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簡素な日常

8月2日

 簡単な日記を書こうを思い立つ。8月になったから、という訳でもなく、なんとなくふと思いついたので書いてみようと思った。昔から人の他愛のない日記が好きだった。誰に見られるでもない、空気のように漂っているだけの、そんな日記を読むのが好きだった。いつしか凝り固まった自尊心のせいか、自分ではそうしたものが書けなくなって、歳を追うごとに日に日に文章は冗長となっていった。垂れ流れてくる言葉たちをとりあえず書いてみては消し、少し文学的な表現にしてみたり、読み物として、作品として面白いものを作りたいという欲が出てきてしまうので、もっと等身大のままでいようと思う。

 このところ、物事があまり上手に進まない。地域というのは都会の論理が通用しないところもあって、いかに理論だって説明できるか、いかにきれいな企画書を作れるかというのは、あまり意味を持たないのだと感じる。プレイヤーとして、いかにコミュニティに顔を出してコミットできるかどうかが一番大切なのであって、そうした意味ではとても歯痒い思いをすることも増えてしまった。そのことに対して歯痒さを感じてしまう時点で、都会の論理から抜け出せていないのであり、これまた難しい問題である。

 そうした歯痒さからの脱却のため(言い訳)、最近とあるアニメをよく見るようになった。めぞん一刻である。一刻館に住む住人は個性あふれる人たちばかりで、それこそ古きよき日本の集団的な大家族のような歯痒さを感じてしまう。プライベートという空間もなく、人との空間的な仕切りはあれど、物理的な仕切りはない。つまり、住人たちは共同で暮らすある種の家族のような構造となっているのだ。どの物語においても、どのキャラクターに対しても歯痒さを感じてしまうあのアニメは一体何なのか、と思いつつ眺めている。

 いま思うと、コミュニティの在り方そのものの変化ではあるが、昔の日本の地域構造は、他者への寛容性によって成り立っていたものではないかと考える。以前は大家族が一般的な家庭像であったため、他者(集団)のなかで生きることが当たり前に根付いていた。現代では他者を遮断するようにその寛容性は失われ、例えば子どもがアパートで泣き喚いたり、公園で遊んでいたりしても、それがすぐにうるさいという苦情につながったりするのだろう。

 昔にそうした苦情がなかったのではなく、それを許容する人々の寛容さと、社会的にそれが苦情として成立しない、ある種の諦めと共に生きていた時代があったのだと思う。いまの世の中では、僕たちは他者への寛容性が失われ、社会は苦情(批判)に対して敏感になり、それを肯定できる風潮になってしまっているように感じる。

 他にも、まだ黒電話やポケベルが主流の、非効率な時代を生きている姿が描かれていて新鮮さがあった。僕もまだ中学生の頃まで、好きな子の家に電話をするどきどきを味わっていたのだ。できるだけ何時に電話をすると約束しておいて、親に受話器を先に取られないよう試行錯誤をしていた。幸いなことに僕は携帯を持っていたけれど、厳しい家族だと持っていない子も多かった。当時の彼女は、メールも親のパソコンをこっそり使って返信をしてくれていたような時代だったのだ。そうした非効率のなかで生まれる愉しみは、あの当時にしか味わえないものだったのだと思う。

 音楽ひとつをとっても、いまでこそ動画で予め視聴できたり、携帯で検索すればなんでもすぐに欲しいものが手に入ってしまうけれど、(当時は自分がまだ幼く、ネットリテラシーが無かったという理由もあるが)そんな便利なものではなかった。それがいい音楽であるのかどうか、ゲームにおいても、それが面白いゲームであるのかどうかなんていうものは、実際に買ってみて自分で試してみてはじめて理解できるものだった。誰かのレビューを気にすることなく、そこに他者の意見が関与する余地もない。なかば博打のような側面を持って、自分自身の評価によって良いか悪いかが決まっていた。

