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酒と本の日々:次世代の巫女たち

【次世代の巫女たち ~永野三智著「みな、やっとの思いで坂をのぼる」】

  水俣とのかかわりは40年前の学生時代にさかのぼるが、その後、3・11原発事故災害が起こるまで、すっかり忘れ、遠ざかっていた。だから90年以降の認定の動きや水俣の現状についてはまったく知らず、私の中の空白をつくる。今、過酷なその地を逃れて全国に散らばった水俣の「難民」の声を、はじめてこの著者が受け止めようとしていることを、この本で知った。
永野三智「みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま」(ころから)

  著者の永野三智さんの勤務する水俣病センター相思社は、私が40年前にはじめて水俣に触れた場所だ。そこで起こった私の人生に刻まれた(小さな、個人的な)話は「精神医療の光と影」という本の序章に書いておいた。
私が想思社を訪れたよりも後の、1983年に著者は水俣の袋という集落に生まれている。この集落の患者さんには何度か話を聞いたりしたので、その時会った誰かがこの著者の両親であったかもしれない。

   彼女は幼少の頃、胎児性水俣病の少女が身近にいて、その捩れた姿態のマネをしてからかうということを他の児童と一緒にしたことがある。それが彼女の心に棘のようにささって、成人して水俣を飛び出し世界を放浪して歩く。水俣に戻ってその少女だった女性に会い、謝罪することから彼女の水俣の生活がはじまる。この少女はおそらく学生時代私が京都を案内して歩いたシノブさんかキヨコさんであろう。それを想像すると、著者が20年近く前のことを謝罪する場面に相対する胎児性水俣病の女性の涙と笑顔が間近に浮かぶ。

   この本にも何度も登場する「苦海浄土」の石牟礼道子は、水俣病が奇病と言われ激しい差別を受け闇に葬られようとした時に、深く病に侵された患者の実存を黄泉の底から呼び起こす巫女であった。今、厖大な数と広がりをもった現れている水俣病が、社会の歯車に飲み込まれて裁断されようとしている時、その厖大な声を集めて語らせる著者は、新しい世代のよりまし、巫女である。
   やっとの思いで想思社への坂を登ってやってくる水俣病の声たちに、ただ聴くしかできないと自分の無力を嘆く著者にその石牟礼道子が言う。「あぁ、あなた、悶え加勢しよるとね。そのままでよかですよ。苦しい人がいるときに、その人の前をただおろおろとおろおろと、行ったり来たり。それだけで、その人はすこぉし楽になる。そのままでよかとですよ」

   また、水俣病を早く終わらせたい、新たに申請などしてまた水俣と騒がれたくないという多数の住民の感情と、認定申請を闘い取ろうとする人たちの間に立って、どちらも大切な故郷の人たちなのにと立ち尽くす著者に、原田正純医師が言う。「中立とは何か。多数派と少数派の中間に立って、強い者と弱い者の中間に立って、何が中立か。本当の中立とは少数者の側に立ってはじめて実現する」

   その彼女が、3・11原発事故災害後の福島の高校生に水俣を案内する。福島の子どもたちに水俣を案内することは、これからの福島を彼らに伝えることになる、それを彼らがどう受け止めるのかと考え、足がすくむ。それでも高校生達の真摯な反応に励まされて言う。「歴史や事実というのは簡単にすり替えられてしまうこと。国家やメディアの流す情報は真実か。だからお願い、あなたはあなたの福島を知ってあなた達自身を守って。そしてあなたの福島を伝え続けて。ひとりひとりが情報を発信するメディアになっていこう」と。

   ここにきて、もう1冊の、やはり80年代生まれの女性、疋田香澄が書いた本「原発事故後の子どもの保養支援」(人文書院)を思い出した。この本もまた、著者がよりましとなって福島の子どもと親の不安、葛藤、希望をそのまま伝えたものであった。その経験から考え抜いたひとりの女性が、国家の論理と対峙する、しかも弱い立場でありながら分断されている人々のすべての声を抱えたままであろうとする、その姿勢はこのふたりの女性に共通するものだ。

   次世代の巫女たちは、自分の迷いも世界の不条理と並べて抱えて立っている。

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