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『距ててて』にとっての成長について

 一見、四つの話のオムニバスに思える。二人の女の子が不思議な体験をするショートストーリーの集積。その構造だけ取ればエリック・ロメール監督の『レネットとミラベル/四つの冒険』(めちゃ好き!)に近しいが、やはり感触は違う。オムニバスの断片的な魅力以上に、成長譚としての力動に導かれた映画だと思う。

 『距ててて』(へだててて)という奇妙な名を有するこの映画は、加藤紗希と豊島晴香の創作ユニット「点と」が中心となって制作された。加藤が監督、豊島が脚本を担当、ともに主役として出演している。2021年9月に開催された<ぴあフィルムフェスティバル>(以下PFF)で観客賞を受賞し、第15回 田辺・弁慶映画祭、第22回TAMA NEW WAVEで入選を果たした。5月14日からポレポレ東中野で一般公開されている(本日が最終日とのこと)。

 民家で二人暮らしのルームメイト、アコ(加藤)とサン(豊島)がどのような人物か、どういう生活を送っているのか、しばらくは見えてこない。突然訪問してきた不動産会社のセールスの新人(釜口啓太)とのやりとりを見ていると、どうやらアコが常識を重んじるタイプで、サンが一切のルールやしきたりを無視する人間に思える。実際、第一話はサンのペースに乗せられて即席の楽団が部屋の中で形成されていく話であり、サンが主導になって話を駆動しているように感じられる。

 しかし、第二話になると、サンは会社の先輩の家で、先輩(神田朱未)とその恋人(高羽快)との奇妙な関係に戸惑い続ける。長回し気味にとられた食卓の様子は、奇妙さに馴染めない人間としてのサンを浮上させる。俗な用語を使ってしまうと、1話ではサンがボケ役だったのに対し、2話ではツッコミ役を担っている(いわゆるツッコミはしないが、彼女の戸惑いが観客にとって基準として機能しているという意味でツッコミ役だ)。

 一方、常識人としてサンの世話をしているようにみえたアコも、実は家賃をサンに肩代わりさせており、経済的に依存していることが中盤以降判明する。アコは写真家を目指しており、しかし全く稼ぎにはなっていない。にもかかわらず、アコは夢見がちなヴィジョンをサンに強弁する。この時は、言い訳がましいことをまくしたてるアコがボケ役で、サンがツッコミ役となっている。

 二人の関係性は固定されていない。ただ、能天気に不可思議に非現実的に存在しているようにも見えた二人が、実際は切実な感情や問題を抱いた人間として生きていることが次第にわかってくる。二人はフィクショナルなキャラクターというより、現実を生きる私達に近い、生真面目さと狡さを併せ持った人間として表出されていく。4話で喧嘩するときに、はじめて二人は切り返しで映される。その時、アコとサンが切実さを抱えて対峙している人間であることを、観客は直観する。

 映画の構成自体も、無法図なオムニバスではない。冒頭の、昼間の電車に揺られる二人が席を空けて座っているショットは、最後の第4話で再度現れる。最後の話に向けられて、映画の時間が律義に構築されていることが後半にわかるのだ。そしてこの時の二人の距離が、『距ててて』という題名にちゃんと繋がっている。構成の生真面目さが、二人の人物の生真面目さと呼応している。

 この映画の面白さは、二人の登場人物と映画の構成の生真面目さが露わになればなるほど、生起する出来事は現実的なルールを失うところにある。3話に出てくるニット帽をかぶった女の子、ふうちゃん(本庄澪)は、表情を顔に出さず、淡々とアコに話しかける。ひょんなことから二人の民家にやってきて、縁側の境界線をあっさり越えていくふうちゃんは、現実と幻想のラインも軽々と越える。ふうちゃんがどういう存在だったのかは結局のところわからないが、「この世のものではない」という実感を、彼女の目と声は投げかける。

 そして最後の4話では、喧嘩をしたあと、紆余曲折を経て山登りすることになったアコとサンの二人が、山の中でありえない現象に巻き込まれる。上映で確かめてほしいので詳細は省くが、その際の映像は、物の多い民家の部屋を映すときの生真面目な狭さとは、対照的な拡がりを獲得している。映画の中に、現実の「ありえる」重さと狭さが侵入してきたタイミングで、急にすべてが「ありえない」軽さと拡がりに取って代わるのだ。この緩急によって、二人の主人公を取り巻く重苦しい空気は、別のなにかに変わっている。映画自体の空気も、構成の生真面目さを最後の映像演出が裏切り、別のなにかに変わっている。この二重の変化こそが、本作を煌めかせる力だろう。

(4話の荒唐無稽で解放的な出来事は、アコがおじいちゃんから受け取ったという石を巡って展開していく。この石を、3話でふうちゃんがじっと見つめていた。4話の出来事の不可思議さは、ふうちゃんの不可思議さと繋がっているように私には見えた。ふうちゃんと石が、変化の媒体として機能している。)

 はじめに「成長譚」と書いたが、それは人が努力して何かを変えるということを意味しない。主人公の二人は不思議な出来事に巻き込まれて、別の状態へと変化した。それは、本人たちの頑張りや努力という言葉に紐付いた因果律とは全く関係ない。人は変化の媒体に出会い、その媒体を受け入れることでしか変わらない。成長とは、所詮その程度のものに過ぎない。『距ててて』という映画は、この「所詮その程度」を煌めき輝かせるために、繰り返しスクリーンに映される。

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