 便利なのはいいことではあるが、そう考えると、以前より情報量が莫大に増えていると感じる。そして、そうした莫大な情報量のなかから取捨選択をする日々の、24時間という1日の制限は変わることなく、情報量だけが増え続けているのはよくないことだと感じた。これからは、できるだけスマホを使わない生活をはじめようと考えている。どおりで最近、本を読む時間が減っているわけだ。スマホが手元にあると集中ができず、心のなかも情報が消化されずに堆積し、ずっしりと重たいように感じていたので、少しずつスマホに触れる時間を減らしてデトックスしていこう。

 さて、さらっと日記を書こうと思っても、随分と長々書いてしまう。そして、書きたかった本のことにまだ到達できていないという事実。本当は1週間分ごとにまとめて投稿しようと思っていたのだけど、この1日分の日記だけでひとつの投稿になってしまいそうな勢いである。続きはまたの機会に書くことにしよう。



8月3日

 今日は天候にも恵まれ、一日中晴れていた。梅雨が明けたにもかかわらず、このところ梅雨以上に雨の降る日が続いている。雲の切れ間を狙って洗濯物を済ませ、朝から近くまでドライブに出かける。免許を取ってから、本当に運転ができるのか不安に思っていたけれど、いざ車を手にするとその便利さを享受するばかりであった。いまでは、何も用事がなくても乗りたくなってしまうほどに、運転を楽しんでいる。

 家に帰ってからは、一日中本を読む。今日は夏目漱石のこころを読了。その後、ジル・クレマンの「動いている庭」と、図書館でたまたま手に取った渡辺隆次さんという画家の著書「山里に描き暮らす」を読む。八ヶ岳の山麓に借りたアトリエで暮らす日々を描いた文集。叙情的な表現は詩のようにも感じられ、自然のなかで生きる哲学的な思考はとっても面白い。今日はなんとなく文章を書く(書ける)気分ではなかったので、そういった日はできるだけインプットに回そうと心がけていた。けれど、言葉を綴らない日であったとしても、少しでも書くことは毎日続けた方がいいのではないかと考え、こうしていま日記を書き始めている。

 次に応募する物語をそろそろ書き始めようと、ここ一ヶ月くらい頭を悩ませていた。どんなテーマを持って書くのか、何を描きくて、どんな結末にするのか。何もアイデアが浮かばない日が続いていて、何を書こうか、何を書くべきなのか、ずっと悩んでいた。そんな風に、頭の片隅に悩みを置きながら生活をしていると、ふとアイデアを思いついたりすることがある。暮らしのなかで出会う出来事に対しても、それが物語に使えるか使えないか、という視点を持って物事を見ることができるようになる。

 大抵のものは使えないのだけど、常に頭の片隅に気にかけていることで、不意にいいアイデアとして昇華されることもあるのだ。音楽にしても一つ曲を作るのと同じように(といっても、僕は全くの素人なのだけど)、冒頭から書き始めるというより、サビから思いつくことの方が多い。つまりそれは、物語におけるメインの場面であり、起承転結における転であり、もっとも心躍る瞬間なのだ。漱石も作品の冒頭は何度も書き直していて、主人公の一人称を変えたり、そもそもの名前を消したり、書き始めについて悩んでいた痕跡が彼の原稿用紙に残されている。

 ただ、いいサビが思いついてもそれだけでは話は進まなくて、改めてどう話として形にしていくのかを考えなければならない。物語にテーマを持たせたいと考えたとき、先にサビが思いついていれば、そのテーマとサビがどのように結びつくのか、というところから輪を広げると話は膨らみやすいことに、最近になって気づくことができた。それが本当に効果的な方法であるのかどうかは抜きにして。

 とある作家は、その時代に生まれたからこそ、その時代背景や社会問題が主人公という人物像に深く関わっているという話をしていた。いまの時代だからこそ影響を受ける人物像とは何だろうか。そんな風に考えていると、霞がかった視界から物語の輪郭がぼんやりと映し出され、なんとなく書けるんじゃないかという希望が見えてくる。そうと決まれば、そのテーマについて詳しく知るために、図書館で参考図書を借りることにした。書くためには、多くを読まなければならない。そこから少しずつ自分の内側との対峙がはじまって、ちいさな積木を重ねるように、将棋の駒を指す一手のように、物語の輪郭が一歩ずつ形になる、その途方もない道のりが続いていく。

