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BFC5決勝作品の感想 その2

 蜂本みさ「お会いしましょう」の感想を書きます。
 ぼくは近鉄線に乗ったことがないので、そのあたりの雰囲気はわかりません。
 二度、三度と読み返して思ったのは、ここに登場する「おばけ」というのは、編集されていくつかの要素を切り落とされ、置き換えられた、本物らしいが本物ではない存在のことだろうと思いました。

 ところで、「お会いしましょう」は読みましたか?
 まだでしたら、今すぐ読んでくださいねー。

 読みました?
 ではネタバレで感想を書きます。
 この短いお話には、質感の異なる文章がふたつ載っています。
 ひとつは、いわゆる一般的な小説の文章。
 もうひとつは、聞き書きと呼ばれる文章です。
 聞き書きというのは相手の言葉をそのまま文字に起こしていくような文章のことです。「ような」とあえて曖昧に書いたのは、多少の編集はなされるからです。実際に話してみるとわかりますが、人はそれほど明瞭にすらすらと淀みなく話したりはしません。自分自身のことを話すとしても、「あー」とか「うーん」などという言葉は入りますし、話している順序が理解しやすい形ではないことも多い。「話の順番間違ったな、この伯父さんは実は小学校のころに会ったことがあって」のように話しているうちに思い出すことも多い。そういう場合、話し手の了承をもらって、順序を入れ替えることもあります。また間投詞が多すぎるとうるさくなってしまうので、それを削ることもある。インタビューや生活史調査などで用いられる文体です。
 ということで、「お会いしましょう」に戻ります。
 語り手である「私」は「生活史を聞き取った」とあります。生活史を聞き取ったインタビューをどのように書いたのか、実例がこのお話では示されています。
「私がおばけにあったときのお話」は、聞き書きで表現されています。インタビューの原稿であれば文字になりますが、この場面ではこのように語りましたという形の表現となっています。これって朗読で聞きたくなるような文体ですよね。
 さて、このとき「私」の語った話は、どこまで事実なのでしょうか。
 もちろん、これは本当にあったことだからこそ「私」は話しているのだし、本当にそのように感じたことを話しています。ただ、ここに登場する「私」や「夫」は、リアルな人間としての「私」や「夫」を寸分の狂いもないほどぴったり同じに表現しているのでしょうか。
 たぶん、ちょっとだけ違うんじゃないかと思うんですよね。聞き書きで表現されている「私の語る私」は少し怖くなる度合いが低く、実際よりも落ち着いているかもしれない。パニックになりそうなところを描写しすぎたら冗長になってしまうから、刈り込まれているのかもしれない。「夫」の反応も、ここまでシンプルではなかったかもしれないし、一緒におばけのいた部屋に行くときだってあれやこれやとぶつぶつ文句を言ったかもしれない。しかし、そういう雑味になるようなものは注意深く排除され、体験が伝わりやすい形に整えられている。
 この「おばけに会った話」だけではなく、例えば「夫が茶碗を割った話」とか「夫が猟から帰ってきた話」とか、自分の身近な人物に起こったことを身近な第三者に話すとき、私たちは無意識に、言葉を選び、文脈を考え、不必要な語りを刈りこみ、わかりやすくするよう努力している。そうしないと聞いてもらえないから。
 そのようにして刈り込まれ、整理され、わかりやすくされた「夫」が、私に触れてきた話が、聞き書きの形で書かれているわけです。
 で、「あなた」もまた、母親から聞いた膨大な語りのうちに存在し、しかし、編集作業によって母親の生活史としてまとめあげようとする作業中に、「私」のところにやって来るようになった。
 語り手はそのような存在である「あなた」におばけという超自然的な存在について質問されたので、そのような語り(部分部分は夫なのに全体像としてはまったく違う異形)が口をついて出たのだろう。

「そういうのってさあ、会いたかったからきたんやわ」

 これは幾重にも読めるセリフだ。作中で示されている解釈以外だと、「あなた」が「私」に会いたかったから来た、ともとれる。自分だっておばけと同じなんだよと共感しているようにも読める。
「あなた」という存在は、「私」の想像の産物ではなく、事実とフィクションの狭間を漂う、不可知の何かであることを予言するようなセリフだと、ぼくには読める。
 というのも、その後、「あなた」は人々の存在感によって「あっという間にちびてゆく」からだ。

 ぼくはそのように読んだわけですが、とにかく一番心が震えたのは、「ちびてゆく」の一言です。
 超自然の存在が実在できずに消えていくという表現は、過去、何千何万とあったと思うんです。徐々に薄れてしまったり、フィルムが燃えるように消えたりといった視覚的な効果によって表現されることが多かったと思うんですが、ここでは「ちびてゆく」んです。縮んでいくでも削れていくでもなく、「ちびてゆく」としか言いようがない状況が浮かんできて、これは映像では表現しきれない、余韻のある、音が印象に残る表現で、ここを読むためにすべてを朗読したくなるほど素晴らしい。蜂本みささんの想像力は、夢や不可知の存在などを用いなければヴィジョンとして表現できないものなのかもしれないなと思ったりもしました。想像力の質が、現実の外にあるものを必要とするというか。

 余談ですが、夫を部屋に連れて行って、「おい! 本物連れてきたぞ!」というシーンを読んで、ぼくは沢木耕太郎の話を思い出しました。
 ノンフィクションライターである沢木耕太郎は、ある時期、自分が見たものだけを書くというスタイルを貫き、『一瞬の夏』という作品に結実させます。これは沢木耕太郎がカシアス内藤というボクサーの再起のために費やした二年間の記録です。二年間だけれども、思い返すと一瞬の夏のようだったから、『一瞬の夏』というタイトル。それを読んだ同業者が沢木耕太郎にこんなことを言った。「あなたの文章をいくら読んでも、どうしてあなたがカシアス内藤にあんなに入れ込んだのかわからなかった」と。沢木耕太郎は、文章だけでは伝わらないものがあったかもしれないけれど、とにかく内藤の肉体がすごかったんだ、実際に目にしたらショックを受けるほどだったんだ、と説明しています。
 本物の実在感に勝るものは、そうそうないってことです。

 さらに余談なんですが、ぼくは、蜂本さんのジャッジをジャッジする文章を読んでから、「お会いしましょう」を読みました。ジャッジのジャッジで、蜂本さんはこんな文章を書いています。

>茶化しながら記憶に没入する語り手について「同一人物とは思えない」とは心外です。それこそが私という人間のチャームポイントだからです。
>野村さんはBFCの懇親会にいらっしゃいますか? 矛盾した両面をあわせもつ本物の蜂本をお目にかけますよ。お会いしましょう。

 この野村金光さんへの「お会いしましょう」がやたらと印象に残っているところに、決勝作品が「お会いしましょう」だったので、そういうところで読後感が影響されているかもしれません。
 それにしても、蜂本さん、本当にチャーミングですね。

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