「読みかけのディケンズ」

 どこに行きたいのか彼女に聞かれると、いつも男は困ってしまう。二人で歩くのは新鮮だった。彼女の目を通して世界を見るには、歩く速度がちょうどよい。彼女が気になる場所で足を止め、彼女が行きたい方向に向かって歩く。それが心地いいのだ。それに男には行きたいところがない。少なくとも現世では。どういう意味? 夢でいつも同じ場所を見るんだ。知ってるところ? それが知らない場所なんだ。ネットで探してみよっか。……現実にはないかもしれない。んなもん、やってみなきゃわかんないでしょうが。
 夢で男は子どもになっている。伯父に連れられ、祖母の見舞いに来ていた。男はすぐに退屈してしまう。伯父は祖母のそばに座って同じような話ばかりしている。いつも本の話だ。退屈した男は、二人が話しこんでいるのをいいことに、こっそり病室を抜け出す。三色の線が引いてある病院の床は黒ずんで汚れていた。黒のラインは病棟に、赤は検査室に、緑はどこに続いているのかわからない。辿ってみると緑の線は建物の裏口めいた場所から外廊下に出ていた。コンクリートが一段高く盛り上がっているだけの道で、壁はなく、細い柱とトタン屋根があるだけだ。自動販売機が並んでいるコーナーがあり、その向こうは増築されたらしい病棟に続いていた。脇道から駐車場に出られた。敷地の外に出るとすぐそばを川が流れている。欄干と欄干に紐がわたしてあって、真っ白い洗濯物が干してある。古いデザインの肌着は大人用のものだ。子どもになった男は、洗濯ばさみを外してそれを川に流してしまう。肌着は驚くほど速く流れた。楽しくて、他の洗濯物も川に流す。靴下は沈んでしまった。黒っぽいベレー帽は水すましのようにすいすいと下流に消えた。ジーパンを手にしたとき、恐ろしい声がした。目を吊り上げた老婆が手をふりあげて下から駆けあがってくる。男は夢中で坂道を上へ上へと走った。息が切れて振り向くと、まだ老婆が追ってくる。いくら走っても逃げきれない。坂の頂上に近づいたとき、ひいっというような金切り声がした。そっと後方を確認すると、老婆が倒れていた。枯れ木のような身体は恐ろしい寒さに襲われているかのようにぶるぶると痙攣し、目をかっと見開き、口から血の泡をふいている。怖くなった男は足を止めた。老婆の痙攣が止まった。死んだように動かない老婆の脇を目を閉じて走りすぎた。逃げる男の背を、誰かの声がひっぱたく。おおい、下の人、下にいる人。返事はしなかった。顔を伏せて後ろも見ずに走る。病院に戻ると、彼を探していたらしい伯父に捕まった。拳骨を食らったが、迷子になっていたと泣きながら言うと、それ以上追及されなかった。老婆がどうなったのかは知らない。少なくともニュースにはならなかった。
 もちろん男にそんな経験はない。男が生まれる前に祖母は他界している。叔母はいるが伯父はいない。彼女は男の話す夢を丁寧にメモし、几帳面に質問した。日がどちらの方向から差していたか。川の曲がり具合はどうだったか。山の形や駐車場の広さ、道路がコンクリートだったかアスファルトだったかなど、質問は多岐にわたった。明確に答えられることもあったが、記憶がもやもやしていて答えられないものも多かった。結局、いくらネットで検索しても夢の場所は見つからなかった。彼女は続けたがったが、そのころには病院の夢を見なくなっていた。見るのは彼女の夢だ。風呂上がりに髪を乾かすとき露わになる白いうなじ。喜ぶと自分の唇にそっと触れるくせ。頬を上気させて片手で胸を押さえ、男の目をのぞきこむように見つめてくる姿。記憶に焼きついた彼女が夢に出てくる。だから、場所を確認する彼女の質問には、もううまく答えられなかった。ずっと彼女と一緒にいられるはずだと思っていたが、そううまくはいかなかった。どうして別れなければならないのか、お互いに納得できないまま、それぞれ別の道を歩むことになった。
 それから何年も経ったある日、男は妹の子どもを連れて、母の見舞いに行った。山奥にある古い病院で、母は読書に勤しんでいた。本を読むのは、いくつもの人生を生きるのと同じだと母は言い、見舞いに訪れるたびに読んだ小説について話してくれた。その日もディケンズの「信号手」という短編の内容を詳しく教えてくれる。途中まで聞いて、どうにも既視感のあるストーリーであるのに気づいてそういうと、母はあっと言って笑った。どうして笑ってるんだい。よく考えたらね「信号手」はあんたの本棚にあったのを勝手に持ってきちゃったのよ。気づかなかったな。途中に栞が挟んであったから、たぶん読みかけだったのね。母は男の背後に目を向け、その目を泳がせた。ねえ、ケイくんはどこに行っちゃったの。男は周囲を見回した。甥の姿がどこにもない。病室の外を見る。黒いラインの伸びる古い廊下には、誰の姿もなかった。
 そのとき思い出したのは、遠い昔、彼女に話した夢だ。
 走って飛び出すと、廊下の角から甥の声がした。幼い声で離せよと毒づいている。手を引いているのは髪の長い女性のようだ。
「信じられる」女性は男の前まで来るとそう言って、唇に指で触れた。「ついに見つけたと思ったら、この子がいたの。自動販売機のあるところから外に出ようとしていた」
 男は彼女を見つめた。ディケンズが読みかけだったように、まだ続きがあったのかもしれない。終わったのではなく、栞を挟んでいただけなのかもしれない。
「ねえ」彼女が眉をひそめた。「何とか言いなさいよ」
「……何とかって言われてもさ」
「あるでしょ、何か。すごく感動的な再会の台詞とか」
 無茶言うなよと思いながら、男はゆっくりと口を開いた。


※どうやってこの作品を書いたのか裏話があります。こちらです。お時間などおありでしたら、お読みいただけると嬉しいです!

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