 書けるか書けないか、それが世に評価されるかされないかは置いておいて、それでもやっぱり何かを生み出している瞬間が好きなのだろう。そこに生きている意義を見出し、没頭し、遠く将来死ぬ間際にでも何かを世の中に残すことができたなら、それでいいのだと思う。けれど、お金も最低限生きていくだけはあって、いまは住まいもすこぶる快適である。おいしいコーヒーも毎日飲めるし、好きな本だっていくらでも読むことができる。それなのに、何に対して不満に思うことがあるのだろうかと、時より思うことがあるのだ。

 そうした考えが頭を過ぎるとき、いつもその返答に困ってしまうのだけど、やはり何か打ち込めるものがあると、人はその行為自体に幸福を見出すものなのかもしれない。自分の内にある言葉との対峙のなかで生まれるそれらを、僕自身が一番に愉しみにしているのだ。とりあえずいまは前を向いて頑張るしかないのだと思う。やっぱり今日は調子が悪く、思うように言葉が浮かんでこないのでこの辺にしておこう。



8月4日

 昨日から、数ヶ月ぶりのやる気でない症候群に見舞われている。今日も文章をうまく書ける気分ではない。ラインも15件くらい溜まってしまって、返事をするにも億劫になってしまった。けれど、人間ってそういう側面もあるよなって思うから、それでいい。ラインもインスタもフェイスブックも見ない。やる気が出ない時はどう頑張っても無理にやる気は起きないから、そのまま受け入れた方がいいということを経験的に学んでいた。

 朝はいつも7時前には目が覚める。起きてからコーヒーを淹れて、支度するまでの間にトルストイの「アンナ・カレーニナ」を読む。上・中・下と分厚い分量のこの書籍をいつ読み終えることができるのだろうかと思いながら読んでいる。限られた時間のなかで、膨大にある読みたい本を読むことは不可能に近い。要所を掴んで効率良く読むことと、読むべき本を取捨選択していく必要性を強く感じる。アンナ・カレーニナを読む生活でもはじめようか。

 9時から仕事をはじめ、18時前には帰宅する。先日、赤茶けた年季のあるアイアンの脚を古道具屋で買ってきたので、椅子を作ろうと思っていた。アイアンの脚に、古びた羽釜の木蓋をひっくり返して合わせ、椅子の台座として活用(スツールもこれで簡単に作れるのでおすすめ)。背もたれは余っていた端材をちょうど良い長さに切り、ビスを打ち付けて固定する。背もたれ、無くても良かったけど、とってもかわいい椅子になった。花台として使ったり、書籍の撮影用に使おうかと考えている。



 夜、木材をカットする用のジグソーを購入。丸のこはまっすぐを切るのに最適であるが、曲線を描きたい場合は難しいのでジグソーを使うことにする。お店のメニュー入れを作って欲しいとか、ハスラーのラゲッジボードを作って欲しいという依頼があった。古い物件もすべて自分でDIYできるくらいには勉強したいと思って、先日からDIYアドバイザーの資格勉強もはじめている。

 何かを作るってとても楽しいけど、手指が汚れてしまうのが少し気がかりである。なぜなら、バリスタとしてできるだけ手指はきれいに保ちたいし、切り傷ができてしまって絆創膏なんかすると、ケトルを持つ見栄えが悪くなってしまうからだ。いまは店舗に立っていないけれど、いずれお店に立つときにはきれいに保っておきたいから、DIYとバリスタって相性が悪いということに気がついた。

 晩ご飯には野菜炒めを作った。にんじんを細く切り、キャベツとピーマン、豚バラ肉と茄子、もやしを炒めるだけ。味付けはコンソメとオイスターソースのときもあれば、みりんと味の素、砂糖と味噌のときもある。気分で味付けを変えれば毎日食べても飽きない。料理をしているあいだ、先日、山梨県立文学館へ行ってきたときのことを思い出す。

