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追悼、ジョン・ナッシュ ~ビューティフル・マインドからビューティフル・ワールドへ


 ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア(John Forbes Nash, Jr. 1928年6月13日 - 2015年5月23日)、アメリカ人の数学者。リーマン多様体の研究で大きな功績を残している。若い時にゲーム理論の研究に従事し、その時に証明したナッシュ均衡によって1994年にノーベル経済学賞を受賞した。2015年に非線形偏微分方程式論とその幾何解析への応用に関する貢献により、アーベル賞を受賞した。オセロで行われたその授賞式の帰途、交通事故により妻のアリシアとともに死去。

 ナッシュ自身はノーベル賞の対象となった「非協力ゲーム理論(ナッシュ均衡)」は、その天才をもってするにあたらないくだらない研究とみなしていた。最後の受賞となったアーベル賞は数学界では名誉も賞金額もノーベル賞に匹敵すると言われる。その受賞は、自分の人生にとってもっとも意義深いことであったに違いない。不慮の事故とはいえ、86歳にしてその賞を得た直後の死は、まさに人生をまっとうしたものと言えるだろう。

 しかし、経済学や数学に縁遠い私たちにとって、ナッシュの名は、ハリウッド映画「ビューティフル・マインド」(2002)によって知られている。この映画は、彼の天才数学者としての偉業と成功、及び後の統合失調症に苦しむ人生を描いた作品である。また、映画は統合失調症を発症した彼を支える妻アリシアとのラブストーリーとしても楽しめるし、この病気に対する精神科治療への示唆に富むものである。

 私にとって、ナッシュの名とこの映画には忘れられない思い出がある。この映画が日本公開となったのは2002年の秋であり、それはちょうど「精神分裂病」という病名を「統合失調症」と変更することが決まった直後であったのだ。

 その後、「老人性痴呆」が「認知症」となり、「精神遅滞」が「知的障害」と変えられていった後では想像することが困難かもしれないが、運命的で強烈な響きをもち、差別的な受け取り方と結びついていた「精神分裂病」という病名が変わるのになんと10年間という時間を要したのだ。精神障害者の家族会がこの病名の変更を要望してそれを学会が拒絶してから、私とともに何人かの当時若手だった精神科医が集まり、今後すべての医学において当事者の役割が増していき、医学が情報化社会の先端課題となることが予想される中で、当事者・家族を苦しめるこのような病名を残していてよいわけがないと、学会の中に病名変更のための委員会を立ち上げて活動をはじめたのが1992年であった。当時はまだ、学会のオーソリティを占める人たちは、「素人」である家族会が医学に口を出すのはけしからんと公然と語り、精神医療の改革を実践している医師たちからは、病名を変えるというのは現実をごまかす姑息な手段だという非難があった。

 それに対して地道に学会員のアンケートをとったり、学問的な面でも精神医学の全体とからめて何度も議論の場所をもうけ、変更に反対、懐疑的な人たちと討論してきたのである。それがマスコミに認知され、家族会と共同で病名変更に関する新聞の一面広告を出しその是非と可能性を一般に問うた頃から潮目が変わり、2002年横浜で開催された世界精神医学会と日本精神神経学会の合同大会で「統合失調症」という新しい病名が決まったのだ。

 この動きに協力してくれたのが、外資系製薬企業のイーライ・リリーであった。当時、世界精神医学会が精神障害に対するアンチ・スティグマ(差別に反対する)活動を精力的に行っており、イーライ・リリーはそれを積極的に援助していた。一千万円はかかると言われる新聞での一面広告についても、この会社の援助があったという。(当時の家族会(ぜんかれん)の内部のことであり私にはつまびらかではないが、この時の資金も「ぜんかれん」の解散にいたる経緯にからんでいたという噂も聞いた。)日本の学会が行っている病名変更の動きは、そのアンチ・スティグマ活動の一環とされ、そのことが学会の上層部を説得する武器となり病名変更が進められたのである。

