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対人支援と暴力

(2年前の野田小4女児虐待事件についての報道に寄せてFBに書いた記事を転載)

 僕はこの事件についてあまり詳細を知らない。それで言うのはどうしようかと迷っていたのだが、知らないがゆえに自由に想像したひとつの感想である。そう思って、事実関係とは別に読んでほしい。
 もちろん、児相の窓口となる職員が虐待についてきちんとした教育を受けていなかったのだとしたら論外である。

 そのようなことがなく、何らかのカリキュラムにのっとった研修を受けていたとして、ならば父親の脅迫に屈せずにやれていただろうか。僕はそうは思えない。この世間では、どのような形にせよ、人々は暴力と脅迫、そして権威に容易に屈している。(もちろん僕からして相手の力次第ではどうなるかわからない。いや、きっと屈する。)それだけ、多くの人々がそれまでの人生で、あるいは学校で職場で、さまざまな暴力に屈したという恥辱とトラウマと悔恨と、そして自己卑下と自信喪失にまみれているのだろう。
 多くの人がそういう傷を負いながら働いているだろう社会で、日常の業務の中に突然あらわれる暴力に立ち向かうということは難しい。それは、よほどかつてそのような体験を自分自身で立ち直る経験をして自分を鍛えることに成功してきた、ある意味運がよかった人だけにできることかもしれない。
 この事件で父親の脅迫的言動に応対した職員が、あるいは職場の人たちが、そのように常にこの世界の暴力に怯えてきた人々だったと考えてみると、どうだろう。この事件に違った見え方が現れてこないだろうか。

 おそらく最悪なのは、このような対応が世間の指弾をくらうことで、ある部署のある職務の責任が問われ、その個々人にまたさらに重責が覆い被さっていくことだ。形だけの研修と、外部の力に、たとえば警察に頼るだけのはなから形骸化した対応が仕込まれるだけになることだ。おそらくこの事件では、「警察をうまく利用する、頼る」ということすら麻痺してしまうような状況に組織全体が追い込まれている。だから、知識を伝達するだけの研修では意味がない。

 おそらく、これからの社会で対人支援に携わるということは容易ではない。対人関係の交渉をルールで代替しつくしてしまった現代社会では、いざ対人支援職となってから直面する課題に対する修練の機会が失われているからだ。(手練手管を操れる「悪の力」が援助職の側に失われていると言ったら誤解を招くだろうか。)
 社会に蔓延する悪の力、むき出しの権力関係、力だけがものを言うような関係がまれではない状況に、対人支援者として立つには、これまでの人生で暴力に屈した体験や自分自身が屈辱にまみれた経験を掘り下げるような苦痛を伴う訓練が必要なのかもしれない。
 もちろん、それは個々人の力量や能力に対してだけ訴えるものであってはならず、チームとして、組織としてそうするべきなのだが、だとしたらまたしても問題は、公的機関ではその人事によって集団としての一貫性連続性が保たれていないというところで雲散霧消してしまう。

 この現代社会において対人支援という職業は、おそらく従来の医学がその絶対的な知識を分け与えたり、福祉がさまざまな公共的手段を提供するという、与える者(援助者)と与えられる者(被援助者)という枠組からは遠く離れてしまった。なかでも虐待という問題は、自分たちの社会の、自分たちの日常生活に組み込まれてしまった「悪」なのだから。自分たちとは無縁であると思っていた悪が、突然自分たちに向けて牙を剥くのだ。

 この事件にかかわった個人や組織の対応が稚拙だったという議論にすませてしまってはいけないと、いつも、常日頃から対人支援のための組織を様々な個人を集めて運営している責任者として、切に思う。

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