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音楽は「楽しく」ない -渋滞と無感覚-


1.

 私にとっての「音楽」について書いてみる。もしかしたら特殊な事例かもしれないが、何らかの参考になる気がするので公表する。


「音楽は「音を楽しむ」と書く。だから楽しいものだ」みたいな言葉をみると、沸騰的に苛立つことがある。まず、熟語漢字を一文字ごとに意味で解釈する仕草への違和感がある。「最幸」のような当て字の不気味さに近い感覚かもしれない。ただ、それ以上に、自分にとって音楽は「楽しい」だけでなく、つらく険しい体験を伴うものでもあるから苛立つ。もちろん「楽しい」が間違っているわけではないのだが、その言葉一つで割り切れるものでもない。

音源を聴く場合でも、ライヴ・コンサートでの演奏を目前とする場合にしても、あるいはクラブで踊る場合でも、「楽しい」と思うことはかなり少ない。少なくとも、肉体的な快楽とは別のものだと感じる。空腹のときにご飯を食べたり、心地よい気温と湿度の中で散歩したり、疲れているときにマッサージを受けたりするときの、肉体に紐づいた快楽とは異なる。むしろ、音楽を聴くと疲弊することが多い。なぜそういう事態が生じるのか、音楽とは(今の私にとっては)何なのかを考えながら、この文章を産み落としている。


2.

時に音楽と呼ばれる表現形式の呼び方には、名前自体に肯定的なニュアンスが含まれているように思う。演劇や小説の制作に関わる人が「音楽」という言葉に、「表現の純粋な歓び」の意味を込めているのを見聞きしたことがある。物語や言葉のような人工的な構築物を間に挟まない自然な表現形態として、音楽は称揚される。音楽が人工性を挟まない?本当だろうか?

動物、人間以外の哺乳類は音楽を好まないという話を耳にしたことがある。猫は、家で音楽をかけると嫌がる。そういう報告を、複数の人から聞いている。人間以外の動物は音楽をやらないとすれば、音楽の演奏や聴取は、食事や性交のような野生の行動ではない。音楽は、動物的な嗜みではない。人工的な構築物と捉えた方がいい。

憶測の域を出ないが、音楽はノイズを一つの構造物の中に取り込むことで、今世で言われている「音楽」になったのだと思える。ベートーヴェンの楽曲は、「こんな喧しいものは音楽ではない」と発表当時批評された。ストラヴィンスキーの「春の祭典」の初演は、大ブーイングを浴びた。ビートルズの登場は、けしからん雑音のように扱われた。ベートーヴェンもストラヴィンスキーもビートルズも、今聴いてノイジーだとは全く思わない。むしろ、一つの古典的規範と思われている。中学生の頃にセックスピストルズを初めて聞いたときは、ウェルメイドなロックソングだったことに(つまり、うるさくなかったことに)衝撃を受けた。メルツバウやスロッビング・グリッスルはうるさいとは感じるが、「ノイズ・ミュージック」という枠内で受け入れることができる。メロディ要素のきわめて薄い、トラップに乗ったラップ・ソングが「音楽ではない」とは思わない。あらゆるノイズは、やがては「音楽」に取り込まれていく。西洋音楽をさかのぼれば、ドレミの音階から外れた音が楽曲に取り込まれた時も、1度と5度のハーモニーに3度の音が加わった時も、それは最初「ノイジー」で「音楽ではない」と感じられたのではないか。人間は、あらゆる音要素を構造化し、認識することで、「ノイズ」を「音楽」に変換しつづけた。対して、数百年・数千年に及ぶ変換作業とは無縁の動物たちには、音楽は「ノイズ」として感受され続ける。

人間は、枠と構造が与えられると、なぜか「ノイズ」から「音楽」を取り出してしまう。そうした人間の傾向を明からさまにした楽曲が、名高い「4分33秒」だといえる。「4分33秒」には、ほぼ指示書と言ってしまいたくなるような楽譜があり、楽譜と演奏記録と録音物の存在、あるいは曲名を付けられることで、ジョン・ケージの作曲した「音楽」として認知されている。音楽を取り出すための枠は、言葉や楽譜や録音物によって与えられる。音楽という装置は、言葉と同じくらいの人工物に、私には思える。これはほとんど勘でいうが、音楽は、言葉や物語より人工的ではないのか。

では、口承で伝えられた音文化はどうなのか。西洋音楽のように音の高さを平均律として規定化して、メロディの組み合わせによって楽曲として成立させてきた文化とは異なる文化はどうなるのか。細かいメロディ変化を持たない、リズムを組み立てる音楽はどうなるのか。そうした非-西洋音楽として捉えられる文化に対しても、原初性を夢見る頃はもう過ぎているように思える。実感として、それが録音物として聞かれたら、人工的な「音楽」の枠内にある。まぁこのあたりは考えをまとめてないし、例外的な実例もあるかもしれない。ただ、音楽を自然な歓びだと考えるのは、やはり違和感がある。


3.