 私個人は、病名の変更が差別を解消するなどとは思っていなかったが、これからくるべき医療の情報化、当事者参加への変化に対して「精神分裂病」を破棄することは喫緊の課題と考えていたので、アンチ・スティグマ活動は徹底的に利用させてもらった。そのことで、以前から製薬資本を批判する文章をおおやけにしていたにもかかわらず、リリーの人たちと、そのコンサルであった電通などの広告会社の人たちとは会議を重ねるとともによく飲み食いした。(その頃紹介された祇園の店はその後もよく使った。また、後の医療観察法反対運動での新聞広告も、この時の経験があってできたことである。)

 企業としての製薬会社にとっては、アンチ・スティグマ活動は格好の宣伝であり、その頃から急速に市場に出ることになる非定型抗精神病薬を売るための「疾病喧伝」であることはわかっていた。しかし、ひとりひとりの社員はそのような大きな動きとは関係なく、活動そのものに仕事の喜びを見いだしており、彼らとの情報戦略の話には大いに楽しんだ。当時リリーの広報室にいたWさんは、酒豪かつ開放的で会社の顔となっていた女性であり、私の批判的な動きも知った上で「私は高木ウオッチャーなのよ」と言ってくれていた。

 その病名変更がなった年に、映画「ビューティフル・マインド」が公開された。この映画の公開に対してはイーライ・リリーの働きかけがあった。試写会があった時期には病名変更の決定が出ておらず、「精神分裂病」と翻訳される見込みであったが、変更が決定すると同時にリリーが資金を出して、日本公開では映画の冒頭に病名が変更となったアナウンスが入り、この大ヒットとなった映画が「統合失調症」という病名の船出を飾ることになった。

 病名変更が成った後はアンチ・スティグマ活動として「Perspectives on the Stigma of Mental Illness」という本の翻訳を進めていたが、そこにナッシュの世界精神医学会マドリッド大会で行った「Rational Thinking -Is It Easy or Hard?」という講演も入っており、ナッシュはすでに精神医学界の有名人であった。その翻訳作業は結局出版にはいたらず、当時の訳文がどのようになったか、今は私の記憶が散逸してしまっている。その後、一期だけ学会理事となってこの「アンチ・スティグマ委員会」の活動を任されたが、もともとこの活動にはたいして意味を見いだしていなかったし、病名変更であたかも差別がなくせるかのように言う学者たちの浅薄さに嫌気がさして、以後学会からは遠ざかってしまった。今では学会専門医の資格も放棄している。

 そのナッシュの伝記映画の原作となったのが、シルヴィア・ナサー著「ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡」(1998;翻訳2002、新潮社)である。映画では、例えば幻聴のように映像表現できない症状について、映画的表現として幻の少女を登場させて幻視にするなど、エンターテイメントの限界があるが、こちらの原著は本人の体験を本人自身からの綿密なインタビューと、病状の最中にあった手紙やメモ、同僚やアリシア、そして前妻からの聞き取りによって、伝記物語としてだけでなく、みごとな病歴記録として価値のあるものになっている。そこに描かれた統合失調症の一症例としてのナッシュの記録、本人の語り、家族や同僚の反応、統合失調症についての一般的解説は、どのような精神医学の教科書にもまさるものだと言ってよい。

 映画では妻アリシアはひじょうに献身的に何十年もの歳月を耐えた女性として描かれているが、実際にはナッシュとは30年以上離婚しており、晩年に再婚している。もちろんその間の惜しみない援助は続くのだが、ナッシュはといえば、その間妄想に浸りながら一方で私生児である長男をもうけた女性との関係を復活させているのだ。また、ノーベル賞受賞当時、アリシアとの子どもである次男がナッシュと同じく統合失調症を患い、増悪と寛解を繰り返して入院生活を送っていた。また、映画ではアリシアを白人女優が演じていたが、彼女はエルサルバドル出身の黒髪の女性であり、後にナッシュの精神病に悩まされていた頃には、病気の原因が自分がWASPではないことにあるのではないかと悩んでいる。当時、統合失調症の発病の原因に彼女の妊娠があると、精神分析的な医師に指摘されていたのである。

