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とも動物病院の日常と加納円の非日常

東京大空襲<転> 6


  何か生温かいもので頬を嬲られるのを感じて、フィリップ・レノックス少佐は目を覚ました。
手を伸ばすと暖かな被毛に触れ、ワフッと彼を気遣う一言が耳にくすぐったかった。
スキッパーだった。
朦朧としていた意識が次第にはっきりするにつれ、歯の根の合わぬ程自分の体温が下がっていることを自覚した。
風が強く気温は50℉(10℃)を切っているように感じた。
加えて頭痛に始まり足の先までまんべんなく広がる痛みと痺れの感覚があった。
これはまるでシニアハイスクール時代に屋根から落ちた時のようだと思った。
状況が状況だけにレノックス少佐としては、思い出に浸るつもりなどさらさらなかった。
それなのに、すっかり忘れていたとびっきり嫌な記憶までついでに思い出した。
屋根から落ちた一件に関わる思い出が、映画のワンシーンに似た鮮やかさで脳裏に蘇ったのだ。
 あれは確か、両親に黙って自室を抜け出そうとした星が無い夜の事だった。
テニスシューズを履いて屋根に足を下ろしたとたんにそれは起きた。
うかつにもフィリップ・レノックス少年は夜露で濡れたスレートで足を滑らせてバランスを崩したのだった。
運動神経は人並み以上と自負していた。
だが身体は重力に引かれるままあえなく無様な落下物と化してしまった。
フィリップは幸いにもベランダのひさしを突き抜けた後、木製丸テーブルの天板に落ちた。
おかげで骨折や内臓に損傷と言う大事にまでは至らなかった。
それでも全身打撲による激痛でしばらくはうめき声も上げられなかったものだ。
 母親が夜のしじまに響き渡る激しい破壊音に驚いて悲鳴を上げるのが聞こえた。
そのことが、愛妻家を自認する父親のエマージェンシーボタンを押したのだろう。
曽祖父が愛用したウインチェスターを携えた父親が、おっとり刀で飛び出して来た。
曽祖父は若い頃には南北戦争にも参戦したという剽悍な漢だったという。
鹿撃ちで腕に覚えのある父親の誰何は、威嚇射撃の後だった。
フィリップは痛みと恐怖で叫び声も上げられず少しちびってしまった。
 妻に良い所を見せようとして、危うくフィリップ少年を射殺しそうになった父親こそ哀れだった。
事の次第がつまびらかになった後の父親は立場を失った。
父親は一人息子を溺愛する母親に、感謝祭前夜の七面鳥もかくやと言うばかりに絞め上げられた。
しかし息子のしでかした真夜中の自爆事故にまつわる因果の因が何あろう。
ガールフレンドの所へ忍んで行こうという焦りがもたらした奇禍と知れるや、母親の怒髪は天を衝いた。
彼女の顔は、貿易商だった祖父の日本土産であるお面そっくりな相貌となった。
ハンニャと言う恐ろしいデーモンを打ち出したお面だった。
母親が向ける怒りの鉾先は、たちまち父親からフィリップ少年へと変わった。
 こうして真夜中のデートをすっぽかされる形になったガールフレンドのオリビアは、事の顛末を知るや大笑いの揚げ句肩を竦めた。
フィリップは二重に不機嫌な母親と二重に落ち込む父親の狭間で、男女が綾なす人生の複雑な一端を学んだ。
 授業料は高くついた。
ベランダの屋根を修理する費用を捻出する為に、貴重な一夏をまるまる費やすはめとなったのだ。
フィリップはオルソンさんの牧場で早朝から夕刻まで、牛の世話と乾草作りに精を出した。
当然、オリビア嬢とは夏季休暇を通して疎遠となった。
 肉体労働に明け暮れる夏季休暇はフィリップに多くの教訓を刻み込んだ。
そうして人間関係やら社会環境やらが色々とリセットされる新学年がスタートした。
くだんのオリビア嬢は無様にも屋根から転げ落ち、その挙げ句にデートをすっぽかしたフィリップに呆れ返っていた。
夏季休暇の間には詫びの一つもなく放置された。
オリビア嬢としては、ママにガッツリ首根っこを掴まれて、いいように牛耳られる間抜けな坊やに用はなかった。
とっくのむかしにフィリップには見切りをつけていたということだ。
オリビア嬢は、目端が利くばかりで無く学習能力も高かった。
夏季休暇が終わった時には、すでに長身で運動神経の良さそうなナイスガイを手中に収めていた。
そればかりか、ナイスガイの左腕にぶら下がる自分にうっとりすることに大忙しで、最早フィリップのことは考慮のらち外らしかった。
 こうしてケチ続きの夏が終わった。
フィリップ・レノックス少年には行先の決まった幾ばくかの現金とこんがりと日焼けした肌。
加えて牧草をサイロに詰める重労働で鍛えあげられた筋肉と硬く固まった掌のマメが残った。

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