論文口調はかた苦しい
”かたっ苦しい口調は作られたものだ”
ここ数日でそんなことを思いました。
「だ」「である」「だろう」っていう表現って文面上はあると思うんですけど、それをそのまま会話で使う人っていますか?(いや、世の中自分が思っているほど狭くないからいてもおかしくない)
ただ、あくまでも自分はここに「素」の自分に近い状態を表したいので、基本的にはそういったかたっ苦しい表現は控えて、深夜ラジオくらいの距離感でやっていきたいなって思ったんですね。
そもそも自分が「だ」「である」「だろう」っていうのを使っていたのは大学時代の論文に影響されていたような気がします。
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例)ここ最近、市民のために配布される予定だった資金がある若者に誤送付され、全てオンラインカジノに使われるという事件が発生した。これは役所の管理、およびその若者が故意に資金を使用した点で問題点がある。
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めちゃくちゃ論文。この論文のいいところって感情を押し殺した文章ができるところでしょうか。論文は「事実」を論理的に考察していくので無駄な感情表現は不要といった感じがしますし、変に感情的になっていない方が内容に対する信頼度も上がるのではないでしょうか。試しに自分の感情を抑えきれなかった場合どうなるのかやってみましょう。
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例)ここ最近、市民のために配布される予定だった資金がある若者に誤送付され、全てオンラインカジノに使われるという事件が発生しました!!!これは役所の管理、およびその若者が故意に資金を使用した点で問題点があります!!!
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こうゆう表現になると前者には見えなかった”話し手”の存在が見えるわけですね。そうなると、捉えたい「事実」が話し手の存在によって捉えにくくなる可能性をはらんでいます。
そうゆう意味で言うと、これまで論文口調だった自分は「自分」という存在の露出を極力抑えながら文章による表現を行なっていたのかもしれません。
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いずれにせよ表現の仕方は人それぞれになるわけで、どういった表現をするかは個人の感性や目的によって異なります。「論文口調」も「深夜ラジオ風口語体」(今名付けた)も表現方法の一つとして自分のものにできたなら、それほど自分にとって豊かなことはありませんね。(欲張りっ)
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