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垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達〜

第8話 少女ひとり 6

 駅前の一件で、森要のビョーキはあたしの頭の上にぶら下がるダモクレスの剣であることを思い出した。
かつてアメリカのケネディ大統領は、偶発核戦争の脅威を古代ギリシャの故事に例えて警告した。
例えたのはダモクレスという王様の頭上に、髪の毛で吊るされた剣の危うさだ。
森要を、いつ切れるかもしれない髪の毛で吊るされた剣に例えるのは、大げさに過ぎるかもしれない。
けれどもあたしにとって森要の存在は、ダモクレスの剣と同じ。
こうなると、いつ落ちて来るか分からない水素爆弾に比肩する脅威だ。
 世界中の人々は今この瞬間。
冷戦下にある米ソの間に全面核戦争がおきてホモサピが絶滅するかもしれないことを知っている。
死に絶えるホモサピの大多数は、米ソの相互確証破壊というドクトリンの単なる巻き添えに過ぎない。
だがお題目はどうあれ、詰まるところ権力者のプライドのせいで皆が理不尽な死を迎えることには変わりない。
 大国の権力者が人類絶滅を掛けてもこだわるプライドなど、一介の女子高生にとっては一文の価値も無い事は確かだ。
全世界の99.99%のホモサピにとってもご同様だろう。
そんなあれやこれやを承知していても、個人の力ではどうしようもない案件ではある。
 だから、と言うわけではないが。
昨日も今日も核のボタンは押されなかった。
その実績だけを頼りにホモサピは明日を楽観して生きて行かざるを得ないのだ。
 人間の脳に搭載された確証バイアスは本当に便利な機能だと思う。
あたしも悪夢を見なくなって。
森要の事を忘れたい気持ちも強くて。
マドカと過ごすのが楽し過ぎて。
確証バイアスの罠に嵌まっていたのだろう。
 『この楽しい日々がずーっと続くいいな』
そんな願いがやがて『楽しい日々はずーっと続まくに違いない』という確信に変わった。
あたしは森要と言う脅威について、忘れたふりをしていただけなのだ。
 あたしはまさに、確証バイアスが命ずるまま。
見たいものだけを見る。
聞きたいことだけを聞く。
そんな思考停止状態に陥っていたのだ。

 危機管理がぐだぐだだったことはあたしの完全な過ちだ。
あたしのために、変質者が紡ぐ怖れと不安に満ちた日常に、マドカを巻き込むわけにはいかない。
だから何がどうあってもマドカのことを森要に知られる訳にはいかない。
そうあたしは思い定めた。
 穏やかな暮らしを送る平凡な人間には、森要の本性なんて想像すらできやしない。
森要は普通の人にはまったく理解できない、おぞましくも歪んだ思考で生きているのだ。
 あたしがマドカと仲良くしているのを見かけたら、彼はそれをどう感じどうとらえるだろうか。
 あたしが浮気をしたと思うだろうか?
 自分の事を棚に上げて、マドカがあたしにしつこくつきまとっている変態と思うだろうか?
 何れにせよ、あたしにとってもマドカにとっても、ろくでもないことが起こりそうだ。
そんなことは容易に想像できた。
 森要はあたしにしてみれば、笑止千万な妄想に取り憑かれているちんけな変態に過ぎない。
たが同時に彼は狡猾で知能が高い異常者なのだ。
 もちろんあたしはユキのことも心配だった。
ユキは女の子だし、あたしからみても目を見張るくらいに綺麗で心根の優しい娘。
森要の邪悪で卑劣な自我が関心を寄せぬとも限らない。
怪物の頭の中に、学園ハーレムの妄想でも湧き上がった日には、もう目も当てられない。
そうした意味では、マドカ以上にユキの存在を森要に知られる訳にはいかない。

 思えば偶然とはいえ、あたしがマドカに愛想尽かしをされたそのタイミングで、森要が現れたのは僥倖だった。
あたしがマドカやユキとつるんでいなければ、ヤツがふたりに気付く確率を減らせる。
ストーリーを単純にできるので対策も立て易くなる。
 お医者様から聞かされた話が森要にそっくり当てはまるとしたら。
彼があたしに寄せる気味の悪い興味は、今でもそのままである可能性が高い。
 なぜ森要が再びあたしの前に現れたのか。
森要は有罪が確定した後大学から退学処分を受け、故郷の仙台に帰ったはずだ。
森要は異常者だ。
あたしがふたりの恋愛をないがしろにしたと森要が考えているのなら。
そう仮定できるのなら。
今回の状況はあたしに対する単なるお仕置きが目的かも知れない。
 でも、あたしが懇意にしている人間がいると知れば。
特にそれが男子で有れば。
あの森要のことだ。
それがどの様な形を取るかは分からない。
だけど抗原に対応する抗体みたいに、ためらいなくその男子の排除に動くのではないか。
それは考えるのも恐ろしい当て推量だ。

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