 ナッシュは「ナッシュ均衡」を解のひとつとする「非協力ゲーム理論」によってノーベル賞を受賞している。これは、第二次世界大戦中にフォン・ノイマンらがその基礎を打ち立てたゲーム理論の発展である。だが、ノイマンの理論には交渉する二人の人間は利己的かつ理性的であるゆえに互いの利益を最大化するように協力するという仮定があり、この「協力にいたる」という仮定が現実の交渉には当てはまらないとして、ノイマンの理論をも包含する理論が「非協力ゲーム理論」であった。

 これについては伝記作家のナサーが面白い解釈を書いている。「ヨーロッパのコーヒーショップにおける議論を通して成長し、原爆とコンピュータの政策では共同作業でことにあたったフォン・ノイマンは、人間を社会的存在であり、常に協調し得るものと見なしていた。そのような彼が、協力と提携、共同行為をもっも重視したのは当然である。ナッシュは、人間とはたがいの接触を嫌い、それぞれ勝手に行動するものと考えていた。その彼にとっては、人間とは個人的動機に基づいて反応するという思想のほうが、はるかに自然に思われた」というのである。事実、若い頃のナッシュは、行動は奇矯で、他人の心は省みず、自己中心的な、しかし数学では希にみる天才だとみなされていた。多くの人は、妻のアリシアも含めて、最初は彼の人間性にではなく、その才能に魅入られ、彼との困難な接触に入っていったのだ。「ナッシュは、意地の悪い、社会性という点ではIQ12の子どもみたいでしたが、(親友となった)ロイドはその才能を高く評価していました」という証言もある。

 ゲーム理論で名声を博したナッシュは、その後米空軍が核戦争を中心とした戦略について研究するために全米の有能な科学者を集めたサンタモニカのランド研究所に就職し、そこで軍事機密に携わるようになる。ここの資金は原子力委員会からも提供されており、冷戦の一方の中心地であり、その秘密主義、機密厳守の管理体制はひじょうに厳しいものであった。ナッシュが後に発展させた妄想には、ここでの仕事の経験が大きく影響している。ふたたびサナーによれば「ひとりの人間として見た場合、自分の内と外に対するナッシュのものの見方は、常に微妙なかたちでランドの時代精神─合理的行動や数量化の重視、地政学に対する強い関心、オリュンポス神殿特有の、超俗性とパラノイアと誇大妄想の奇妙な混合物─に染まってい」た。

 ナッシュのゲーム理論が、その後経済学に大きく取り入れられ、合理的な経済活動を行う仮定された人間が市場で自由に振る舞うことが、経済的に最適となるという、現在の主流経済学、つまり新古典主義をみちびく最初のきっかけとなったことは大きな皮肉である。ノーベル賞を騙りながら、その実は世界的な銀行資本の傀儡とも言われているノーベル経済学賞がナッシュに与えられたのも、この経緯を抜きには語れないだろう。現在の世界経済を牛耳り、そして脅かしているマネタリストもニュー・ケインジアンもナッシュなしでは生まれなかった思想なのである。

 だが、これらの新しい経済学の根本にある「人間は自己の経済的利益が最大となるように完全に理性的に振る舞うホモ・エコノミクスである」という仮定、あるいはその変奏である「人間は完璧に理性的ではないかもしれないが、その程度は数量化できる存在である」という仮定も、その理性の罠である妄想にとらわれたナッシュ自身が、人生をかけて否定したものではないだろうか。

 ナッシュ自身は、数学者として人間理性に最大の価値を置き続けている。そして、彼自身はノーベル賞受賞スピーチなどで、自分が統合失調症から回復しえたのは、残された理性を駆使したからだという意味のことも言っている。しかし、彼は短い自伝のしめくくりに次のような示唆的なことを述べているのだ。「そうして現在では、私は科学者に特徴的な仕方でもって再び理性的に思考しているように思える。しかしながらこれは身体的な障害からよい身体的健康を取り戻した人のような無条件の喜びの状態ではない。その一端は、理性的な思索は人と宇宙の関係についての概念に制限を課するということである。たとえば、ゾロアスター教の信者でない人は、ツァラトゥストラを単に、何百万の純真な人々に向かって拝火の宗教儀式を取り入れるように唆した狂人として考えるかもしれない。しかし、その「狂気さ」無くしてはツァラトゥストラは、生を受けたが忘れ去られていった何百万あるいは何十億万人のうちの単なる一人にすぎなかったにちがいない」と。