 井伏鱒二や樋口一葉、室生犀星や芥川龍之介など名だたる文学者の展示を見ていて、いずれ僕たちの生きている時代も、数百年後には歴史的な事象として展示をされるのだろうな、と遠い未来について漠然と思いを馳せた。昔では文学サークルや同好会があったのと同じように、令和を生きた人たちのなかではZINEという制作物が流行っていたことがきっと取り上げられるのだろう。

 そのうち発掘されたZINEから生活習慣や当時の社会風景が読み解かれるようになって、僕たちの生きる時代はその断片の集積から、歪曲した解釈をされる可能性を秘めているのかもしれない、なんてことを想像した。今日はあまり文章を書く気分ではないのでこの辺で終わることにする。ご飯はおいしかった。



8月5日

 朝、涼しい風が吹き込んできて、エアコンを付けっぱなしにしたのではないかと疑い目が覚める。窓を開けっぱなしにしているからか、今日の風は一段と涼しく感じる。昨日、ひとしきり夕立があったからだろうか。僕の住んでいる地域は、そこまで標高が高いわけではないけれど、やっぱり朝晩が涼しいのはとても嬉しいことだ。隣町にいくと標高は1000mを超えたりするので、夏でも冷房はいらないと言っていた。

 標高の話になると、なぜだかいつもコーヒーの産地で換算をしてしまう。標高が1000mくらいだったら、ブラジルの生産地の標高と同じくらいだな、とか、品種はムンドノーボが育つんじゃないかとか。2000mを超えるとエチオピアの産地の標高と同じくらいだなあとか。350mくらいだったら、岡山の産地と同じくらいだし、東京タワーくらいの高さだなあなんてことをぼんやりと考える。何か自分の専門の軸を持って比較できるというのは、何事においても尺度が見えやすくなっていい。

 高校生の頃は受験勉強のためだけに倫理を選択したけれど、いまだったらきっと、日本史や世界史にも興味を持てることだろう。1800年代であれば、ナポレオン率いるフランスの支配下にあったイタリアでは、イギリスとの取引が禁止されてしまったせいでコーヒー豆が手に入らなかった。そのため、安価なロブスタ種のコーヒー豆を使って少しずつ飲むデミタスの文化が生まれ、エスプレッソが生み出されたのだといった具合に。

 今日の朝は、ネイバーフッドデザインを読む。商店街などで必要なコミュニティの本質とは賑わいであるが、住宅地域で必要なコミュニティの本質とは助け合いであるという話に納得する。いまの地域の行政は賑わいにばかり注目しているかもしれない。8月2日の日記に書いた他者への寛容性についても、そのヒントがここにあった。地域コミュニティのなかでも、ミクロな交流のある人との関係性についてこの書籍ではネイバーフッドコミュニティと表現し、その重要性について書き記されていた。いろいろと書いてあったが、そこまで目新しく深く膝を打つことはなかった。

 午後、ベランダから吹き込む風が冷たくて、冷房は必要のないように感じた。できるだけエアコンを使わない生活を試みているのだけど、最近は暑すぎて本を読むどころではなくなってしまうため、仕方なくエアコンを使うことも多かった。その分夏はどうしても電気代がかかってしまうので、できる限り節約して暮らそうと決める。しかしながら、日中の冷房代を浮かそうと思って図書館へ行くにしても、電車代や駐車代がかかってしまう。田舎というのは厄介である。

 また、どこかカフェで本をじっくり読もうと思っても、コーヒー代がかかったりする。外に出かければ、ついでに食事を済ませてしまうことも多いので、そうした細かい散財を控えようと考えた。結局のところ、日中の間だけでもエアコンをつけて、おいしいコーヒーをいつでも飲める自宅の方が読書も集中できるのではないだろうか、という結論に到る。幸いにして僕は家でも勉強ができるタイプの人間なので、休日は500円を貯金して日中はエアコンをつけて、電気代とコーヒー代に充てようと試みることにした。案外いいアイデアなのではないだろうか。

