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墨子...と脱線して思想の話。

大学での授業が始まって一週間。必修科目の一つで、今週は2コマを費やして『墨子』の思想を扱った。使用した教科書は "Readings in Classical Chinese Philosophy"。著者はPhilip J. Ivanhoe, Bryan W. Van Nordenの2人。

私の担当教授は Professor Van Norden。名前を見て一瞬で察してしまったが、この本の著者である。古代中国の思想家について研究し、アジア1位の大学で教科書に指定されるくらいの本を出版した人だ。こんなありがたい話はないだろう。大げさかもしれないが、細胞生物学の講義を山中教授に受け持っていただくくらい恐れ多いことだと個人的には感じている。幸いなことに彼の授業も知的示唆に富んでいて気づきが多い。今週『墨子』の思想を学んで知った概念、忘れたくないなと思ったことを、色々な所に寄り道しながら振り返っていきたい。

政府の成り立ちについて墨子はこう述べる。

In ancient times, when people first came into being and before there were governments or laws, each person followed their own norm for deciding what was right and wrong...(中略)...so they naturally condemned each other's norms. 
Those who understood the nature of this chaos saw that it arose from a lack of rules and leaders and so they chose the best person among the most worthy and capable in the world and established him as the Son of Heaven. 

『古代の時代、人々は各自それぞれの価値観や判断基準を持っていて、それらの反目により混沌としていた。賢者がそれを憂い、世の中から最も優れたものを選び出して天子とした。』

という感じだ。ここから天子をトップとした階級社会が敷かれていくわけだが、ここで私はちょっとした疑問を覚えた。

「人々が自らの規範に従って行動すると混沌が現れるのなら、墨子は性悪説を信じていたのだろうか?なぜなら人がみな生まれつき善であるのなら彼らは共に尊重しあい、秩序も保たれるのではないか?」

教授にこれを質問したところ、平易な例と共に私の勘違いを正された。

「墨子は性善説、性悪説については何も言及していない。墨子がこの文章について言わんとしていることは、混沌は人々が互いに悪意を持って反目しあうことにより発生するのではなく、各自の『義』が食い違うことにより発生する、ということなのだ。」

「例としてアメリカ大陸に開拓者として乗り込んだヨーロッパ人の例を挙げよう。」

「当時の開拓者たちはネイティブアメリカン達と親交を結び、彼らを自分たちの船へと招待した。ここで『義』のすれ違いが起こる。」

「当時のネイティブアメリカンの社会では、隣人と所有物を共有するのが常識であり、『義』だった。故に彼らは開拓者たちの船にあった道具を罪の意識なくして数点持ち帰る。対する開拓者たちの『義』は、他人に奪われた自らの所有物は相手を殺してでも取り返せ、というものだった。所有物の紛失に気付いた開拓者たちは彼らの『義』と共にネイティブアメリカンのもとへ盛り込み、彼らを殺してしまう。」

「ここではどちらかが悪意と共に混沌を作り出したわけではなく、互いが互いの『義』に従っただけなのだ。」

墨子は、人々が共通の規範を持ち、反目せずに居られるように天子をもとにした社会を作り出した、と論じたわけだ。

話は逸れるが、この下級臣民にモノを考えさせない姿勢は、彼の民衆に対する教育の軽視を感じさせるものもある。

但し君主が絶対に正義と限らないのは墨子も認めている。"Sage Kings"と呼ばれる歴史上の賢王たちを模範として政治を行うべきだと説くのが墨子の基本姿勢。賢王はおそらく始皇帝や代宗を指すもののようだ。

ここから墨子は君主がどういった人物を登用すべきなのかという議論を展開させていくが、特に深めるような内容でもないのでカットする。簡潔に言ってしまえば、有能で正義を持つ人間を登用せよ、さすれば国は平和に保たれる。ということである。これが墨子の思想の一つ「尚賢」だ。

墨子は国を豊かに発展させることが君主と臣下の務めであると説く。彼が特に重視するのは、Wealth(富)、Populousness(人口の増加)、Social Order(社会秩序)の三つだ。逆に言えばこれらが臣下が君主を評価する指標にもなる。

これらの指標を国民個人の豊かさよりも優先するのが、Mohism、墨家の思想だ。Mohismは思想の分類上Consequentialism(帰結主義)の一つに数えられている。帰結主義とは、物事の善し悪しを判断する際に、その行為がもたらした結果を考慮に入れる思想のことである。

Mohismは、その行為が富、人口の増加、社会秩序のいずれかに利するのであれば、その行為は正当化されると唱える。

面白いのが、西洋で発展したもう一つの帰結主義、Utilitarianism(功利主義)だ功利主義はMohismと違い、Pleasure(喜び)、Happiness(幸福)などの非常に主観的なモノを指標とする。17世紀イギリスの哲学者、Jeremy Benthamのこの言葉は、功利主義を最も簡潔に表しているいるといえる。

It is the greatest happiness of the greatest number that is the measure of right and wrong.

最大多数の最大幸福、それが功利主義の原点だ。

例として挙げるには多少抵抗を覚えるが、一番分かり易い例が第二次世界大戦中のアメリカ軍による広島と長崎への原子爆弾投下だ。軍部の投下判断はまさしく功利主義に基づいたものであり、原爆の投下が自軍のみならず将来の日本軍を多数救うという判断によって為されたものである。

当時の合衆国大統領、トルーマンは後にオックスフォード大学から名誉学位を授与されるが、その際に猛抗議を行ったのがイギリスの哲学者 Gertrude Elizabeth Margaret Anscombeである。

Anscombeは帰結主義を完成させた哲学者でありながら、Deontologistでもあった。Deontology(義務論)とはカントの唱えた道徳論であり、言ってしまえば帰結主義と対を為すものである。

The morality of an action should be based on whether that action itself is right or wrong under a series of rules, rather than based on the consequences of the action.

為した行為の善し悪しは、行為の結果に関わらず決定されるべきである。

Anscombeはこの思想をもとにトルーマンの名誉学位授与に抗議を行ったわけだ。

この思想同士の入り乱れ、原爆問題に限ればDeontologyが正しいかに思えるが、もっと日常生活にまで落としこめばそう悠長なことは言っていられないこともわかる。

最たる例が「相手を想って吐く嘘」であろう。定年退職する親に海外旅行をプレゼントする為に貯金をするが、親にはそれを自らの結婚資金と偽る―そんな嘘は、Deontologyの名によって否定されてしまうのか。

自らの思想をもう一度振り返り、社会の中での立ち位置を再確認しておくのも手かもしれない。

こんなところで終わっておく。本当はもう少し墨子について突っ込んだ議論も行われたのだが、それも書き出すとキリがないので私が面白かったところだけ書き記した。

最後に断っておきたいのだが、これは個人の感想であり、一生徒が綴ったものにすぎない。墨子の思想も更に多様な捉え方はあるし、私の書いていることに異議を唱えたい方もおられるだろう。ただ ー 私は専門家ではないので書き記したことについての責任は負いかねるとだけ言っておきたい。

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