 そして、ナッシュ自身がどのように考えていようとも、彼の伝記にあらわされた妻のアリシアをはじめ、多くの同僚たちの経験、言葉、ナッシュへの尊敬と思いやりこそが、彼の病を癒していったものであることは間違いない。

 ナッシュが統合失調症の幻覚妄想が慢性的に続き、意欲や自発性、社会的交流なくボロを着て、映画でクローが演じたようにカバンを抱きしめて背をかがめて大学構内を歩き回っていたとき、学生やもと同僚は彼を「プリンストンの幽霊」と呼びながらも、「大学は静かで安全で、講義室にも図書館にも食堂にも自由に出入りできた。ほとんどの人が彼に敬意を払い、当人がその気になればみんな話し相手になってくれるが、相手のほうから押しつけがましくしてくることはな」く、そのために「ナッシュにとって、プリンストンが、治療効果のある環境の機能を果たした」のである。

 30年にわたり、激しい幻覚妄想で3回の入院をし、その後半は妻のアリシアをはじめ彼への尊敬を保ち続けた人々の間で長い時間をかけて自らの理性の力を取り戻していったナッシュの物語は、統合失調症の回復にとって必要なものが、「安全」と「自由」そして「親密さ」なのだということをはっきりと語っているのではないだろうか。

 晩年のナッシュが、青年時代の傲慢で自己中心的、他人の心を省みない冷淡な人間でなく、「悲しみや喜びや愛着心を友人たちに隠すことなく打ち明け」、若い頃の人格の特徴をなしていた「理性と感情のくいちがいは、今では明らかに消え失せ」ていた。妻のアリシアは、そんな彼を「とてもすてきな人間」になったと言うのである。

 ナッシュという個人が孤立のうちに秘めていた「ビューティフル・マインド」が「ビューティフル・ワールド」へと放たれたのだ。

 最後にもうひとつ、ナッシュに関連した忘れられない思い出を書いておきたい。これは、ナッシュを今ほどには理解しえず、彼を讃える風潮に軽々しく乗っかるだけでいた私の悔恨である。

 ビューティフル・マインドの公開より少し前、大学の数学科の助手が教授に連れられて私の診察室にやってきた。教室で将来を嘱望されて留学したが、その留学中に幻覚妄想を発症したのである。帰国後も幻聴は続き、ほとんど部屋にひきこもって過ごすようになった。地方出身の神童としての期待を背負って進学し、期待にそむかず業績を上げて留学し、そして挫折した、理性的ななかにも誠実で穏やかそうな性格がうかがわれる好青年であった。病気については最初からしっかり理解しており、服薬により幻聴も和らいだが、意欲がわかず抑うつ的な状態が続いた。

 映画が公開されたのをきっかけに、病気にうちひしがれて、将来を悩む彼に、ナッシュのことを話した。当然彼もナッシュは知っていたが、伝記の存在は知らず、ほとんどが作り話だと思っていたようである。ナッシュに関する話題はしばらく続き、この病気が治りうること、病気の後にもナッシュが業績を上げてきたことを希望とするようになった。

 だが、うつ状態が深まるとすべてに悲観的になり、30歳半ばの誕生日を越えた時から「いくら病気が治っても、僕の数学者としての人生は終わりです」と語るようになった。そして、ある冬の朝、下宿近くの公園で縊死してるのが発見された。

 数ヶ月してから、ひとりの女性が私の前に現れた。彼の婚約者であったと言う。病気が和らいだら結婚することになっていたが、最近の彼は私には何も語ってくれなかった、彼がいったい診察に来てどんなことを話していたのかを知りたい、とうつむいて涙をこらえて語ってくれた。だが、私とて、短い診察時間の中で他の数学者の話をしていただけだ。ほんとうの彼の絶望には、何も届いてはいなかったのだろう。彼女に語るべきこともあまりなく、それでも彼女は丁寧に礼を述べて去っていった。

 ナッシュの人生を、その後もう少し詳しく辿ることで、今の私なら彼にナッシュのことを話すことはないだろう。だが、その他に語るべき何かを、当時も今も私はもっているだろうか。


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