 夜は新しくできるコワーキングスペースのパーティーに呼んでいただいていたのだけど、体調が優れないのでまたの機会にする。図書館で借りた「死にかた論」を読む。現代では生への充実について無条件で肯定されるのに対し、死については負のイメージが割り当てられる。けれども「死にかた」への意識は「生」に対するものであり、コロナ下における現代で、日本独自の死生観である仏教的な考え方を通してどのように捉えるか、といった趣旨になりそうだと、序論を読んで思った。全然まだ読めていないけれど。

 昨日作った椅子が視界に映ってうっとりする。背もたれがなくても無骨で可愛かったけれど、あったらあったでいい。どのパーツも全く異なるものの組み合わせなのに、あたかもその姿で年月を重ねてきたかのような風采である。台座なんて鍋の蓋であるのに、そう使われるべきであったかのような姿がにじみ出ている。そんな風に考えると、アフォーダンスという認知心理学の言葉を思い出す。

 例えば取手という物体は、そのデザインによって、僕たち人間に対してある部分を掴ませることをアフォード(与える)しているという考え方である。例えばドライヤーでは髪を乾かすとき、僕たちは持ち手を持ってドライヤーを使うけれど、それ以外の部分を持つことは少ない。つまり、そのデザインそのものが僕たちに持ち手を持つようにアフォードしていると考えられる。椅子も同じように、その平な形状から私たちに座るという行為をアフォードさせている。なんとなく、つまり、その鍋の蓋は自然と台座として使うよう、僕にアフォードしていたとも考えられる。よくわからなくなってきたな。

 三日坊主になると思っていた日記も、適当に書いているだけであるが、意外にも続いている。とりあえず一週間分は書いてみたいと思う。また明日。



8月6日

 今日も朝の風が冷たい。天気予報では日中は曇り、夕方から少し雨が降るようだ。大抵の場合、僕たちはニュースから天気予報を得て、その日のスケジュールを決めたりする。いまの時代、実際に外へ出て、直感的な風や雲の流れから天候を予想する人はあまりいないだろうなと思う。このことを考えるといつも、冒険家の角幡さんの『狩りの思考法』という書籍にでてくる、ナルホイヤの精神を思い出す。

 グリーンランドで生きるイヌイットの文化として『ナルホイヤ』という言葉が頻繁に会話されるという。それは、『わからない』という意味である。天気予報にしても、いつ海豹を狩りに行くかにも、何もかも返事にはこのナルホイヤが使われるらしい。日本では仕事でも、予定や計画がなければ成立しないが、イヌイットにはそうした文化がないのだという。

 そこには、予測できないことをそのままに受け入れるという文化がある。逆に言えば、イヌイットの人々は現実を見て生きているが、僕たちは予定や計画など、予測のなかで生きているとも言い換えることができると思う。どちらがいい悪いではなく、そうした環境の変化によって異なる考え方を持つ生き物になっていくというのは、とても面白い。

 洗濯物を済ませようと思ったけれど、雨が降るようなのでやめておく。コーヒーを淹れて、昨日の「死にかた論」の続きを読む。日本と海外の安楽死、尊厳死について、事例をあげつつ様々な角度からそれが倫理的にどうなのかを探っていく。生と死という明確な区分はあれど、生でもない死でもない存在というのも確かにあって、そこについて深く考えようといった趣旨の書籍なのかもしれない。ざっくり2章まで読了。

 お昼前に、北杜の本屋さんまで車で向かう。今日の空は一面薄い鈍色の雲に覆われていた。たまに現れる水色の景色と溶け合って、どこまでも同じ空が続いているような気がした。車から降りると、潤った緑と土の匂いがして、少し肌寒いくらいに感じる。その本屋は最近できたばかりで、電波がひとつしか通らないほど辺鄙な場所にあるのだけど、それがまたいい。物理的に携帯の電波が届かない場所で、澄んだ空気のなか読書ができるというのは嬉しいことだ。



