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憧れの鏡に映る閉じられた扉ー幸本紗奈〈Other mementos〉をめぐって

  鍵を閉めて、慣れないベットの端に座ってしばらくじっとしていると、とりとめもなく浮遊していた視線は鏡ごしにドアの把手をとらえて落ちついた。ものの輪郭が溶け、だんだんと視界がぼやけていく。その時ふと、いつか見た夢の一片がたちまち鮮やかに蘇るような、あるいは初めてものごのに在り方に気づいてしまったような、妙な感覚がこみ上げた。(幸本紗奈「この中のある写真について」) 

 幸本紗奈の〈Other mementos〉の独特のピントワークと光は、いちど見ると忘れられない。あの少し仄暗い、青っぽい光は、夏の日本家屋の奥座敷を思い出す。青白い光が満ちたひんやりとした部屋。遠くに聞こえる子どもの遊ぶ声や、蝉しぐれ。あの光は、たしかにそういう、現実だけれどもそこから一歩引いた世界のように感じる。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」にも通じる光のとらえ方は、きっと多くの人の心を捉えるものだ。

   きっと、その光の中に佇んだ幸本は(きっと写真集の表紙の写真にちがいない)、名も知らないイタリアの町を歩きまわった疲労も手伝って、輪郭が曖昧な過去の「なにか」を思い出したのだろう。「いつか見た夢の一片」、それが"Other mementos"なのだろうか。

 僕がこの作品の写真たちに惹きつけられるのは薄ら青い光(たしかに僕自身も憧れのある)だけでなく、幸本と対象との距離感のようにも感じる。アンティミストでも厭世家でもない、でも観察者でありたい、緊張感のある距離。僕は彼女の写真集を開くたび、あるいはこうしてオリジナルプリントに触れる機会に恵まれるたびに、一人の人物を思い出す。江國香織が描くところの『冷静と情熱のあいだ』の「あおい」である。

 「わたし、お姉ちゃんがコンプレックスだった時期があって」と幸本は笑みをたやさないで話し続ける。

「お姉ちゃんは勉強ができて、行動力があって、それなのにわたしはってーー」というと、どこにでもありそうな姉に対する妹のコンプレックスに聞こえる。

「でもお姉ちゃん本人は全然そういう感じじゃなくて、そんなことぜんぜん考えてないっていうか、意思は強いけどアンニュイで。あ、お姉ちゃんこれ(ふとんにくるまって寝てるお姉さんの写真が展示されている)なんですけど。ミラノに住んでて」

 あおいじゃん!って思ったけれど彼女にはその場ではいわないでおいた。彼女の姉が「あおい」に重なることと彼女の作品のあいだにあるものがなにか、うまくことばにできなかったからだ。

 もういちど、「この中のある写真について」を読み返してみよう。幸本の視線は鏡ごしにドアの把手を捉える。

 その時に撮ったものを見たのは、その後2か月くらい経った頃だった〔……〕思い出す、あの日暮れに垣間みた一点のひかり、彼女が呟いたことば、剥製達の潜む地下、くり返し読んだ小説の一場面。

 その鏡は憧れのお姉さんなのだろう、僕はそう思う。お姉さんの中に映し出されるドアの把手。幸本が話してくれたことは、ぜんぶ過去形だった。憧れていて、でもそこからお姉さんと違う自分になって現在にいきつくドアの把手のように思えてならない。

 「いまは〔お姉さんがコンプレックスとか〕そういうことはないんですけど、久しぶりに会うとその時に同じこと考えてたり、同じ本読んでたりなんてことがあったりするんです」

 そういうことは双子によくあると聞くけれど、なにか、そういう特別な力がふたりにははたらいているのだろう。幸本が思い出したのはいつかの夢ではなくで、お姉さんがコンプレックスだったころの漠然とした思い出なのではないかと思う。そのころの自分の感情の忘れ形見たち(mementos)は、記憶と混ざりあい、いつしか芯が強くてアンニュイなお姉さんの背中を追っていた少女は似て非なる世界に行きつく。

 二つの世界を一つの空間にないまぜにしないというところに、この作品の世界観は成立している。(おそらくは鏡の中の扉と同一の)扉の鍵を閉めたところから物語が始まっているのは、とても示唆的だ。

 彼女はいう。

 「自分の憧れていた青色は、私の中の彼女の色であったかもしれない」と。

展覧会は渋谷の東塔堂で9月12日まで。




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