レザ・ラファ師
トルコでは多くのクリスチャンが迫害され、殺されてきた。しかし、私は神から召命を受けている。誰も私の働きを止めることはできない。
今後、イスラエルの勢力が強まっていくでしょう。そして多くのクリスチャンが惑わされる。人の教えに従い、神に従えなくなる。
第一テモテ4:1
しかし、 御霊が明らかに言われるように、 後の時代になると、 ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、 信仰から離れるようになります。
その時に問われるのは本当にみことばに立っているか、神との個人的な関係を築いているかということ。
波にもてあそばれない信仰を持って欲しい。本当の愛を持って欲しい。キリストの身丈にまで達して欲しい。あなたのキリストにある重みを残したい。
1コリント3:10
与えられた神の恵みによって、 私は賢い建築家のように、 土台を据えました。 そして、 ほかの人がその上に家を建てています。 しかし、 どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
働きが残ると書かれている。
土台とは何か。誰がこの土台を据えたか。
2テモテ2:15
あなたは熟練した者、 すなわち、 真理のみことばをまっすぐに説き明かす、 恥じることのない働き人として、 自分を神にささげるよう、 努め励みなさい。
神のみことばをしっかり取り入れなければならない。神の言葉を正しく分けて、正しく適応しなければならない。その能力が必要。
詩と賛美と霊の歌。詩は敵に向かって歌われているのではない。新約聖書では敵を愛さなければならない。
私に新しい心を授けてください。という賛美がアメリカである。これはイエス様に対する侮辱かもしれない。これはダビデがバテシェバの罪を犯した時に歌った歌。
私たちはすでにイエス様によってこれ以上新しくされないほど新しい霊を注がれている。だから、旧約と新約をしっかりと分けていない無知の人。(私は大胆になりすぎています。でも、これは大切なことです。)
主の祈り。なぜこの祈りをしているのか。イエス様はこれを成就された。私たちはこれらはすでに私たちに起こった事実であることを知らなければならない。神の力が全てをすでに備えてくださっている事を知らなければならない。それを信じて楽しむのが私たちのすること。
イエス様と議論する時間は残されていない。
なぜ私の祈りが聞かれないか。神の御心の通り祈れば祈りは聞かれる。私たちが神の御心の中を歩んでいないから祈りは聞かれない。
どうすれば御心を知ることができるか。それは聖書を音読すること。それが神の御心。
4つの福音書:イエス様の働き、行動、死、埋葬、復活を見ることができる。
手紙:イエス様の埋葬と復活をより深く見ることができる。
4つの福音書と手紙を分ける必要がある。4福音書は一言もイエス様の贖いについて書かれていない。それは全て手紙の中に書かれている。
ルカはイエス様の弟子ではなかった。ルカは18年間パウロの仲間だった。そして、パウロから福音を聞いた。ルカは葬りと復活について言及していない。
神の言葉には奥深い計画がある。神が土台を据えられた。その土台はイエス・キリスト。
パウロは私がイエス・キリストを据えたと言っている。この私が据えた土台の上に立てなければならないと書かれている。
だから、まずローマ書を理解しなければならない。
マルチン・ルターは「ローマ書は私の妻だ」と言っていた。つまり、ローマ書が神を理解するための鍵。
もしイエス様が使徒の働きで新約聖書を終わらせるなら、神を知ることができない。
恵みと真理。
真理とは何か、前からあったのではないか。
イエス様は父を示すために来られた。イエス様は誰も私を通してでなければ、神を知ることができないと言われている。
イエス様は地上で歩まれているときは律法のもとで歩まれた。この時にはまだ恵みは与えられてなかった。十字架以降、恵みが私たちに注がれた。
神殿の幕が裂けた時に、モーセの律法が停止して、恵みが注がれた。レビ記で規定されている神殿の祭司職もここで終わった。イエス様が誠の大祭司として召されたから。
パウロは手紙を通して土台を据えた。この手紙なしにはイエス様を知ることができない。
パウロは何を達成したか。
死と埋葬と復活。
これがなければ信仰は揺らいでしまう。
聖書のみ言葉は神の霊感によって与えられた。パウロは誰からも教えられていない。神様がそれを全て掲示した。ローマ書を読むたびにそれを知ることができる。
ローマ書でパウロはイエス様の土台を何度も語る。
律法とイエス・キリストをしっかりと分けなければならない。
