありがとう。


▼▼▼伊集院さんはなぜそんなに面白いのか▼▼▼

でもね。

同じ情報密度ゼロでも、
芸人がゲラゲラ馬鹿笑いしているラジオが良いかというと、
鬱の時はそれはカロリーが高すぎるのと、
あと「それじゃ駄目だ」と思う。
なんか、疲れるのである。
伊集院さんであるという必然がそこにある。

それは何なのか。

多分それは、「絶望」ではなかろうか、と僕は思う。

心のどこかでこの世界に「絶望」している人の言葉だけが、
鬱の檻の中に閉じ込められた人間に届くのではないか、と。

その「絶望」をさらに分解していくと、
多分「世間とのズレ」みたいなことにある。

僕は小学生のころから、
学校の全体集会で、
全員が先生の命令に従って列を作っていることが、
吐き気を催すほどに気持ち悪かった。
「全員バカなんじゃなかろうか」と思っていた。
この社会で当たり前とされていることを、
なぜ当たり前として飲み下さなければいけないのか。
喉元でどうしても拒絶して吐き出しては、
周囲の大人に「困った奴だ」という目で見られた。
かわいげのない、こましゃくれたクソガキだった。

そのころに掛け違えたボタンは、
45歳になった今も元に戻ってなくて、
今も「世間とのズレ」を抱えながら生きている。
小学生のときと変わったのは、
それを隠す技術を獲得したというところだけだ。

伊集院さんが養老孟司さんと対談した本に、
『世間とズレちゃうのはしょうがない』という一冊がある。
養老さんはこう伊集院さんを評価している。

〈タレントと呼ばれる人は大勢いる。
でも伊集院さんのような人は少ない。
本人がどう思っているかはともかく、大変な努力家である。
世間とのズレが仕事の動機にもなり、努力の源になる。
私は長年そう感じてきたが、
今度の対談で伊集院さんもそうだったかと、
あらためて知った。〉
(『世間とズレちゃうのはしょうがない』181頁)

、、、世間とズレることはとてもしんどい。
だけどそれが仕事の動機にもなり努力の源にもなる、
と養老孟司さんは言う。

450万部という空前の部数を売り上げた、
『バカの壁』は、
「世間と自分のズレ」を言葉にしただけだった、
と別の本で養老さんは書いている。

伊集院さんもまた、
「世間とのズレ」に、
とことん悩み抜いた人間だ。

彼はNHKの『100分de名著』という番組で、
フランツ・カフカ研究の第一人者と対談したときのことを、
ラジオで話していた。
カフカの『変身』で、
主人公のグレゴール・ザムザはある日、
目を覚ましたらグロテスクな虫になっていた。

伊集院さんはその京都大学の先生に、
「虫になってた」ってところが、
分かるようで分からないんですよね。
そんな経験普通、しないから、
と質問をぶつけた。

川島隆というその先生は、
「学会や大学では、
 そんなストレートな質問は飛んでこない。
 みんな知ったかぶりするから」
と、その質問を歓迎した。

先生は言った。

「伊集院さん、これはどうですか。
 ドイツ語には『虫』を表す単語が2つあります。
 『益虫』と『害虫』です。
 カフカの変身の『虫』は『害虫』の方なんです」

これを聞いた瞬間、
伊集院さんはカフカが『変身』で言おうとしたことが、
完全に実感として分かったという。

かつて高校に行けなくなり中退した。
1967年生まれの伊集院さんの時代の不登校は、
今の時代のカジュアルな不登校とは違う。
親からしたら、この世が終わるような大事件だ。
そんなことは分かっていても、
伊集院さんはどうしても行けなかった。
部屋から出られなかった。
今考えたらあれは鬱だったと振り返っている。

そのとき、自分が「害虫」だと思った。
ある日突然、部屋から出られなくなり、
役立たずの害虫になった。
妹にも兄にも親戚にも疎まれ、
親しい人が恥ずべき自分の存在を世間の目から隠すのが、
たまらなく悲しかった。
異形の存在となった自分を暗い部屋で見つめ、
壁に「死ね死ね死ね死ね死ね」とマジックで書いた。

そのとき自分は「害虫」だった。

、、、と話すと川島隆先生は、
「良いことを聞きました」と伊集院さんに感謝した。

後日、川島隆先生は、
新訳『カフカ』を刊行した。

伝統的に「虫」と翻訳されてきたカフカのその単語が、
その新訳では「虫けら」と訳されていた。

、、、

、、、

すごい話しじゃないですか?

、、、何の話し?

、、、そう。
伊集院さんのこういう「世間とのズレ」と、
そしてそこから逃げない勇気というか愚直さというか、
そういうのに僕はいつも救われている。
それを聞く度に、
「お前も生きてていい」
と言われたような気持ちになる。

僕は毎日Podcast/YouTubeを更新している。
規模は小さいけれどそれはラジオ番組で、
僕はそれを聞いた誰かが、
僕が伊集院さんのトークにしてもらったように、
「生きてていい」
という肯定を感じてもらえたら本望だ。

、、、と思いながら、
殆どレスポンスのない虚空に向かって話し続けている。
(オープニングトークに書いたように
 今週はレスポンスに励まされた。ありがとうございます。)

僕は小さなラジオパーソナリティだ。
伊集院さんという「虫けらのボス」から吐き出された、
クモの子どもみたいに、
僕という「虫けら」は毎日、
放送を続けている。

FVIの「預言的」な活動でもあり、
副業のコンサルティング業「陣内義塾」の、
プロモーションでもある。
でも、そのどれも失っても、
やはり虫けらは話し続けるんじゃないかと今は思う。

伊集院さんは先ほどの本で、
こうも言っている。

〈僕の職業は「ラジオパーソナリティ」です。
 なんて気張っていた頃もあるんですが、
 最近は「ラジオが趣味かな」とは思うようになりました。
 30代のころ、いつか悠々自適の暮らしをするようになったら
 仕事なんかしないんじゃないかと思っていたけど、
 多分「ラジオだけは続けるんだろうな」と思うようになってきました。〉
(世間とズレちゃうのはしょうがない 168頁)

、、、師匠がそう言うなら、
僕もラジオは続ける。
何もレスポンスがなく、
いくら宣伝しても有料記事を殆ど誰も買ってくれないとき、
メルマガもPodcastもやめようかなと思うけれど、
それでも伊集院さんがいるから、
やはり続けようと思う。

こういうのを「内発的動機付け」という。
僕は伊集院さんに励まされていると同時に、
試されてもいる。
「世間とのズレ」から逃げてはいけない。
「承認の罠」に逃げこんではならない。
こうして僕はアウトプットの修羅になる。

終わり。



*********
参考文献および資料
*********
『世間とズレちゃうのはしょうがない』養老孟司×伊集院光
『のはなし さん』伊集院光
『のはなし し』伊集院光
『変身』フランツ・カフカ
『モチベーション3.0』ダニエル・ピンク
『メディア論』マーシャル・マクルーハン

NGOの活動と私塾「陣内義塾」の二足のわらじで生計を立てています。サポートは創作や情報発信の力になります。少額でも感謝です。よろしければサポートくださいましたら感謝です。