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岡田将と山越めぐみの「空想展覧会」ーコロナショックから写真文化を考える

はじめにすこし、わたし自身の経験について。

 災害などの有事といえば、今のコロナショックや、近年では熊本豪雨もだし、やはり多くのひとが想起するのは東日本大震災ではないだろうか。じつは、わたし自身はそのことを語る言葉を持ち合わせていないというディレンマを抱えている。

 2011年3月11日、パリ。呑気に目覚めると、母から「大きな地震が起きたけど、家族はみんな無事です」という短いメールが入っていた。パリと東京の時差は8時間。刻々と状況が変化し、報道が錯綜しているなかでYahooニュースを開くと、「未曾有の大震災」などの見出しはあるが、どこで起こった地震なのかはもはやさっぱりわらかない。あわてて着たきりすずめで駅前のキオスクに新聞を買いに行く。フランスは日刊紙が高くて、たしか10ユーロ持って行って買えたのは『フィガロ』と『ル・モンド』の2紙だけだったと思う。どうも東北で起こった地震らしいということはわかったが、まだヨーロッパにおける情報は混乱の渦。

 同日。動揺していたのか、わたしはフランス国立図書館でクレジットカードを紛失する。パリはもう19時くらいだっただろうか。カード会社に電話がつながらないので、しかたなく東京の父親に電話する。「(会社は汐留で)、いまやっと都庁前駅にたどりついたところだ」そうで、たいそう呆れられる。

 事態は数日混乱の中。3月13日の一面の写真は、不謹慎にもロマンティックでさえある、夕景の瓦礫に佇む人影(下の写真)。

 わたしがもっている3.11の記憶は、きわめて「わたしたち」から疎外されたところにあるそれだけだ。この震災関連でもっとも記憶に残っている視覚的記憶は『ル・モンド』のこの写真。リアルタイムの津波映像も、計画停電も、エンドレスに流れるぽぽぽぽーんのCMも実際には知らない。わたしは経験と記憶が一致しないまま、震災の記憶を10年かけてたくさんの写真家の仕事から「学んだ」のである。

 わたしは写真家たちのイマジネーションや、彼らが生み出す作品がもつ世界を変える力を信じることを仕事にしている。それでも、そこにいなかったわたしには、こと東日本大震災と写真家の関係については語る資格がないように思い続けてきた。どうしても、経験なくして作品の引力にもとづいて書くと、綺麗ごとになってしまいそうな気がするから。

 わたしは今回のコロナショックで、写真がもつ力がどれだけ癒しとなるかを、身をもって知ることができたのだと思う。


 おおくの美術館が展覧会を開催できない状況で、Youtube、SNSなどで会場にバーチャルで訪れることができる取り組みをしている。そして同時に、写真家たちも自身の作品をSNS上で公開したり、外出自粛にともなって奪われた鑑賞機会やコロナ疲れの癒しを提供している。なかでも、わたしが超がつくほど感動したのが、岡田将と山越めぐみのとりくみだった。

 ふたりは、ともにキヤノン写真新世紀2018の受賞者である。最初にアクションを起こしたのは岡田で、「SNSにはあまり作品をあげていませんが、外出自粛中なので少しでも気が紛れればと思い」、Twitterに写真新世紀受賞作の〈無価値の価値〉をアップした(3/27)。その後も岡田は「コロナ疲れのあなたへ」と添えて同シリーズのアップを続け、最初のツイートは「いいね」6千超え。バズってるとの声も聞かれる。

 ついで4月7日。山越がニンテンドーSwitchの「あつまれ 動物の森」で展覧会を開いたと岡田に連絡し、岡田がそれを写真付きでFacebookで紹介。なんだかわからないけれど、一瞬にして涙が溢れてきて、わたしはすぐ岡田さんに連絡して、このことをレビューさせてほしいと連絡した。

 「あつまれ どうぶつの森」はパッケージ版が発売16日で303万本を売り上げる大ヒット。そもそもどうぶつの森シリーズの最初はぼくら30代がティーンエイジャーのころにローンチされたゲームなので、30代以上のファンも多い。

 自分の島をいろいろとカスタマイズしていくゲームで、本作はウェブを介してそこに人を招待したりできる。この「あつ森空間」は、いま仮想現実として注目の場だ。4月10日ころのニュースでも報じられたように、中国ではいきなり市場から消え、事実上の発売禁止になっているという。