什一献金をし始めてから祝福されたという人がいる。それは正しいかもしれないが、什一献金が祝福の鍵ではない。イエス様は何ができてもできなくても、私たちを愛し祝福してくださっている。そのためにイエス様は自ら貧しくなられ、私たちに富を与えて下さった。
ローマ書には律法を破ったら取り返しがつかないと言っている。誰でもイエス様を土台として立てられるなら、揺らぐことはない。
パウロの手紙は信仰の土台。
イエス様を探したかったら、手紙を探せばいい。
ヨハネはイエス様を愛していたが、イエス様の十字架の時はイエス様を捨ててしまった。
パウロは共にイエス様と触れ合って実際に歩んだ人たち以上のことを啓示により受け取った。
イエス様は私たちの中に生きていてくださっている。私の立場は関係ない。イエス様は私たちを愛してくださっている。
私は自分の教会で3週間、ローマの1節だけを説明している。時間がかかってもそれに取り組む価値がある。
最近のヨーロッパで起きている運動は、ルーツに戻らなければならないというもの。
チョコレートに夢中な子どもを見たことがあるか。子どもは砂糖を取り過ぎてハイテンションになっている。私たちも取り過ぎていないか。
ヘブル4章から安息日を見る。
神様は特定の日をさして、今日という日をさして安息とされた。
<ヘブル4:5>
そして、 ここでは、 「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。 6 こういうわけで、 その安息に入る人々がまだ残っており、 前に福音を説き聞かされた人々は、 不従順のゆえに入れなかったのですから、
安息は神のために休むのではない。
自分の中に安息がないと気づかせるために神が与えられたもの。
<2コリント3:7>
もし石に刻まれた文字による、 死の務めにも栄光があって、 モーセの顔の、 やがて消え去る栄光のゆえにさえ、 イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
死に至らせる務め。
律法はいくつあるか。
613個。
このうち10の律法は神の手が書いたもの。これらは死に至る働き、石によって文字に書かれたもの。
十戒は死に至らせる働き。裁き、道徳的、儀式的なもの。これらの律法も死に至らせるもの。
罪深い人に安息があるのか。だからヘブル4章に書かれいるものを理解する必要がある。
神の安息に入ったものはそれらの働きから身を引く。
イエス様が全てを成し遂げてくださったという信仰に立つなら、安息がやってくる。そして、平安が来る。
安息は火をつけるかつけないかという問題ではない。
自分の働き、行いに頼るのではなく、ただ、イエス様に頼ることが安息。
全ては神様からの恵み。
全ての行いは自分が行っているのではない。すべて神の恵み故に行われていることを知らなければならない。
安息は祝福。
10ドル献金したから祝福されるのではない。
イエス様の十字架故に私たちは祝福の中を歩むことができる。
ここに力がある。
ここに安息がある。
イエス様こそアルファでありオメガ。
ここにすべてがある。
聖書において、創世記から黙示録までイエス様の名前が記されている。
・創世記:蛇(サタン)の頭を踏み砕く女の子孫として(3:15→黙示録12:5,17)
・出エジプト記:過越の小羊として(12:3~14→Ⅰコリント5:7;ヨハネ1:29)
・レビ記:大祭司として(16章→ヘブル9:11~12)。
・民数記:いのちのパン、生ける水として(11:9;20:8→ヨハネ6:35;7:37~38)
・申命記:モーセのような預言者として(18:15→使徒:21,22)
・ヨシュア記:約束の地に導く主の軍の将として(5:13~15→ヘブル4:9)
・士師記:失敗を繰り返す神の民を憐れむ不思議という名の主の使いとして(13:18→使徒3:20)
・ルツ記:異邦人の花嫁(ルツ)の買い戻し権利のある親類として(4:8→黙示録5:4)
・サムエル記第一:エッサイの根、油注がれた王として(16:12→使徒13:22,23)
・サムエル記第二:永遠の王座に着くダビデの子として(7:12、13→使徒2:30)
・列王記第一:ソロモンにまさる者として(3:12→マタイ12:42)
・列王記第二:エリヤの神、主として(2:14→ルカ1;17)
・歴代誌第一:南ユダ王国王位継承者として(1~9章→マタイ1章)
・歴代誌第二:神殿よりも偉大な者として(1~7章→マタ12:6)
・エズラ記:破壊された神殿の再建者として(1~6章→ヨハネ2:19~21)
・ネヘミヤ記:新しいエルサレムの城壁として(1~7章→黙示録21章)
・エステル記:神の民を絶滅から救い出す者(7:4→ローマ11:26)
・ヨブ記:終末に地上に立たれる贖い主(19:25→使徒1:11)
