ブーツを食べた男と冷たい人魚

 一八四七年六月十一日早朝、エレバス号の船長は反乱した船員らによってサーベルで腹部を刺され、左舷後方から海に投げ捨てられた。歴史ではその日が命日となっている。事実は違う。彼は船尾を押さえつける海氷の隙間に落ち、不規則な波に揺られながら、仰向けに浮かんでいた。視野のほとんどが青白い氷で塞がれている。時折、遥か上方から氷の欠片が落ちてきた。頭のすぐ横に落下したのは拳大の大きさで直撃したら顔が爆ぜていただろう。男は弱々しい溜息をつき、それから海で死ねるのなら幸せだとかすかに思った。幼いころから嫌なことがあっても潮風を浴びれば心が軽くなった。輝く海面を見ればすっきりした。死に場所としてはそれほど悪くない。今はただ眠りたかった。目を閉じる寸前に、女の顔を見たような気がしたが、もう一度瞼を開く気力はなかった。
 彼は故郷のイギリスで「長靴を食べた男」と呼ばれていた。北西航路を探す旅で飢えてブーツを食べたからだ。北極とカナダの間に存在する地図上の空白が、イギリスを冒険に駆り立てた。誰も彼もが北西航路という冒険熱におかされていて、男が氷の世界に戻ってきたのもそのせいだ。長靴を食べて二十年以上たっても、熱は少しも下がらなかった。
 次に目覚めると夜だった。暗い空にオーロラが踊っている。緑色だったかと思えば、すぐ赤くそまり、青色へと変化する。身体を起こそうとしたが四肢に力が入らない。海ではなく陸に寝そべっていた。頭を左に動かす。凍った海と流氷に挟まれ立ち往生する二艘のシルエットが見えた。幽霊船のようだと思いながら己の腹を確認した。サーベルは刺さっておらず、血も流れてない。すぐそばで人の気配がして、見ると女が自分を見下ろしていた。濡れた黒髪をたらした顔は、最初の妻、詩人のエレノアとも、再婚相手のジェーンともつかぬ顔だ。足元に目をやったところで気力がつきた。意識を断ち切られるように眠りへと転げ落ちる。それでも見たものは脳裏に刻まれ、夢の洞窟から抜け出ると、故郷の海のような青い目をした女の下半身がイルカのそれであっても驚きはしなかった。すでに彼女が人魚だと知っていた。あなたが助けてくれたのですかと問うと女は頷き、正確にはあなたに流れる血が傷をいやしたのですと答えた。人魚の首筋には杉葉のような形をした朱色の触手がついていて、しゃべるたびにやわやわと揺れた。女はアークティックチャーを焼いてくれた。柔らかいイワナの肉を咀嚼しながら彼女の話を聞いた。文字のなかった時代、人と人魚は一緒に暮らしていた。人と人魚の夫婦も珍しくなかった。子どもは人魚になるものもいれば、人間になるものもいて、人間だったものが人魚になったり、その逆もあったりした。やがて文字が生まれると人と人魚はゆっくりと疎遠になっていった。あなたは人魚の子孫なのですよと言われ、男は戸惑った。泳ぎが人一倍うまかったわけでもないし、人魚に親近感を覚えたこともない。そう訴えると人魚は目を細めた。でもあなた、いつも海が恋しかったんでしょう、と言って微笑む。どうしてかその笑顔がとてもまぶしかった。
 その日から毎日、女は男のために海から魚をとってきた。手早くさばいて焚火で調理してくれる。料理しながら色んな話をしてくれた。男が助かったのは女の血を飲ませたからで、人魚の血が流れているものには効果がある。起き上がれるようになったら男も海中で自在に呼吸できるはずだ。めったなことでは死ななくなり、足は尾びれに変えられる。嬉しそうに話す女に男は見とれた。エレノアとも、ジェーンともつかぬ顔で、こんなきれいな顔は見たことがなかった。しかしどうしてか、ときおり猿のような顔に鱗だらけの胴体と尾びれの姿に見えたり、顔だけが人間でそれ以外は真っ赤な魚のようにも見えることがあった。揺れる炎の向こうに闇が存在するように、ちらちらと異なる姿が垣間見える。だが女が微笑んでくれると、そんなことはどうでもいい気がした。男はすでに女の虜だ。
 助けられて二日間は幸せだった。三日目、男が反乱した船員たちを助けたいと口にすると、女は表情を曇らせた。
「彼らは人魚の血筋ではないし、人魚の存在が明らかになるのは困ります」
「あなたがカントの『実践理性批判』を読んでいたらよかったのに。自己利益しか頭にないのなら動物と同じですよ」
「理性なんて文字が生み出す幻想です。なぜあなたは人と動物に線を引くの?」
 女は唇を閉ざした。沈黙に焦った男は無意味に話し続け、良いことのつもりでこう言った。「君は最初の妻のエレノアとも、今の妻のジェーンともつかない顔をしている、だからずっと親近感を抱いていたんだ」と。女はため息をつくと、流れるような動きで海に潜った。いくら呼んでも戻らなかった。
 二十年が過ぎ、五十年が過ぎた。彼女の声が恋しかったが、もうどうやって仲直りしたらいいのかわからなかった。孤独な暮らしは百年以上続いた。やがて地球の温度が上がり北西航路が開けると、そこはもう氷の世界ではなかった。海氷が溶けだすと、カナダは領海の主権を訴えた。通行料を徴取するためだ。諸外国は金など払いたくなかったので、北西航路は自由な航路だと主張し、対立した。
 結局、彼女が正しかった。
 近い将来、人魚たちは氷の庇護を失い、ちりぢりになってしまうだろう。その数は数千だろうか。数万だろうか。人魚たちは陸に上がり、冷たい海を恋しく思いながら、人のふりをして長い時を渡るのかもしれない。
 ときおり男は夢を見る。夢の中で彼女の髪を撫でている。起きてからも細い髪の感触が指先に残っていて、そんなときは一日中、彼女に似た人を目で追ってしまう。彼女だったためしはない。いつも違う女だ。

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