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とも動物病院の日常と加納円の非日常

古山氏の怒り 2

 「どうもお待たせいたしました。

私が院長の田山ですが、うちの者が何か失礼を?」

ともさんはでかいのだ。

百九十センチメートル近いがっしりとした筋肉質の体が、背筋を伸ばして古山氏を見据えた。

それでもやっぱりともさんはともさんらしく、とても優しげな口調だった。

「いや、失礼とかそう言うのじゃ無くて。

・・・無いんですが。

聞きたいことがある。

・・・あるんです」

古山氏は、ともさんの誠実だが力強い押し出しで明らかに怯んだ。

僕に対した時とはうって変わって弱気になった。

『けっ、小心者め』

僕はまるでいじめっ子を兄貴に言いつけた弱っちい小僧みたいだった。

ヘヘンと言う気持ちで僕は腕組みをした。

人生の苦労を澱みたいに溜め込んだ大人から見ればだよ。

僕なんぞのほほんとした、生意気で小面憎い青二才だったに違いない思う。

 「こちらで手術したうちのチャーリーが、足を取られちまった訳が知りたいんです。

家内の言うにはフィラリアが原因だとか。

おかしかありませんか。

フィラリアといや、あたしら物を知らない人間でもね。

心臓に寄生する虫ってことくらい知ってるよ。

あんた等、こっちが素人だと思ってさ。

いい加減なこと言ってんじゃないの」

話し始めると古山氏は少し勢いを取り戻した。

「チャーリーの足のことは、お気の毒だったと思います。

しかし、犬糸状虫。

いわゆるフィラリアが原因であることは、疑いのない事実なのです。

奥様には、詳しくご説明申し上げて充分ご理解いただいた上で手術を致しました」

「家内から話は聞いたよ。

それで納得がいかなかったから、ここに来たんじゃないか。

家内は騙せても、俺はそうはいかないよ。

おい、そこの青二才。

のどが渇いたな。

気がきかねーな。

何か無いのか」

僕は怒りがすっぽ抜けて心底驚いてしまった。

この人は、いったい何者なのだろうか。

僕はもしかしたら本当は、育ちが良かったのかもしれなかった。

心底そう思った。

僕はここまで横柄で無礼な大人にかつて接したことがなかった。

もし僕が他人にこんな口の効き方をしたのがおばあちゃんに知れたならただじゃすまない。

それだけは確実だった。

古山氏のおばあちゃんは、孫のこんな下品な振舞を何とも思わないおばあちゃんなのだろうか?

 出会い頭に珍獣と対峙してしまった。

そんな人みたいに呆然と佇む僕に、ともさんが素早く目配せした。

僕はあたふたと奥へ引っ込み、貰い物のナポレオンを出してきた。

もったいない。

チラリとそう思ったが、僕はとっさに思いついた悪巧みを速やかに実行に移した。

ある種の人間にとって喉が渇いたという表現は『酒がのみてぇ〜』なのだ。

獣医なのに特急建築士を名乗り、土建業を営む無頼な先輩にそう諭された事がある。

僕はその教えを実践応用することを思いついたのだ。

僕はとっておきのナポレオンを、大ぶりのグラスにたっぷり注いで古山氏に差し出した。

いっきだった。

「ふー。

貧乏人騙して、良い酒飲んでんだな。

聞こうか」

古山氏の目が、どっかりとすわり始めているのが分かった。

ともさんは避難がましい目で僕の方を見ると、咳払いをして静かに話し始めた。

 「フィラリア症で入院したはずの犬の足が切断されて家に帰って来た。

確かに驚かれたことと思います。

しかし本当に、足を切らなければならなかった原因は、犬糸状虫。

通称フィラリアと皆さんが呼んでいる寄生虫の、まるで素麺そっくりな虫の体そのものにあったのです。

フィラリアは、蚊が仲立ちとなって犬に感染します。

蚊によって付けられた刺し傷から、蚊の唾液の中に居たフィラリアの子虫が犬の体内に潜り込みます。

子虫が順調に成長できれば、約三ヶ月から半年かけて心臓にたどり着きます。

その時、子虫は素麺程の長さの大人へと成長を遂げています」

古山氏は鬼の首を取ったような顔つきになった。

「それ見ろ。

心臓に、巣くうんじゃねーか。

・・・何だ。

みんなして俺を馬鹿にしやがって」

みんなしてのみんなには、お連れ合いやお子さんも入るのだろうか。

そんなことがちらりと頭を過った。

 僕は再びなみなみと、グラスにナポレオンを注いだ。

ともさんは今度も僕の方をちら見したが何も言わず話を続けた。

「大人になったフィラリアは、心臓の右側。

右心房と右心室と言いますが、ここから心臓と肺をつなぐ血管。

肺動脈と言う太い血管の辺りに寄生。

まあ巣くうことになります。

肺動脈は肺の奥に行く程次第に細くなってやがて毛細血管となります。

一番先っちょには肺胞と呼ばれる場所があって赤血球に酸素交換を行ないます。

その後血管は、今度は次第に太くなり最後には肺静脈と言う太い血管になって肺を出ます。

肺静脈は心臓の左側。

左心房と左心室に戻ってくるのです。

左心室からは大動脈が出ていてこれが全身へと血液を送り出す道になります。

フィラリアは、ソーメンほどの太さと長さがあります。

当然肺の細い血管を通り抜けることが出来ません。

従って通常心臓から肺にたどり着いたフィラリアは、もうそこから先へは進めません。

フィラリアは長ければ七年近い生涯を、今ご説明した右心房右心室から肺動脈にかけての血管の中で過ごすのです」

「それ見ろ。

・・・馬鹿が。

いつだって俺の言ったとーりなんだよ。

・・・どいつも、こいつも。

何にも分かっちゃいねーのさ」

古山氏の心は、次第にこことは何処か別の遠い場所へ向かうようだった。


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