 いろいろ調べてみると、香港の民主活動家が「自由な香港、いまこそ革命を」と抗議活動を展開したり、中国政府へのコロナ対応批判など、かなり過激なことがおこなわれているらしい(下の写真)。だが、香港・中国の言論統制は周知の通りで、どうぶつの森はいま、その政治体制に反発できる(すでに「できた」になりつつあるが)完全なるパラレル・ワールドとなっている。

 一方、文化的な面でも、「あつ森空間」はアツい。北京の木木美術館はバーチャル美術館をオープン、ホックニー展(下の写真)やウォーホル展など、過去に同美術館が開催した展覧会が高いクオリティーで再現されている。政治や文化にまで影響を与えているというのは、ニンテンドーも想像していなかったのではないだろうか。

 だが、それよりも早く開催されていた展覧会があった。バラとチューリップが咲くお花畑に、5枚のイーゼルにかけられた岡田の作品。星型のサングラスをかけている山越のアバター。おなじ山越のどうぶつの森の庭の芝生には、彼女の作品〈Witness -Israel-〉の一枚が平置きで飾られている(下の2枚の写真)。微笑ましいと同時に、率直に「このふたり、すげーな」と。その発想力、信頼関係からくる連携、その土台にある、写真が世界を変えると信じる力。

 なんで山越は岡田の作品を使ったのか?(しかも、どうもなりゆきを聞いていると岡田は知らなかったらしいというのがまたすごい) それは、「自分の作品で試したら、解像度が落ちてなんだかわからなくなったから、岡田君の作品を使った(笑)」らしい。

 岡田の作品〈無価値の価値〉は、わたしたちが「靴裏で踏んでいる世界」、つまり道端の砂粒を高精細に撮影し、大画面に出力したものだ。可視化された「無価値」の世界にある宝石のような、イトカワ(小惑星)のような、こんなものが?と思わされる巻貝の貝殻・・・。どれも1〜2ミリの世界である。わたしは錬金術の時代から連綿と西洋世界に受け継がれる「ミクロコスモス(地上)はマクロコスモス(宇宙)を反映する」という世界観につよく共感しているのだが、岡田の世界観はまさにそこに共鳴する。

 そして、今回の「キュレーター」が山越めぐみ。写真新世紀受賞作〈How to hide my Cryptocurrencies〉は、仮想通貨のランダムに設定された復号鍵(パスワード)を作品個々のタイトルとした作品で、意味のない単語の羅列と「自身の「場所」に関する長期記憶を結びつけ」た作品である(ステートメントより)。

 この作品に象徴的なように、山越は時代の流行やそこに潜む問題を自身の記憶・経験と結びつけることに長けた作家で、「鑑賞者と分離できない共有性を作りあげようとする」と同時に、わたしたちは「作者の個人的な記憶に呑み込まれている」(椹木野衣による写真新世紀2018審査評)ことに気づかされる。
 今回の「空想展覧会」は、山越が作品制作だけでなく、鑑賞の場を作り出すさいにもそうしたアンビバレンスを取り込んでいることを見せつけたかたちだ。つまり、これは山越のものの見方とパラレルなのである。

 人と人との接触が問題とされるコロナショックにあって、バーチャル空間の集いはかなり注目されている。「あつまれ 動物の森」はコロナショックによる休校以来、ティーンエイジャーたちが集う場になっているらしい。さらに、わたしたち30代半ば(岡田も山越もわたしも同世代)がティーンのころからあったゲームなので、比較的ユーザーの年齢層は広い。しかし、写真展を開いてしまうという発想も驚きだ。経験と社会の流行をアンビバレンスな一体にしてしまう山越らしい。

 この岡田の展覧会は、展覧会どころか、それが開かれている世界も空想のものである。美術館がいま取り組んでいる展覧会のバーチャル公開とは異なるし、作品もアニメーションのような解像度でしかない。けれども、そこにはたしかに岡田と山越の写真の力を信じる意志が貫かれていると感じられた。

 そしてわたし自身、これを写真展といわずに写真家たちのイマジネーションの世界を信じることができるだろうか? と自問させられる、強い力がある展覧会だと思った。そう、これはカギカッコなしの写真展なのである。

*本記事を書くにあたって、岡田将さん、山越めぐみさんのお二人にご協力をたまわりました。作品、展覧会の画像もご提供いただきました。あらためてここでお礼申し上げます。ありがとうございました。

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