理由はデニス・ルンセンと同じ

 あまりにストレスフルな一日だったので、彼は手近なところですませることにした。近所は疑われるので避けていたのだが、もうこうなったらしかたない。暗くなるまで待ってから彼は古びたアパートを出て、ブロック塀に隠れて周囲をうかがった。選り好みするつもりはなかったが、どうにも好みがやってこない。太りすぎ。がりがり。気持ち悪い歩き方。子ども。老人。もうこうなったら好みから外れても仕方ないかと思っていると、今度は人通りがまったくなくなる。苛立った彼は塀をブーツで蹴りつけた。二度。三度。四度。クレームの内容と上司のアドバイスが彼の脳裏に浮かんでくるたび、強く壁を蹴った。何度目かに蹴ったとき、ブーツの当たる角度が悪くてぐきっと変な音が足首でした。足先に力が入らずその場で崩れ落ちてしまう。手をつこうとした先に、割れた瓶が街灯の光を反射していた。慌てた彼は瓶を避けようと手首を右に動かした。手刀を叩きつけるように小指から地面に当たり、そのまま捻り、骨が折れてしまった。手に力が入らなくなったため彼の頭部はそのまま瓶に近づいた。左目だった。瞳の横、黒目と白めの際に折れた瓶の切っ先は突き刺さり、瞬膜を切り裂き、ガラス体へと食いこむ。額が地面をハンマーのように叩いても、彼は目を閉じなかった。視界の端でぼんやりと光るガラスを見ていた。声にならない声をもらして立ち上がったとき、塀の前を中年の男が歩いてきた。太っても痩せてもない男に向かって、彼は突進した。片足にはほとんど力が入らず、途中で左目から瓶がぽろりと落ちた。唇からはうなり声が漏れている。せめて部屋に連れていくべきだと理性が囁いていたが、もう我慢できない。ずっと右手に握り締めていたナイフを相手の首に突きさす。目を見開いた男の顔にかみついた。鼻を前歯でかじりとる。軟骨を奥歯で噛み締めながら恍惚となっていたが、何かが変だった。異変を感じているのに、それが何なのかわからない。味もおかしい。まるで腐った肉のような、嫌な味がする。ぺっと吐き出すと、相手が吐き出した鼻に手を伸ばし、ようやく理解できた。首を刺した相手がまだ動いている。ひどいことするな君は、と相手が言った。つまり、と彼は思った、こいつも同類なのか。確かに、もう三人に二人は罹患しているとニュースでも報道していた。が、あれはこんな田舎町ではなく、東京の話だったのではないか。だってこれまで、同じ種に当たったことなどないのに。首から流れる血が男の左半身を濡らしている。街灯を浴びて光っていた。同じだとわかっても、いらいらが止まらない。別に仲間など必要ない。切り刻めるなら、誰だっていい。ナイフを握り締めると、相手はちょっとびっくりしたように目を丸くした。鼻がない顔は間抜けに見えて、それが嫌悪感を煽った。あるいは、と彼は思う、こいつだって死ぬのかもしれない。めちゃめちゃに切り刻んでしまえば。殺せるものなら殺してしまえ。彼は思った。そもそも彼は食べたくて殺すのではなかった。彼の部屋には十五の遺体が保存してある。理由はデニス・ルンセンと同じだ。「家で誰かが待っているのはいいものだ。それが死体であっても」
 彼は光を浴びて輝く男を見つめ、にやにやと笑った。とても美しい男だと思った。

 血脂で虹色に光る歩く死体  駿一郎

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