見出し画像

「恥ずかしい・・・」の正体について考えてみた

突然ですが・・・

突然なのですが、私はとても「恥ずかしがり屋」な人間です。

それはまあ、当然、太陽月乙女座でズレが1度以内のコンジャンクションでゴリゴリの乙女座だから「恥ずかしい」と思うのは当然なのですが、ついでに言うと度・・・

と言うのは冗談にして、話を戻します。

人に会うのはとても緊張して、全く話すことができなくなります。
自分から話しかけるなんてことはまずできません。

最近では幸いなことに「オーラの人」として覚えてもらえる機会ができてきましたが、「オーラの人」と紹介されることが恥ずかしかったりします。

普通に人前で失敗したり、変なこと言ってしまったり、ウケると思った言葉がスベれば恥ずかしいです。

そう、失敗をすると恥ずかしい。ミスったと思うと恥ずかしい。
ミスをするかもと思うと恥ずかしい。

私にとって、これは普通のことだと思うのです。

でも、私がそれ以上に「恥ずかしい」と思うことがあったのです。

得意なことなのに、的確なことを言ったのに、恥ずかしい・・・

先ほども言った通り、「オーラの人」という紹介をしてもらえることに恥ずかしさを感じる。

また、仕事で改善の提案をしたり、効率化できるツールを作って提案した時も恥ずかしさを感じました。

これはよくよく考えるととても変なことなのです。

私にとって恥ずかしさは

「自分の実力が想定よりも劣っていたという事実が、他人の前で証明された結果として湧き上がる感情」

だと思ってきました。

しかし、オーラを見るという行為については、客観的に見ても、評価をできるモノと言って良いです。(当社比)

会社での改善案についても、「その考えはなかった」という言葉を聞いたり、ツールの導入によって、効率化しました。

それなのに、恥ずかしいのです。
それは提案をする時も当然ですが、結果が証明された後の賞賛される時もです。

これでは私の中の「恥ずかしさ」の定義には当てはまりません。

自分の実力が想定よりも劣っていた
➡︎ NO(想定通り。もしくは以上)

劣っていたという事実が他人の前で証明された
➡︎ NO(他人の前で優れていたことが証明された)

つまり、恥ずかしいという感情は人前で実力不足が露呈したという事実から生まれることではないことがわかったのです。

「恥ずかしい」を解体してみる

そこでまず、「恥ずかしい」の発生場面を掘り起こし、発生源を+とーで分類してみました。

+ 評価された、もしくは褒められたにも関わらず恥ずかしかった場面
ー ミス等で評価が下がったことで恥ずかしかった場面

+の場面
・ツールを導入して評価されて人前で褒められた時
・改善案や方法について提案をした時
・オーラを見て思うことを伝え、相手の気づきや発見を引き出せた時
・オーラで何かを伝えたときに「すごいですね!」「怖い!」と言われた時

ーの場面
・自分の知っていることが全然間違っていることだと知った時
・自分が部下に出した指示が上司によって上書きされた時

そして、これらの例を出した後で恥を特に感じる強度の大小について考えてみました。

【大】
・ツールを導入して評価されて人前で褒められた時(+)
・改善案や方法について提案をした時(+)
・オーラを見て思うことを伝え、相手の気づきや発見を引き出せた時(+)
・オーラで何かを伝えたときに「すごいですね!」「怖い!」と言われた時(+)
・自分の知っていることが全然間違っていることだと知った時(ー)
・自分が部下に出した指示が上司によって上書きされた時(ー)
【小】

すると、+の場面の方がはるかに大きく「恥ずかしい」という感情を感じることに気づきました。

+の時に感じる感想とーの時に感じる感想は何か?

次に自分が恥ずかしさを感じた場面での感想について掘り起こしてみました。

+の場面
・ツールを導入して評価されて人前で褒められた時
➡︎全然大したことじゃないからそんなに持ち上げないでほしい。
・改善案や方法について提案をした時
➡︎ただの自分の感想や感じたことだから全然気にしないでほしい。
・オーラを見て思うことを伝え、相手の気づきや発見を引き出せた時
➡︎自分の言葉なんか大したことないのに、申し訳ない。
・オーラで何かを伝えたときに「すごいですね!」「怖い!」と言われた時
➡︎自分なんてそんなすごくなんてない、なんか申し訳ない

ーの場面
・自分の知っていることが全然間違っていることだと知った時
➡︎うわ、自分やっぱり大したことないな。でも人間だしミスることもあるよね
・自分が部下に出した指示が上司によって上書きされた時
➡︎まあ、自分の指示だしな。次修正すればいいや。

こんな感じです。

そして、この時、あることに気づきました。

恥ずかしさは○○と○○の距離の差?

あることとは、恥ずかしさとは「自己認識している自分と外部評価との距離の差」ではないかということです。

人には無意識に「自分はこういう人間だ」と思い込んでいる自分がいます。

例えば、

「私はダメな人間だ」
「私は運が良い人間だ」
「私は人見知りだ」
「私は世界を変える人間だ」

などなど

自分が考えてもいない、自分への認識があります。

そして、その認識は幼少期から積み上げた煉瓦のようなモノであり、
現状の自分からは大きく離れてしまっているケースが往々にしてあります。

その乖離が引き起こすものが「恥ずかしさ」という感情なのではないかということです。

つまり、

「恥ずかしさ」は
心の奥底で基盤になっている自分の常識と
外側からの評価に大きな差があり、

それが現実で明らかになった時に
発生する感情なのではないかということです。


先ほどの私の場面を例にすると

私は私という人間を
・大したことでもない
・他の人と少し変わっている(劣っているくらい)
・特徴はあっても長所はない
という認識をしていることがわかります。

つまり、この時点では私の私に対する評価はーです。

そして、オーラを見ることや改善提案をした時は当然+方向に評価されました。

逆にミスをした時の恥ずかしさはーになります。
そして、そのマイナスも大きなモノではありませんでした。

距離感という観点で見ると

【自己評価の自分】

【褒められる外部評価】

【ミスをした時の外部評価】
少しだけー

となるため、【褒められる外部評価】をされた時の方が距離は長くなります。

よって”褒められた方が恥ずかしい”という状況になるのです。

恥ずかしさは社会と自分のチューニングポイント

これが現状の私がたどり着いた恥ずかしさの正体です。

これからもまた変わっていくかもしれません。

でも、それより大事なことは「恥ずかしさ」との向き合い方だと感じました。

残念ではありますが、恥ずかしさをすぐ無くす方法はないと思っています。

なぜなら、私たちには長い時間をかけて作り上げた「私が思う私」が存在していて、恥ずかしさはそこを基準に作り上げられているからです。

でも、逆に言うと、恥ずかしさを知ることで、「私が思う私」を発見し、「社会における自分」に再調整を図ることができます

過信していた自分を戒めて、
謙遜していた自分に自信を持たせる。

恥ずかしさを体験することで、
私たちは自分という人間の輪郭を知り、
社会に活かせるポイントを見つけていくことができる
のだと思います。

私自身も「恥ずかしさ」という感情をネガティブなものと片づけることなく、「チューニングポイント」としてそのままに受け止めていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?