人工物だとしても、楽しければ問題ないだろう。確かにそうだ。人工的だからこそ、文脈や歴史や楽曲構造を伝えることで、より楽しむことができる。音楽メディアや批評や、そうした情報の伝達によって、役に立っている(私が運営の一人であるYouTubu chてけしゅん音楽情報は、文脈の伝達に特化している)。

これは個人的な、他の人とは共有されえない感覚かもしれないが、私には「音楽」がむしろ気持ちの悪い「ノイズ」に思えることがある。ノイズが音楽になる流れとは逆に、音楽がノイズに反転しているのだ。虫の声や電車の走行音、蛍光灯から聞こえるジリジリした響きの方が、音楽をスピーカーやイヤフォンで聴くよりも心地よくて安心する。音楽以外の音は楽しい。これは私が音楽批評を始めたことと関係なく、その前から起きていた現象だ。高校性くらいでは、もうその感覚が芽生えていたように思う。意識しだしたのは、ストリーミングサービスが一般化したころだろうか。「音楽」は、とても疲れる。「音楽は楽しい」なんて嘘だ。

とはいえ、音楽を聴いて、楽しい、気持ちいい、グッとくるという感情になることも多々ある。たくさんある。音楽の「歓び」と音楽の「疲れ」は、同時発生している。普段音楽について言葉を使うときは、「歓び」の側からアプローチしている。批評は多くの場合、個々の作品や作家について語ることになる。「歓び」は個々の作品・作家ごとに違うものだ。「疲れ」は、どの作品に対しても同じように発生する。いや、実際のところ「疲れ」のフィーリングは時々で異なるのだが、それは作品の質が原因というより、聴き手側(私)の体調や環境によるものだ。だから普段は作品ごとの差異を表すために「歓び」について語ることになるのだが、そうすると「疲れ」は言葉から無視されることになる。「歓び」と「疲れ」のバランスが悪くなったために、今この文章を書いているのもある。


4.

音楽の疲れの原因を考える。実は、疲れない音楽もある。ドラムのような打音のない、変化の薄いアンビエントミュージックがそれだ。特に、誰が作ったかもわからない、もしかしたらAIが作曲したかもしれない、ストリーミングサービスで聴けるアンビエントが疲れない。クオリティの高低は問わない。安っぽい音でも、心地よいと思ったりする。

このことから推察できるのは、「疲れ」を生むのは「作家性」ではないか、ということだ。音楽には作家がいて、作家の個性が作品には反映されている。ということになっている。だからAI作曲に関して議論が発生するわけだが、私は「作家性」を感じ取ると、疲れを感じるようだ。この疲れは、映画を観る、小説や漫画を読むときには感じない。作家がいて、作品があるとみなされる分野においても、音楽以外では「作家性」への疲れは覚えないようだ。


より個人的な話をすると、私は寝ているとき以外ずっと頭の中に言葉が流れている。みんなそうだと思っていたのだが、他人と交わることが多くなるうちに、どうやらそうでもなさそうだと気づいた。頭の中で、自分のような自分ではない誰かのような存在が、しゃべり続けている。そんな感覚がある。それ自体に関しては、苦痛でもなんでもない。その状態が当たり前なので、つらいかどうかもよくわからない。トークイベントで8時間ぶっ続けで話したことがあって、「よく疲れずしゃべれますね」と言われたりしたが、まったく苦ではない。頭の中に溢れている言葉や思考を外に出せるから、むしろ体が楽になる。

頭の中で誰かがしゃべっている状態は音楽を聴く間もずっと続いていて、そうした言葉のフロウが集中聴取を遮ってくる。ゆらゆら帝国の歌詞をもじれば、「頭の中で爆音で言葉が流れているから音楽なんて聞こえねえよ」という状態になる。いや、もちろん音楽は聞こえる。聞こえるのだが、頭に流れている思考と、音楽の聴取から芽生える思考が、二重に流れていて、渋滞する。劇映画や漫画なら平気なのは、物語は言葉と同化してくれて、思考の通路に隙間ができるからだと思う。作家性の強い音楽は、「この音を聞いてくれ、リアクションを返してくれ、あんたの言葉を出してくれ」と主張しているように私には感受される。作品の質は問わない。というか、世で聞かれる多くの音楽は、聴いてもらえるよう創意工夫を凝らしており、高いクオリティを保っている。クオリティが高ければ高いほど、「この音楽に言葉を与えてくれ」と主張する声が大きく響く。言葉の強い音楽であれば、まだ楽に聴ける気もする(言葉の使い方に耐えられない音楽もあるが)。だが、強い主張を持つことに変わりはない。作家の努力に見合うよう、私は言葉を駆使しようとする。そうした作業は、頭の中の渋滞を伴っており、決して心地よい状態ではない。

