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とも動物病院の日常と加納円の非日常

東京大空襲<承> 6

 僕には姉が一人いる。

彼女は小学生の時から私立の女子校に通っていた。

それは多分酔狂な母親の方針だったのだろう。

詳しい事情は知らない。

僕が余程ぽんつくだったせいもあるのだろうか。

姉と違い僕は野育ちのまま地元の小学校に進んだ。

幸運にも、そのままお受験のおの字も知らぬまま中学まで過ごした。

姉弟で教育に対する親の方針が異なったのは、僕的にはラッキーなことだった。

山猿の様な生活を謳歌していた僕と比べれば、姉は随分と窮屈な子供時代を送ったに違いない。

 後年、このことが僕にまつわるもう一つの、ある意味運命的ともいえる不可思議に大きく関わってくることになる。

だが、それはまた別の話し(垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達〜)になる。

 そうした訳で、当時の僕にとって受験勉強の狂熱は遥か未来の他人事他所事だった。

僕ってヤツは、親に妙な期待を持たせることの無い、凡庸な少年だったってこった。

凡庸な少年なればこそ、論理を超越した非日常的状況に出くわすことのできた幸運は望外だった。

こんな美味しい状況は生涯に二度はない。

 僕は平凡な人生を約束された人間なんだって思ってた。

だからこれは、神が与えたもうた恩寵そのものと思えたね。

是が非でも、全身全霊で味わい尽くさなければならない一件だと確信したさ。

 なんといっても人類滅亡が冗談事では無かった日々のことだ。

子供心ながら、悔いのない人生を楽しみつくしてやろうと心に誓っていた。

だからトンネルの不思議に気付いた刹那。

僕は思わず主に感謝の祈りをささげたものだ。

幼い頃から近所の教会が開く日曜学校に通っていたからね。

お祈りは得意技だった。

 望んでも得難い冒険の予感は、無理なく僕に訪れたぜ。

トンネルの不思議なんて、いとも簡単に合理化できたしたね。。

“奇跡”と呼ばれるイベントなんて、耶蘇教業界では結構ありふれてるんだよ。

聖書の中じゃ、死人が生き返ったり海が割れて道ができたりするんだ。

それに比べれば、不思議なトンネルが存在することくらい驚くには当たらなかったさ。

なぜやどうしてなどとは露ほども考えなかったよ?

 昭和の子供は英語など全く理解の埒外で生活していた。

テレビで見るドラマや洋画は吹き替えだけだった。

帰国子女なんて学年に一人いるかいないかって言う程の珍しさだった。

それでも街には和製英語が溢れていたのだろう。

This is a pen.くらいは僕でも知っていたし、塾の先生がアメコミを見せてくれたりもした。

 トンネルの向こうで外人の少女が犬をスケベと呼ばわった。

その印象から、彼女の言語は英語に違いないと僕は推測した。

もっともあの時代、多摩地区の子供にとって外人と言えばアメリカ人を意味したからね、

外国語と言えば英語一択な訳だから推測だなんて偉そうなことは言えないかも知れないや。

例えば立川基地のフェンスの向こう側にはテレビで見るアメリカがあったわけさ。

フェンスの向こうにガイジンの子供を見かけることなんて珍しく無かった。

僕達ニッポンジンの子供にとって、彼らの存在は生活感として非現実的すぎたけどね。

ガイジンの子供なんてE.T.や怪異とほぼ同義だったよ?

 そんなこんなの前提に従って、僕はあの外人の少女を当たり前の事実としてアメリカ人と確信した。

彼女がしゃべる言葉は当然英語以外ではあり得なかった。

ここまで考えたところで初めて、妖精と見紛うばかりの外人の女の子に、絶大なる興味を引かれたことを自覚した。

いきなりトンネルの不思議など、二の次の関心事に成り下がった。

 受験と同じくらい恋愛なんて遠い未来の密か事にすぎなかった。

『外人の可愛い女の子と知り合いに成れそうじゃん』

そんなチャンスを手にして、僕はてらいなく嬉しかっただけなんだと思うがどうだろう。

おかしなことに彼女には同級の女子たちに抱いていた気おくれを感じなかった。

いわゆる美少女に対する胸が痛くなる様な憧憬もまったく感じなかった。

外人女子の容姿があまりに現実離れしすぎていたせいだろうか。

僕の凡庸な理解力では目前の彼女の事を何か珍しい生き物としか思えなかったのだろう。

それこそ妖精かエルフの類としてしか認識できていなかったに違いない。

 相手側の気持ちや事情など一切構わなかった。

僕は外人の少女と再会して仲良くできるものと信じて疑わなかった。

それでもコミュニケーションの手段には頭を痛めた。

英語などちんぷんかんぷんだし、先様が日本語を理解できる訳がないことくらいはわきまえていた。

色々と考えたあげく、自分が人よりは少々絵心があることを思い出した。

筆談ならぬ『画談ならいけるんじゃね』と僕は安直に掌をポンと打ったのだった。

僕は早速晒のスケッチブック一冊と12色入りの色鉛筆を用意した。

加えて例え外人であろうと女子ならば姉の様に『甘味が好き』なはずだろうと考えた。

そこで僕は彼女を餌付けすることにした。

丁度我が家の菓子箱の中にあった不二家のポップキャンデーオレンジ味とフルーツチョコを撒き餌に使う事にした。

そんな発想に至った僕は、やはりその時外人の女の子を人外の珍獣と思っていたのかもしれない。

 細工は流流仕上げを御覧じろとばかりに、僕はほくそ笑んでその夜は早くに床に就いた。

 夢は見なかった。

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