・詩篇:賛美されるべき方、羊飼いとして(145:3→黙示録5:12)
・箴言:神の知恵として(8章→Ⅰコリント1:24)
・伝道者の書:人の行ないをさばく審判者として(12:14→Ⅱコリント5:10)
・雅歌:教会の花婿として(2:16;5:3→黙示録19:7)
・イザヤ書:不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君であり、苦難のしもべとして(9:6;53章→使徒8:26~35)
・エレミヤ書:解放と新しい契約をもたらす私たちの正義なる主として(23:6;31章→ヘブル8:6)
・哀歌:エルサレムの崩壊を嘆き涙を流す預言者として(2:11→ルカ19:41,42)
・エゼキエル書:まことの牧者にして君主として(34章:ヨハネ10章)
・ダニエル書:エルサレム再建命令の438年後に来られるメシヤとして(9:25→ヨハネ12:12,13)
・ホセア書:愛されない者を愛する夫として(2:23→エペソ5:26,27)
・ヨエル書:その名を呼ぶ者を皆救うキリストとして(2:31,32→使徒2:17~22)
・アモス書:イスラエルを回復する主として(9:11→使徒15:16)
・オバデヤ書:千年王国を治めるキリストとして(1:21→黙示録20:6)
・ヨナ書:死から三日目によみがえるキリストとして(1:17→マタイ12:40)
・ミカ書:ベツレヘムで生まれるイスラエルの支配者として(5:2~4→ルカ2:4)
・ナホム書:世界のさばき主として(1:3→使徒17:31)
・ハバクク書:神の民を救うキリストとして(3:13→マタイ1:21)
・ゼパニヤ書:神の民のただ中におられる主として(3:17→エペソ3:17)
・ハガイ書:第二神殿に現われるキリストとして(2:6~9:ヨハネ18:20)
・ゼカリヤ書:ろばに乗られる王で十字架上で槍で突き刺されるキリストとして(9:9;12:10→ルカ19:35;ヨハネ19:34;黙示録1:7)
・マラキ書:使者(バプテスマのヨハネ)に続いて現われる義の太陽として(3:1;4:2→ルカ1:78)
・マタイの福音書:ユダヤ人の王として(2:2)
・マルコの福音書:しもべとして(10:45)
・ルカの福音書:アダムの子として(3:38)
・ヨハネの福音書:神の子として(20:31)
・使徒の働き:よみがえられた世界の救い主として(4:12)
・ローマ人への手紙:神の義、ほめたたえられる神として(1:17;9:5)
・コリント人への手紙第一:病む教会を生かす最後のアダムとして(15:45)
・コリント人への手紙第二:教会の力、慰め主として(7:6;12:9:13:4)
・ガラテヤ人への手紙:自由をもたらす解放者として(5:1)
・エペソ人への手紙:教会のかしら、花婿として(1:23;5:23)
・ピリピ人への手紙:喜びをもたらす全ての者の主として(2:11;4:4)
・コロサイ人への手紙:教会を満たす全ての支配と権威のかしらとして(2:10)
・テサロニケ人への手紙第一:携挙により慰めを与えるキリストとして(4:13~18)
・テサロニケ人への手紙第二:再臨によって反キリストを滅ぼすキリストとして(2:8)
・テモテへの手紙第一:神と人との仲介者、信者の模範としてのキリストとして(2:5;4:12)
・テモテへの手紙第二:義の栄冠をくださる正しい審判者として(4:8)
・テトスへの手紙:祝福された望み、大いなる神として(2:13)
・ピレモンへの手紙:益と元気をもたらすキリストとして(1:20)
・ヘブル人への手紙:メルキゼデクの位に等しい大祭司として(6:20)
・ヤコブの手紙:生きた信仰をもたらすキリストとして(2:17)
・ペテロの手紙第一:苦難を喜びに変える大牧者として(4:12;5:4)
・ペテロの手紙第二:純真な心を奮い立たせ、忍耐を与える主として(3:1)
・ヨハネの手紙第一:義なる弁護者、まことの神、永遠のいのちとして(2:1;5:20)
・ヨハネの手紙第二:教会を愛する受肉のキリストとして(1:1、7)
・ヨハネの手紙第三:教会の幸いと健康を祈るキリストとして(1:2)
・ユダの手紙:教会をつまずきから守るキリストとして(1:24)
・ヨハネの黙示録:アルファであり、オメガ、最初であり、最後として(22:13)
p.s.
この後、中東諸国のリバイバルのため、アラブ地区の救いのために断食をして祈りました。
イエシュアのお名前によってこの地域に圧倒的なリバイバルがもたらされることを祈ります。
以上がレザ・ラファ師のメッセージです。
イスラエルに来るために多くの犠牲を支払いました。
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