というわけで、人工的で作家性の強い音楽(世に出ている多くの音楽が当てはまる)の聴取は、「楽しさ」とはかけ離れた、負荷のかかる険しい作業になる。

具体的な例を一つ。7月21日の夜、ブルーノート東京でトランぺッター、アンブローズ・アキンムシーレのライヴを観た。ブルーノートの余裕のある座席でディナーを食しながらのライヴは環境としてこれ以上ないほど快適で、ライヴのクオリティも申し分なかった。トランペット、ピアノ、ウッドベース、ドラムスのカルテットの演奏は、ただじっと聴いているだけではわからない複雑なリズムとメロディを有している。3曲目でベースとドラムが同時にテンポをズレなく加速させた時には驚いた。BPMの加速を複数の演奏家が合わせられるなんてすごい技術である。トランペットの音も、ピアノの音も、優雅だか苦い風味を漂わせているように感受され、味わい深いものとして想像される。スピーカーから鳴らされる音も力強い。本当にクールなライヴだ。メッセージや物語に還元されえない即興に興じる四人の姿は、神々のようだ。

しかし、およそ完璧に近しいパフォーマンスでも、私は演奏中「気持ちいい」とは思わない。「すごいことをやっている」と感知して驚嘆しつつ、頭の中では言葉の渋滞と付き合っている。その体験も「楽しい」とはいえるかもしれないが、「快楽的」や「気持ちいい」とはやはり異なるのだ。


5.

こうした渋滞体験は、ストリーミングサービスが広がって苦痛を強めた。作品としての音楽が、限りないほどたくさん聴くことができる。今までなかなか手に入れられなかった作品を、相当の安価で聴くことができる。夢のような事態だ!好奇心はあるから、なるべく沢山の曲・アルバムを聴いた。次第に、無感覚になっている自分に気づいた。今考えてみれば、作家のエゴの詰まった作品をたくさん聴いて頭をどんどん渋滞にさせるのだから、疲れて無感覚になるのは道理だ。当時は、無感覚になっているのには気づいていたが、原因を推測することはなかった。ただ、疲れたと思ったら聴くのを少しやめて、また再開するという感じだった。

もしかしたら、私が音楽家を10代から20代にかけて目指していたことが、音楽における疲労や無感覚と関係あるかもしれない。先日、佐々木敦さんの還暦イベントをDOMMUNEで行ったときに私が総合司会をしたのだが、その中で「佐々木さんは音楽に対しては歓びベースで触れているが、映画に対しては憎しみがある」という話をした。佐々木さんは若い時に映画作家を目指していたから、その分愛憎入り混じるところがあると認めていた。私は佐々木さんと逆で、音楽家を目指していた。映画は無邪気に楽しめるが、音楽に対しては憎しみに近い気持ちを抱いている。おそらく、10代の私は音楽と言葉の関係に惹かれたのであり、音にフォーカスして聴くという感覚は後で身に着けた。その中で、音とのかかわりにつかれるようになった。私が音楽活動を中止したのは、創作と練習の楽しみより、徒労感が上回ったからだ。10代から20代の自分に起きたことがなんだったのかは、記憶が曖昧になっている部分がありうまく説明がつかない。おおまかにいうと以上の通りだが、細部が抜け落ちており、言い落としや嘘の説明を多分に含んでいる気がする。


6.

音楽に対する渋滞感や無感覚や徒労感の原因やきっかけが、上の言葉で言い当てているかわからない。思考の流れるままに、ざっくりと論理を組み立てただけだ。もっと単純に、音楽を聴きすぎて疲れているだけ、とも言える。まぁあたりを付けて、距離感を変化させたり試行錯誤したりしながら、程よい距離を組み立てるしかないだろう。音楽を聴かなければいいじゃないかと思われるかもしれないが、そう簡単にはいかない。仕事の一部を成しているし、仕事にしなくても、音楽と私の付き合いは長い。友人や恋人と決別するのが難しいように、音楽と別れるのも困難だ。なにより、私にとって音楽は心地よい、楽しい体験ではないが、音楽が好きだと言わざるを得ない。
今のところ、具体的に言えば、

・アルバム単位では1日一枚しか聞かない、曲単位では5曲までしか聞かない。ただし、同じ作品は何回聴いてもいい。(既に、映画は一日一本を限度にしている)。

・発表するプレッシャーを持たず、誰にも聞かせることなく演奏・PCでの作曲・ミキシングを行ってみる。創作行為に、聴取体験を移してみる。

・イヤフォンは耳の負担が大きいので、できる限りスピーカーで聴く。イヤフォンはポッドキャストなど、音楽以外のコンテンツ用。


あたりのルールを適応する。トライアルのなかで、音楽との付き合いを続ける。上のルールに則り、音楽批評の作業にも支障をきたさないよう、スケジュールを調整する。

頭の中の言葉を吐き出して、少し気が楽になった。

本当の本当のことを言えば、音楽はやはり楽しいもので、楽しくないものに思わせる時代と環境が間違っているのだろう。

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