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【米国生活】Texas州Houstonでの2年3ヶ月の生活は、家族4人にとって最高の経験でした

1991年3月~1993年5月 Houstonに住んだきっかけ

 私は、米国に本社がある日本IBMという会社に就職しました。
 その理由は、21歳のとき米国ボーイスカウトの招待で2ヶ月米国で過ごし旅行できた体験が、アメリカ合衆国へのあこがれと感謝を残したからです。 詳しくは、下の記事に書いてますので、よろしければご覧ください。

米国赴任の目的

 1991年当時は日本経済が絶頂のGDP世界第2位、Japan as No.1と言われたころでした。 私の役割は、米国の南西部、Texas州を中心とする8州に進出した日本企業100余社への営業活動を支援することでした。
 米国での私のTitle(肩書)は、Manager, Japan Based Companies Marketingで、日系企業営業支援マネージャーと言ったところです。
 下の新聞は、日本IBMの社内報で、私の仕事が紹介された記事です。

日本IBMから米国IBMへ出向中の活動を、日本IBMの社内新聞に載せていただきました

なぜ日本人の駐在が必要?

 日系企業が海外いたるところに進出していた時代です。 多くの日系企業の海外法人のIT化は遅れており、以下の背景で各地に日本IBMからの駐在を求められていました。

  • 多くの現地日系企業のトップは日本人で、日本人的対応を求められる。 例えば、 グローバルな取引額に応じた割引対応など

  • 日系企業のトップはITにはうとく、英語が得意でない人も結構いた

  • IBMの現地社員(アメリカ人)はSONYは知っていても、三菱・住友と言った日本では大企業でも、知らない営業が多く、中小企業的な対応しかしてくれない。

  • 海外に進出している日系企業は、IBM社がグローバルに対応してくれる(だろう)という期待があり、日系コンピュータメーカーに比べ、IBMのShareは高かった

  • 日本IBMからの派遣は、日系企業が進出している北米・欧州・アジアだけでなく、ブラジルにも駐在しており、米国だけでも当時10名を超える日本人がIBMの営業として活動していました。 南西部(Texas)が最後の空白地であった

Houstonでの生活

 家族4人で2年3ヶ月赴任したHoustonは最高の生活でした。
 NASAジョンソン宇宙センターのあるHoustonは、人口230万人、全米第4の都市で、気候は亜熱帯で4月から9月が猛烈に蒸し暑いところです。 初めて飛行機でHouston空港に近づいたら、大都市なのに森のように緑がいっぱいだったことを覚えています。

HoustonのIBM社オフィス

仕事・オフィス

 HoustonのIBM社オフィスは22階建てビル2本の中、日本人は私だけ。
 上司は私を採用してくれたDave NelsonというSweden系アメリカ人で、私の裁量に任せてくれました。日系企業からのビジネスを取るという結果さえ出せば、全て任せると言うスタイルで、この環境は私を大きく成長させてくれました。
 私のお客さまである日系企業の社員は、昼は米国の仕事、夕方から日本の本社などとの電話会議など、両方にボスがいて苦労されていました。
 でも私は、土日はテニス、夏休みなど1-2週間有給休暇をいただき、家族旅行でいろんなところに行くことができました。
 赴任2年目には家族で日本に一時帰国が認められ、そのついでに世界一周旅行しました。 本当に最高でした。
 ご参考まで、ビジネスは100戦100勝でIBMのコンピューターを買っていただきました。

日常生活

Houstonの自宅(借家)家賃は電気代など含め1,350ドル/月
Houstonの自宅ガレージ
Houstonの自宅 裏庭
二女 小学2年生、わずか16名のクラス
7月4日の独立記念日は、住んでいる町内でパレードのイベントに参加
Houstonで有名な、NASA Johnson 宇宙センター

Texas州の季節行事

 Texasならではの行事は、2月のRodeo大会です。 アストロドームを借り切って数日間Rodeo大会が行われます。

 3月のAzalea trail (つつじ街道)は、亜熱帯のため3月上旬にきれいに咲きます。 日本のつつじは京都では5月ごろ満開ですよね。

 3月~4月に、私たち夫婦がメンバーになっているテニスクラブで、Virginia Slims テニス大会が開かれプロ選手に会うことができました。

日本に比べ祭日は少ないが、季節の行事が多くあり、年中なにかのEventがあるという印象です

3年の予定が、2年3ヶ月に!

 実は、予定より短く駐在が首になりました。 その理由は? IBMがまさかの創業以来初めての8000億円の赤字を出して、40%もの社員を依願退職させるという、たいへんなことになりました。

 でも、災い通じて福となす、です。 これを機会に、私は日本IBMに帰任するも、コンサルタント職になり、IBM自体のリエンジニアリングプロジェクトを担当することになったのです。 この話は、つづく、、、

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