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『ラストナイト・イン・ソーホー』における「繋ぎ」の恐怖について

 エドガー・ライト監督作『ラストナイト・イン・ソーホー』に対する反応で、「性暴力の恐怖を煽るシーンがあることを事前に教えてほしかった」という意見が複数みられた。たしかに、本作に性暴力を描いたシーンは登場するが、それは主人公が観ている幻覚に過ぎないともいえる。他の映画でも似たようなシーンやもっとあからさまなレイプシーンは山ほどあるのに(例えば『ドラゴンタトゥーの女』や『怒り』)、何故本作の幻視的な暴力にとりわけ強い反応が現れるのか。『ラストナイト・イン・ソーホー』が、「繋げる」ことの恐怖についての映画だからだ。


 本作を観ていてまず感じたのは、編集が巧みな映画ということだった。Peter and Gordonの「A World Whithout Love(作曲はポール・マッカートニー)」の60年代的な8ビートに乗せて、トーマシン・マッケンジー演じるエロイーズが自室で踊る冒頭のシーン。ニュースペーパー柄のワンピースを着た彼女の体の動きに合わせて、正面から、横から、あるいは見上げ気味に撮られたショットが小気味よく連動して、『ティファニーで朝食を』のポスターやレコード・プレイヤーといった、後の展開を暗示するアイテムが少しずつスクリーンに映し出される。ショットの繋ぎの心地よさとモチーフの提示のリズムに、観る者はまず感心させられる。


 エドガー・ライトはポップソングの使い方に定評のある映画作家だが、本作でも60年代英国のポップソング、それもロックンロール・バンド以上にシラ・ブラックやサンディ・ショウといったアイドル的歌手の楽曲(それは暗く強迫的な歌だったりする)を使って、スウィンギン・ロンドンの光と闇の交錯という本作の主題を音楽の文脈で納得させている。複数の楽曲を通して一つの文脈を作り出す、DJ的な繋ぎの技術が感じられる。物語展開だけとると本作は凡庸で安っぽいサスペンスでしかなくて、「最初の頃の『名探偵コナン』に似たような話があったよな」とか思ったりもしたのだが、編集と文脈の繋ぎによって、気品を帯びた映画に仕上がっている。つまり、エドガー・ライトは映像の編集においても音楽の選曲においても、なにより「繋ぎ」の作家なのだ。


 前述の通り本作は60年代英国を一つの主題としてるが、舞台設定は現代のロンドンだ。当時の英国カルチャーに憧れる田舎(コーンウォール)の女の子がロンドンに出てきて、60年代の闇に飲まれた幽霊に取り憑かれてしまう、というのがおおまかなあらすじ。ここで重要なのは、主人公エロイーズの受ける受難が、彼女の「繋げる」能力の高さに由来していることだ。

 エロイーズはもともと第六感が強く、鏡に自殺した母の姿を認めてしまう霊視能力の持ち主として設定されている。故に、ロンドンで住まうことになった屋根裏部屋で、60年代の女性の霊を視てしまう。その幽霊、サンディと名乗る女性(アニャ・テイラー=ジョイが演じる)のファッショナブルで野心的な姿に、エロイーズは強く憧れることになる。しかし、やがて彼女が男に食い物にされた犠牲者であることが明らかになっていき、エロイーズの精神は失調していく。エロイーズはサンディと自分を同一化させていく(服も髪型もサンディに近づけていく)のだが、その同一化によって、実は真実を誤認していたことが後半で明らかになる。スウィンギン・ロンドンの象徴たるサンディと自身を一つに繋げることで、自らを悪夢に引き込んでいくのだ。エロイーズは「繋げる」能力が高い故に、着る人を的確にイメージする服を作ることができ、ファッションの才能を開花させていく。それと引き換えにというべきか、不幸な人生を送った幽霊とも深く繋がり、ひどい苦しみにみまわれる。顔のない男性から襲われる恐怖を、何度も味わうことになる。

 エロイーズの「繋げる」能力の高さは、本作の作家が発揮した「繋ぎ」の能力の高さと関わっている。「繋げる」というのは、ポジティブな能力として認められてきた。音や映像を繋げる、服の生地を繋げる、あるいは他人と自身を繋げる。そうした能力は、アートやエンターテイメントの業界でおそらく必須になるであろうし、一般的な社会生活全般でもしばし求められるだろう。「繋げる」能力なしに、なにかを生むことはできないし、他人同士が共感して親しみ合うこともできない。
 本作が示しているのは、「繋げる」才能が、時に繋いではいけないものを繋いでしまうことの恐怖だ。多かれ少なかれ人は、あらゆるものを繋いでしまう性向を持っている。関係ないものも、関係のあるものと信じてしまう。それによって、他者も自身も傷つけてしまう。60年代と今を一緒にしてしまう。他人の痛みを自分の痛みだと感じてしまう。「繋げる」力はその人自身を苦しめ、時には望まない死へと追いやるだろう。「繋ぎ」の作家であるエドガー・ライトは、その恐怖を身をもって感知している。 

 『ラストナイト・イン・ソーホー』という映画は、ジャンルとしてのホラー映画のような恐怖喚起を目的に作られてはいない。それでも、観る者に強いショックを与え、観終わったあとでもどこか怖れに似た感覚を引きずってしまうのは、物語で描かれた「繋ぎ」の恐怖を、映画全体の構造と形式における「繋ぎ」が体現しているからだ。

 この文章も、いくつもの「繋ぎ」を行っている。間違った「繋ぎ」も多く含まれているだろう。私に今言えるのは、間違った「繋ぎ」がどんなに恐ろしいものとわかっていても、人は新しい「繋ぎ」を生み続ける中でしか生きていけないということだけだ。

※おまけ(本稿は以上ですが、以下はちょっとした短文です。もし面白いと感じたなら、投げ銭がてら読んでみてください)

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