グッタリする話

だいたい罪悪感で人付き合いをしている。というのも、健常人と俺との行動リズムやなんやかんやが合わんからで、どうにも気を遣わせるし気を遣うからだ。

人付き合いについて人に相談すると「自然体でいい」といういうな事をよく言われるが、休日に昼過ぎから突如として東京に行きたくなり名古屋駅で新幹線のチケットを買いホームまで行ってやっぱ眠いからやめとこうとチケット払い戻しを受けるというようなことを平気でやるのが俺の自然体である。試しにノー気遣いで女性と接したら速攻で嫌われてしまったことがある。だもんで自分のリズムというのはなんとも出しにくい。近年では脳がアレしてリズムを忘れてしまっていたような感じがあったが、段々と戻ってきつつある。良いんだか悪いんだかよくわからない。

健常なリズムに適応しようと努力したことはある。というより普通の社会生活を送ろうと思うと、意識せずとも自然とそういう努力をすることになってくる。休日に予定を立ててどっかに行き、用が済んだからといってサッサと帰るような事をせず、「せっかくだから」みたいな理由で待つ。しかし、そうしているとだんだん自分の予定に自分を従わせることの煩わしさを感じるようになってくる。例えば厳しく躾けされた子供にとって自由に振る舞う他の子供は攻撃と侮蔑の対象であるが、特になにも予定のない休日にプラプラしていると、そのような感覚が自分に向かうことになってくる。どうにも気に入らない。やはり一人でいる時は自然体が必要なのだ。

というわけで人付き合いが段々疎遠になってくる。そもそも携帯に出ないとかを普段からしょっちゅうやる。ガラケー時代は自分が使う時以外は電源を切っていた。基本的に他人に自分の位置を知られたくない性分があり、一人でウロチョロする時間がないと本当にグッタリしてくる。だもんでTwitterに自分の位置を知らせるようなことを書く時はわりと特別である。

そんな俺でも年に数回くらいは誰かを食事に誘うことがある。ところで「共感」とは自分の感覚を他者に適用して相手の心情を慮る事だが、誰かを誘うという段になると今まで上で述べたような事が全部跳ね返ってくることになる。ちゃんと受け答えできているかどうかが気になって仕方がない。失礼な事を言ってはいないか、そろそろ帰りたいのではないか、やっぱり自由な時間は必要だよな、ああ付き合わせてしまって申し訳ないな、でも俺は正直もう少し一緒にいたいな、どうしようか、もうちょっとお話したいって言わなきゃ伝わらないけど、言ったら煩わしいかな、ええい言ってしまおう、ああやっぱりやめておけば良かった、きっと疲れているだろうにな、ああ帰ろう、こういう感じになる。基本的に罪悪感で人付き合いをしている。

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