 帰ってきてからは、今日からオープンした知人のピザ屋に顔を出す。先日職人と一緒に左官を行ったところで、なんとかオープンに間に合ったようだ。がらりと雰囲気の変わった内装に、お店として人がそこにいるだけで活気が溢れ、途端にその建物自体に生命が宿ったように感じる。だいたい僕はオーソドックスを好むので、マルゲリータをテイクアウトする。きっと一枚丸ごと食べきることができないほど、最近の食が細いことを自分で理解していた。家に帰ってから半分食べる。とてもおいしかった。お店も賑わってくれたらいいなと思う。

 夕暮れ時の、暮色を帯びた空は晴れ渡っていた。朝の天気予報では雨だと言っていたのに、現実は晴れている。洗濯物を干しておけばよかったと思う。遠くの方でひぐらしが切々と鳴いている。ナルホイヤという言葉を思い出す。



8月7日

 朝、『世界のはじまり』という絵本を読む。南インドの小さな工房にて、古布を原料とした手漉き紙を用いて、ひとつ一つ手作業で作られている。2000冊しかないうちの、僕の持っているそれは1055番だった。自分で飲む用のコーヒー豆も残り少なくなってきたので、焙煎しなければと思う。

 朝から写真撮影をしたり、企画準備をしたり、SNSの投稿をしたり、様々な雑務を行う。先日頼まれていたDIYを制作する。会社の倉庫に余った木材がたくさん眠っているので、ちょうどいいサイズの端材をお借りしてラゲッジボードを作ろうと思っている。設計などはできたので、あとは切るだけである。メニュー表入れも、椅子の背もたれに使った端材の余りで簡単にできた。

 お昼ごろ、コーヒー豆が2つ売れた。とても嬉しかった。置かせてもらってる店舗にちょうど顔を出したとき、何度かちらっと見つつ、siecaのコーヒーを気にかけてくれている女性の方がいた。コーヒーお好きなんですか?と話かけると、バリスタとしてお店に立っていた当時の記憶が蘇ってきた。京都でお店の店長をしていたあの頃も、楽しかったな。

 声をかけると、「昨日も通りかかって、このお店気になってるんです」と仰ってくださって、「実はそれ、僕が個人的にしてる活動なんです」と言うと、嬉々としていろいろと尋ねてくれてコーヒー豆も買って帰ってくれた。嬉しいこともあるものだと思う。

 もう一つは、以前から連絡をくれて買いたいと仰ってくれていた、ドライフラワーのお店をされている恵さんだった。山梨に来てから、とてもお世話になっている。自分では全く意識していないけれど、僕の美的感覚はわりに女性的なのではないかと考える。もう少し中性的な、北欧のコーヒースタンドっぽい雰囲気にしたいと思っていたのだけど、なぜだかいつも可愛らしいものになってしまう。お店を実際に構えたとき、屋号を変えようと思う。



 打ち合わせなどを終えて、帰宅。ご飯は野菜炒めと冷奴と納豆。先日図書館で借りた、鷲田清一さんの著書『「待つ」ということ』を読む。この前のnoteで「待つ」ということができなくなっている、という話をしたのだけど、タイムリーな話題が目に止まって嬉しくなった。手を伸ばしてまえがきを読んでみると、「待たなくてよい社会になった。待つことができない社会になった。」という書き出しがあって、もうこれじゃん!と思って借りてきた。

 「待つ」という行為や言葉そのものを含めて、多層的に待つという認識を臨床哲学の視点から探っていく。『「聴く」ことの力』という著書に対する続編としての、「待つ」という、ある種ケアの側面も本書には含まれているようだ。めぞん一刻を流しながらさらっと読み通して、気になる箇所だけひとまず読む。五代くんは浪人時代から大学生になり、もうすぐ就職を控えていた。きゅっとまとめると数話で終わる内容だけど、季節を通して暮らしを見つめ、そこに生まれる人間味溢れる愛着はいいものだなと思う。同じような感覚を、「庭とエスキース」の弁造さんにも感じていた。

 約一週間、振り返ってみると、いろんなことを考えているものだと思った。今週は総じて乗り気ではない日々ではあったけど、素直な声をつらつらと書くことで心も整ったのかもしれない。簡素な日常であるけれど、それで十分だと思えるほどに充足している日々だった。


ここまで読んでくださってありがとうございます。 楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。