写真術公表の日・もうひとつの物語ー日本のライカ事始め

 8月19日。1839年のこの日、パリの学士院で世界初の実用的写真術ダゲレオタイプが公表された。

 ダゲレオタイプは1835年くらいにはある程度像が出るまでの完成度に高められているし、1838年くらいからは技術の完成度よりも、どうマネタイズするかが焦点になっていたので、技術自体は39年当時にはすでに「発明」されていた。

 けれど、この公表をもってフランス政府はダゲールらからこの技術を国有特許として買い取って、イギリスをのぞく世界中で使用できるようにしたわけだ。つまり、8月19日は写真の歴史が前史から本史へと入れ替わるタイミングだといっていいかもしれない。だから、この日付は写真史にとって大切なものとして記憶される。
ちなみに、8月19日は世界写真の日とされている。

 僕も、毎年8月19日には写真発明関係の投稿をしてきた。昨年はダゲールの墓を訪ねたという記事をFacebookにあげたりしたけれど、幸いこのあたりの「写真発明競争」のことは昨年上梓した『写真の物語』にくわしく書かせてもらったので、ひとまずのゴールをみた。

なので、今年は少しちがった8月19日の物語を書いてみようと思う。

 写真術公表からちょうど90年後、1929年8月19日、日本はあるものの到着に沸いていた。飛行船グラーフ・ツェッペリン号だ。世界一周の途中で茨城の霞ヶ浦に寄港することになっていたのだ。

 8月に入ってからというもの、毎日のように新聞には「ツェ号」はいつドイツを飛び立つのか?という
ような記事がつづき、ようやくドイツを飛び立ったのが8月16日、3日間ゆらゆら飛んで霞ヶ浦上空に現れた。

 全長236メートル、マイバッハのエンジン5基搭載の巨体だ。ジャンボ機がない時代、このサイズ感だけでもそうとうな驚きに値するだろうに、それが飛んでくるのだから、これは一大スペクタクルだ。リンクの映像を見ると、その興奮がよくわかる。


 さて、8月19日にツェ号が飛来し、それがどう写真と関係あるのか。

 タラップから降りてきた船長のフーゴ・エッケナーがライカを首から下げていたらしいのだ。  "らしい"というのは、当時の新聞を見てもマイクロフィルムでのこされているゆえ、写真が黒く潰れてしまって、ライカは確認できないのである(笑)。

 ライカは1925年に本国で発売され、日本ではライカの製造元エルンスト・ライツの東洋総代理店だったシュミット商会(もともとライツなどの顕微鏡などを扱っていた)が1926年7月に『アサヒカメラ』に広告を出す。

 ところが、大判の組み立てカメラが主流の当時、ライカはまだまだ流行るということはなかった。写真家の大竹省二はある座談会で、戦後すぐだってライカをもってクライアントのところにいくと、こんなカメラで仕事するのかという顔をされたと語っている。

 ライカが日本で本格的にはやりだすのは、1935年前後。「ライカの伝道師」ともいえるドイツ人写真家パウル・ヴォルフの存在が大きかった。(*ヴォルフについてはここでは書かないけれど、以下の本にくわしい)

 ところが、このフーゴ・エッケナーが首からライカを提げていたのがライカ流行のきっかけという説もある。そして、実際にそれをきっかけにして、伝説のライカ使いになった写真家がいる。木村伊兵衛だ。

 ライカを提げたエッケナーの像は新聞の写真やニュース映画でたくさん流れていて、木村はこれに触発されて、日本橋の無三四堂でライカA型を購入したという。「ライカ一台、家一軒」なんて言葉があった時代だ。

 「木村伊兵衛ってなにがすごいの?」とたまに聞かれることがある。例えば、15年前に、500万円くらいの中判デジタルカメラ(デジタルバックというのが正確か)が登場してきて、まだ写真家がフィルムカメラで仕事をするのが当たり前な中、こんなカメラを日本で初めて買った人はすごいなと思う。木村は、いわばそんな存在であって、それだけでもすごい。

 しかも、ライカというのは新しい写真の視覚システムだったわけだ。このへんについては、近々オンラインでトークセッションを開催する予定なので、そちらが終わってからゆっくり後篇としてまとめることにしたい。

 木村伊兵衛についてはいろいろ写真集があるけれども、『定本 木村伊兵衛』と『木村伊兵衛のパリ』はおすすめの写真集だ。


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